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終章【終わりの始まり】
私は、クルーザーのデッキで、柵に凭れて海を見ていた。
驚くほど晴れ渡った空に、穏やかな海。その境界線から、二色の青が上下に向かってグラデーションを描いていた。
何者にも邪魔されない澄んだ美しさは、海の真ん中にいるからこそ、いっそうに際立っていた。船の先頭に立つ私からすると、三方を青に囲まれているに等しいのだ。
空を飛んでいるようにさえ感じる。
「タイタニックか?」
先生の声がして、私は振り返った――いや、振り返ろうとした。私の行動を遮るように先生が後ろから私の腰を支えたために、結局私は、柵から海を眺めたままの姿勢で動きを止めた。
「タイタニックって、船ですよね。昔、あの船を題材にした映画があったって聞きました」
「……昔。昔か、そうか、きみからすれば昔か」
先生が不機嫌な声で言って初めて、失言に気づいた。
「すみません。先生にとってはつい昨日のような出来事……むぎゅ」
私の肩から腕を回してきた先生が、振り返ろうとした私の頬を掴んだ。両頬を押しつぶされた状態で、私はむぅと不貞腐れる。
「年頃の娘の頬をつぶすなんて、何考えてるんです? ただでさえ十人前の顔なのに、不細工になったらどうするんですか」
「きみはお世辞にも綺麗ではないが、そのままでいい」
「馬鹿にしてます?」
「……見た目まで美しくなったら、周りが放っておかないからな」
「むふふ、やきもちですか?」
茶化して言ったあと、長い沈黙が下りた。私は、軽い冗談のつもりで言ったことを後悔する。背後が見えないだけに、先生が私に気を使って言葉を探しているのか、呆れて返事すら必要ないと思っているのか、それもわからない。
「せ、せんせい?」
「それにしても、随分と大きなクルーザーだな。国家公務員の権力は、心から腹立たしい」
強引に話を変えた先生は、私の頭上でため息をつく。
私たちが乗っているのは、警察が用意した大型クルーザーだった。ボディは白地で、黒い帯のような線とポリスと英語で書かれた文字が目立つ。やや旧式だが、私たちを島へ送り届けたクルーザーよりも二回りほど大きくて、安定感があった。
二泊が終えた、三日目の朝。
迎えのクルーザーがくると(実は皆、本当に迎えがくるのか半信半疑だったことは今朝方知った)、操縦士のおじさんに本土に連絡をとってもらった。
警察がくるまで、私たちは島で待機した。本当はすぐにでも帰りたかったが、現場を離れるのは痛くもない腹を探られる羽目になりかねない。
そして、警察の船が到着し、一通り捜査が終えるまで私たちは船内で待機となり、昼を過ぎたころにようやく本土へ戻ることになった。
解放されるまでかなりの時間がかかると予想していたけれど、小奈津が自白し、犯行の手口から動機まですべてを話したために、私たちは本土へ返しても問題ないと判断されたのだ。
「こうして、すぐ来てくださったんですから、いいじゃないですか」
「そもそも、警察が八年前の事件を解決していたら起きなかったことだ。それに、確かに警察は三十分もせずに島へきた。だが、船内でどれだけ待たせた? 現場捜査くらいさっさと終わらせればいい。長引くものは別扱いにして、二泊三日を島で過ごした私たちの体調面も考慮されてしかるべきだ」
私は苦笑して、そうですね、と答えた。
また沈黙が下りたが、先生はいっこうに動こうとしない。私の背後で腰をささえたままだ。おそらく頭の少し上あたりに顔があるので、見上げれば表情が伺えるかもしれない。頬に添えてある手が緩んできたので、頭上を仰ぎみようとしたが、叶わなかった。
「むぐぅ」
「前を向いていろ」
もはや、鷲掴み。アイアンクローに近い。
頬っぺたをつぶされたまま、しぶしぶ前を向いた。
「あのとき、私が名乗り出ていれば、きみは変わっていたか」
酷く硬い声だった。一気に緊張が身体に根を張ったが、柔らかい風に吹かれて、何度か穏やかな呼吸を繰り返すと、次第に腰にある手のぬくもりに微笑を浮かべていた。
「変わらなかったと思います」
「……そうか。だがあの日、私がしっかりと歩いていれば、きみを突き飛ばすことがなければ、きみは今頃母子で幸せに暮らしていただろう」
