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そして、轟く雷鳴、自販機の切れかけた照明の中、寝返りを打つ研修医。不意に、彼の音楽プレイヤーから流れてきた「キス・ミー」。彼の瞳は黒く澄んでいて、あの日、祐子は自ら手を伸ばし、彼の唇にキスをした。そして......、2人は朝まで互いを貪るように抱き合った。恋愛には引っ込み思案の祐子だったが、あの夜は非日常の中にいたからか、大胆になれた。そして、祐子は彼の白衣を2人でまとって、彼の腕枕で安らかな気持ちで眠った。こんなに安心して眠れ
たのは、いつ以来だろう。しかし、やがて朝が来て、小さな天窓から陽が差し込み、慌ただしい日常が戻って来る。この時、彼のポケベルがけたたましく鳴った。医局からの呼び出しだ。彼は当時、外科の研修医だった。
「行かなきゃ......」
「うん」
「あの名前......」
遮るように、再び彼のポケベルが鳴る。
「また、ここで会えるよな」
「うん」
「じゃあ、また後で」
「うん、後で」
こうして、二人は名前も連絡先も知らぬまま別れた。もしあの時、呼び出しのポケベルが鳴らなかったら......。もしあの日、祐子が先輩栄養士の嫌がらせに我慢ならず、先輩をぶん殴らなかったら(そのせいで、祐子は病院を去ることになった)......。
もしかしたら、圭一郎の言う通り、湾岸のマンションでの生活は夢ではなく、もう一つの人生だったのかもしれない。
祐子と圭一郎は見つめ合う。そんな二人を包み込む「キス・ミー」。甘くてポジティブな曲調。二十年の時を経て、今となっては切なくも感じる。今度は彼から、祐子の頬に手を伸ばしてきた。でも......
「......帰ります」
と、祐子はバッグを持つ。キスはもう、できない。したくても......、
「家族が待ってるから」
祐子は部屋を出た。玄関先で靴を履いている時、リビングから圭一郎の声にもならない嗚咽が聞こえてきた。彼もきっと、妻の死という過酷な現実から逃避したかったのかもしれない。祐子との生活に少なからず、救われていたのだろう。今回のことは、みんな、少なからず、傷つき、救われた。
最終電車には少し早かったが、祐子は車を駅のロータリーへ走らせた。すると、駅の出口ではメタボ旦那が小さく背中を丸めて立っていた。手には、小さな花のブーケを持って......。
「プレゼントなんて、いつ以来かしら。きっとユウコさんの入れ知恵ね」
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