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仕事から帰ると、彼がいなくなっていた。狭い1LDKはやけにがらんとして、一瞬、部屋を間違えたのかと思うくらいだった。
それもそのはず、ゲーム機や車雑誌の並ぶマガジンラックは姿を消し、クローゼットの中の服も、本棚の本も、きっちり彼のぶんだけなくなっている。洗面所の歯ブラシまで持ち去る徹底ぶりに、思わず感心の息が漏れた。
たぶん、予兆はあった。近ごろは二人の休みが重なっても、別々に出かけることが多かった。食事中はテレビばかりが喋っていて、「美味しい」の一言さえ交わさなくなっていた。仲のいいカップルはお互いを空気のように感じるというけれど、私たちの場合は、お互いの存在を息苦しく感じはじめていたのかもしれない。
ダイニングテーブルの上には、今月ぶんの家賃が置いてあった。重石代わりに、キャラメルの箱が載っている。数年前に煙草をやめた彼が、口さみしいときにといつも持ち歩いていたものだ。
手に取って振ると、カタカタと音がした。私はキャラメルを一粒取り出し、半透明の包み紙を剥く。
「家賃って……今日、まだ二日なのに」
丸々一か月ぶん置いていく律儀さが、なんとも彼らしい。
(そういうところも、好きだったんだけどな)
複雑な思いで、四角いキャラメルを口に入れる。
「……甘い」
なんとなく、苦いんじゃないかと思っていた。別れた恋人が残していった、キャラメルなんて。
けれど、そんなことはなかった。舌で転がすととろりと角が取れて、子供のころからなじんだ深い甘みが口中に広がる。
ふと、彼が禁煙したときのことを思い出した。
――おまえ、煙草嫌いだろ。これからはこいつにするよ。
キャラメルの黄色い箱を印籠のように掲げ、彼はそう言ったのだ。真面目な顔とキャラメルの取り合わせがおかしくて、笑ったのを憶えている。
あのころは幸せだった。車で出かけた夜の海岸も、特売の肉ばかりのささやかな焼き肉パーティーも、部屋で本を読みふけった雨の休日も。二人一緒なら、すべてが特別に思えた。
キャラメルを転がすたび、記憶の中の彼の表情もころころと変化する。笑ったり、驚いたり、真顔になったり。きっと私も、同じような顔を彼に見せていたに違いない。
(ありがとう、思い出させてくれて)
キャラメルの箱を握りしめ、その手で涙をぬぐった。
終わってしまったこの恋は、間違いなく甘かったのだ。
(了)
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