「先生、『かもしれない』なんて、意味がないんですよ。過去は変えられませんから」
先生はそれに、沈黙をもって答えた。何を考えているのか真意を掴みかねて、私は、腰にそえられた手に、自分の手を重ねた。先生の手のぬくもりが無性に心地よくて、気を緩めると、泣いてしまいそうだった。
「……ねぇ、先生」
「なんだ」
返事をくれたことに安堵しつつ、ふふっ、と笑った。
「私、今こうして、先生といれることが、とても幸せだなって思います」
「なんだそれは」
「あ、呆れた声をしてる」
「当たり前だ。唐突すぎて意味がわからん。まさか、私を慰めようとでもしているのか?」
「慰めてほしいんですか?」
べつに、と不貞腐れたように呟く先生はきっと、叱られた子どものような顔をしているだろう。
そのあと、二人で海を眺めたあと、船内へ戻った。
所々に警察が立っており、なんとなく居心地が悪かったので、先生と私は、与えられた個室へこもる。個室を貸してくれたことこそ、神経をすり減らして二泊を過ごした私たちへの配慮だろうが、なぜかまた私と先生は二人で一つの部屋なのだった。
やってきた警察のなかに知り合いが居たらしいシノザキ刑事が、口をきいてくれたのかもしれない。
ビジネスホテルのような一室のソファに、先生が座ったのを確認したあと。
私は、えいっ、と声に出して、先生に飛びついた。先生は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに平然と抱き留めて、膝に横抱きに座らせてくれる。
「ふふ、なんだか親子みたいですね」
「せめて恋人同士のよう、と言ってくれ」
そんな歳じゃない、と憮然という先生は、いつもの先生だ。何も変わらない、これまでと同じ反応が、こんなにも嬉しいと思う自分が不思議だった。
胸の奥には、まだまだ二日の惨劇の記憶や傷が深く残っているのに、私は今のこの優しさに満ちた雰囲気を壊したくなくて、何も言わず、ただ、先生の首にしがみついた。
「ねぇ、先生」
耳元で、そっと呟くと。なんだ、と不機嫌な声が返事をする。その声に軽く笑って、言葉を続けた。
「今回は、沢山の偶然が重なりました。四年前の事故現場に、小奈津が居合わせたこと。車を運転していた夫婦が、小奈津が探していた恋人の仇のひとりだったこと。私にぶつかったのが先生で、先生は祖父と親しい間柄だったこと」
「……改めてきくと、偶然とは思えんな」
「こういうのって、必然っていうんですよ」
きっと今、先生はさぞ馬鹿にした顔をしていることだろう。見れないのが残念だ。
「だとしたら、だ。必然とは残酷だな。きみの母は、必然とやらで死んだのだから」
「先生、必然は偶然と同じなんですよ」
「もはや、意味がわからん。きみは結局、何が言いたいんだ」
私はそっと手を緩めて、先生の表情を覗き見た。案の定、馬鹿にしたように眉をひそめ、口をへの字に曲げている。
「色々ありましたけど、家に帰れることが嬉しいんです」
「なんだそれは」
「私、生きていて、よかった」
先生が目を見張るのがわかった。
四年前の事故で、三人の人間が死んだ。私が殺したようなものだろう。被害者遺族の少女に恨まれるのも当然だ。
それらを知ってなお、私は今、私がここで生きていることを幸福と思う。生涯、罪悪感は付きまとうだろうけれど、それでも、もう、死にたいと思ったり、怠惰な生への執着は、しないだろう。
背中に暖かく大きな手が回されて、私は身体を強張らせた。ふと笑う先生の気配がする。
「何を緊張してるんだ。何度もこうして、抱きしめてきたのに」
「変ですよね。……私、今、生きてるんですよ。こう、私を覆っていた幕がなくなったというか、世界がクリアに見えるんです」
「そうか。ならば、結局のところ、あの小奈津というきみの友人の思い通りにことが進んだのだろう」
唐突な、此度の事件の話題に、私は視線だけを先生に向けた。先生は無表情に、感情のない相貌で空中を睨んでいる。
「私はずっと、彼女に嫉妬していた。そしておそらく、生涯この敗北感に似た嫉妬は、変わらないと思う」
「彼女、って、小奈津ですか」
