1人が本棚に入れています
本棚に追加
サンダルを脱いで砂に素足を付けたとき、あっと思った。
熱くない。
普通なら、熱い、と、騒ぐのだろうが、熱いだろうと思い込んでいた私には、むしろ多少ひんやりとした砂の感触は意外であり、思わず笑みがこぼれた。
「琴子さん」
朗さんの穏やかな声がしたので、私は振り向く。日傘の向きをくるりと変えて、白いワンピースの裾がわざとゆれるように。かろうじて耳が隠れるくらいの短い髪が、風でふわりと舞うように。
「なんでしょう?」
小首をかしげた私を見て、朗さんは眉をひそめた。
「琴子さん、お時間です。そろそろ帰らないと皆さんが心配する」
行きますよ、と朗さんは私の隣に歩み寄り、かがんでサンダルを拾った。
「痛くはないんですか?」
「大丈夫よ」
「それは良かった」
朗さんが微笑む。この笑顔に出会えただけでも、私の人生は幸せだったと言えるだろう。大げさよ、と友人には言われるけれど、事実なのだから訂正する気はさらさらない。
「さあ、どうぞ」
青年らしい細く長い指をサンダルのストラップに引っ掛け、朗さんは、もう片方の手で私の腕を優しく掴む。促されるまでもない。私は勢いよく、不本意ながらも、ややはしたなく、車椅子の座席に腰をおろした。
「楽しめましたか?」
「ええ」
短い会話の間に、私の足には朗さんの手によりサンダルが履かされた。軽く砂を払われたとき、くすぐったくて笑ってしまったが、照れ隠しについ口調がおどけてしまう。
「おばあちゃんの足だから、恥ずかしいわ」
年甲斐もなくはにかむ私に、朗さんは笑いながら首を振る。
「おきれいですよ」
孫ほどの年齢の朗さんだが、私や、他の入居者のことを不必要に年寄り扱いしないのは、ヘルパーという職務のためではなく、彼の人柄なのだと思う。
薄情な娘や孫はほとんど会いにはこないが、たまに来ると必ず、朗さんで良かったね、と言うのだ。それを聞くたびに私は、卑屈な意味でなく、娘たちが見放してくれたからよ、と心の中でほくそ笑む。
「帰りましょう」
私の言葉に、はい、と朗さんは頷き、車椅子の向きを静かに変えた。
砂浜には、綺麗な2本の轍がある。朗さんの足跡を包むようにまっすぐのびたその道を、今度はなぞるように帰るのだ。
夏のひととき、朗さんと砂浜で過ごした思い出を胸に。
砂浜のように白い、ざらついたコンクリートの四角い箱へ。
終の棲み家へ帰るのだ。
了
最初のコメントを投稿しよう!