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車は飲み屋街へと移動し、やがて一件の店の前で止まった。
店の外に置いてある看板には『スナック華』と書かれている。その店は兄さんと会う時、いつも待ち合わせ場所にしている店だ。
森下が素早く車から降りた。そして、奴は後部座席の扉を開ける。開いた扉の向こうに降りると、扉が閉まる音が聞こえた。
店の扉を開けて中へ入る。小ぢんまりとした店内は落ち着きがあり、心が安らぐ。
先客が四人いた。一人は中年の男で、もう二人は若い男。そして、最後の一人は兄さんだ。
「あら、ゆうちゃんいらっしゃい」
俺が入ってきたことに気づいた初老くらいの女が笑顔を見せる。スナック華のママである華恵だ。
華恵ママは波打った長い髪を掻き上げて、濃艶の笑みを浮かべている。とても四十歳だとは思えないその風貌は、男を魅了させてばかりだ。
「また歌っているのか?」
「ええ、またあの曲よ」
兄さんのことだ。ソファーに踏ん反って座っている兄さんは、歌うことに夢中になっているあまり俺の存在に気付いていない。
兄さんが歌っているのは、片想いの曲。華恵ママは気付いていないが、兄さんはいつも彼女に向けて歌っているのだ。
カウンター席に座ると、お通しと酒が出された。酒はいつも飲む麦焼酎。無論、ロックだ。
俺はそれを胃に流し込む。喉が焼けるような感覚が妙に心地よい。
「なんか、来ちょうなら声かけれちゃ」
すると、歌い終えた兄さんが俺の隣に座った。厳めしい顔つきの兄さんは一気にビールを飲み干し、
「お前も何か歌え。歌わんとくらす(殴る)」
筑豊寄りの方言を話す兄さんは、少し強引だ。
畠中博俊はそういう男だ。しかし、畠中の兄さんには悪気がない。
「はい」
断れば後々面倒なことになる。俺は渋々歌うことにした。
選んだのは、別れの曲だ。なぜその曲にしたのか自分でも分からないが、俺は優里のことを考えながら歌い続ける。
「ゆうちゃんの歌はいつ聞いてもいいわね」
と華恵ママが呟いた瞬間、畠中の兄さんが俺を睨む。
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