「そうだ。……私は誰よりもきみの傍にいた。何もしようとしない自分に歯がゆさと愚かさを募らせながら、きみが生き生きと蘇る様子を、見てきたんだ。きみの心を揺さぶり、生へ戻らせたのは、あの娘だ。私は何もしていないくせに、そのことが、悔しくて、嫉妬していた」
私は、驚いた。先生がこんな話をすることに対しても、先生が小奈津に劣等感を抱いていたことも。そして何より、そこまで私を気にかけてくれいたことに驚くと同時に、ただの同居人だと割り切って関わっていた自分が恥ずかしかった。
家に帰ったとき、おかえり、と言ってくれたのは誰だったか。
外出するとき、早く帰ってこい、と言って送り出してくれたのは誰だったか。
私に、本当の意味で帰る場所を与えてくれたのは、先生だ。
「――だから、こんな不甲斐ない私は、あの女に殺されても仕方がないと思った」
その一言に、私は凍りついた。強張る私の身体を、先生がゆっくりと向きを変えるように、抱きしめなおしてくれる。
「だが、あのナイフは偽物だった。最初から、私を殺すつもりはなかったらしい」
「そうですね。どうして小奈津は、あのとき、玩具のナイフを持っていたんでしょう」
小奈津は、少なくとも三人を殺した。そのなかの二人は、残酷という言葉では言い表せない無残な死骸となって発見した。
小奈津は、恋人を失った悲しみと絶望から、復讐に憑りつかれた殺人鬼になった彼女にとって、先生や私を殺すなんて、造作もないことだろうに。
「これは、私の想像だが。今回の連続殺人は、彼女の恋人への復讐だけの意味に留まらないのではないか、と思う」
「……と、言いますと?」
四年前の事件をきっかけに、私を、桜子が愛した小説の主人公と重ねた件だろうか。小奈津は私に執着し、事件のきっかけになった先生とともに、今回の事件へと招待したのは、間違いないだろう。
「生きたいのに殺される人間もいるんだぞ、ということを見せたかった、とかですか?」
それならば、怠惰に生きていた私に対する当てつけに出来るかもしれない。実際、私は今、自分の生き方について見直そうと考えているのだから。
先生は、暫く沈黙したのち、静かにため息をついた。
「認めたくはないが、きみを生まれ変わらせたかったんだろう」
「はい?」
「今回の事件を通して、四年前の事故について、きみは知らなかったことを知った。私が関わっていたこともそうだが、被害者夫婦が悪人であったこともそうだ。意図せず、きみは、きみを恨んでいた被害者夫婦の養女を救っていた。きみは勿論否定するだろう。だが、事実をすべて知ることで、きみは、過去の自分と決別できたのではないだろうか」
先生の言葉は長くて、やや遠回りだったけれど、なんとなく言おうとしていることは理解できた。
この二泊三日を過ごして、私のなかで変化が起きた。
ただのつり橋効果のような、まやかしではない、確固たる意志が根付いたのだ。ただ一つ、生きていく、という意志が。
「……小奈津は、私に生きていく意志を持ってほしかった。そう、言いたいんですか」
「これまでもそうだったように、これからも、彼女はきみに生きていてほしいのだろう。それが、彼女が人生全てをかけた連続殺人計画の、もう一つの意味だ」
涙があふれてきて、そっと先生の肩に顔をおしつけた。
小奈津が玩具のナイフを持っていたのは、私と先生を殺すつもりがなかったから。復讐劇に呼んだのは、私を生まれ変わらせるため。
小奈津にとって私は、なんだったのだろう。桜子が愛したという小説の主人公、というだけではなかったのか。それだけなのかもしれないし、違うかもしれない。実際のところはわからない。
だが、私がこの四年で小奈津から貰ったものは、どれだけの恩をもってしても、返せないほどだ。その事実は変えようがない。小奈津の意図が、純粋な善意でなかったとしても。
「緑川桜子の誕生日は、秋だそうだ」
唐突に先生が言った。
「な、なんですか、急に」
泣いていると悟られたくなくて、憮然と返すと。
先生は笑って、あやすように私の頭を軽くたたいた、。
「我々を島へ導いた招待状には、誕生日パーティへの参加と書いてなかったか? もっとも、それらしいことは何もなかったが」
「……あ」
確かに、不自然だ。
呼び出すだけならば、誕生日パーティなどという名目はいらないだろう。桜子の誕生日が秋だというのなら、尚更不自然極まりない。
「さて、一体誰の誕生日だろうな。きっと、誰かが『生きる決意』をした、もう一つの誕生日をあらわしていると、私は思うんだが」
息を呑んだ私に、先生が「おめでとう」と言った。
何がおめでとうだ、何もめでたくなどないのに。悪態をつこうとして、やめた。先生の想像はあながち間違いではないかもしれないのだから。
連続殺人という恐ろしい企てに巻き込まれて、恐怖の二夜を過ごした。
だが、その恐怖とは別の意味で、私にとって、今回の事件は、生涯忘れられないことになるだろう。
私は、確かに生き返った。
新たな誕生日を迎えたと言っても過言ではないほどに、生への執着が生まれた。
小奈津が先生へナイフを向けたとき、心の底から生きてほしいと願った。その根底には、先生とずっと一緒にいたいという、自分自身の生への望みもあったことを、私は知っているから。
そして。
たった一人の親友を失ったということも、忘れはしないだろう。
物事はあらゆる側面から見ることが出来る。
私にとって小奈津は親友で、私の生を望んでくれた親友だったけれど。
無残に人殺しをし、遺体さえ弄んだ残酷な殺人である彼女を、私はもう、友人とは呼べないのだから。
*
また一冊、小説を読み終えた私は、感慨深さにひとりで頷いた。
日常に戻ってきてから、相変わらず母屋の二階で暮らす先生に、大量の本を押し付けられた。読め、と言われて少しずつ消化しているのだが、どれもこれも面白い。
「まさか、推理小説がこんなに面白いなんて」
独り、ため息交じりに呟いたとき。
店内に来客があって、私は反射的に「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「お、いた。嬢ちゃん」
聞き覚えのある声だった。
来客を見ると、襟付きの城シャツと黒色の長ズボンを身に着け、羽織のジャケットを腕に掛けた篠崎刑事がいた。
季節は流れて夏になったが、彼は春に出会ったときのままだった。久しぶりに見た顔に、私は目をぱちくりとさせた。
大柄な体で書架の間を歩くと、彼ひとりで道いっぱいだ。丸太のような腕も、厳めしい表情も、変わらない。
私は店の奥、レジがあるカウンターから、篠崎刑事に会釈をした。
「こんにちは、刑事さん」
「おう、覚えてくれたのか。そりゃよかった」
篠崎刑事が、何気ない仕草で店内を見回した。
「今は、お客さんいませんよ」
「ん? よくわかったな。ほかの客を確認してるって」
「視線が、さっと動いていましたから。内装や本を見るのなら、一か所をじっくりみるか、ゆっくりと全体を見るはずでしょう?」
驚く篠崎刑事に笑ってみせた私は、傍に置いてあった椅子をすすめた。椅子といっても、踏み台に使っているものだ。
篠崎刑事は椅子に座ると、しげしげと私を見た。
「嬢ちゃん、変わったなぁ」
「よく言われます」
「はは、そうか。なんつーか、前の嬢ちゃんより、今の嬢ちゃんのほうがいいな。前はミステリアスだったけど、今はこう……癒し系?」
思わず笑ってしまう。
以前の私は、よく、何を考えているのかわからないと言われた。先生や小奈津がいないときの私は、おおよそ人の表情をしていなかったという。トラブルを避けるために浮かべていた微笑さえ、機械的で読めない姿だと思われていたと知ったときは、さすがに苦笑してしまった。
私は本当に、色々なことに気づけないでいたのだ。
「ん、本を読んでいたのか。読書家だなぁ」
「つい最近ですが、本を読み始めたんです。どれも面白かったですよ」
「げ、これ全部読んだのか」
私の隣にある小机には、おおよそ百冊近い小説が積んであった。
私はそれを見てから、篠崎刑事に向かって頷いた。
「意外に本って面白くて」
「古書屋って暇なのか?」
「それがそうでもないんです。店舗だけでは収入が足りないので、貴重な書物やフルセットのものはネット販売もしていますし、そういった手続きやウェブのお客様とのやり取りも必要で。……ああ、すみません。すぐに冷たいお茶をお持ちしますね」
ハンカチで汗をぬぐう篠崎刑事に気づいて、私はにっこり微笑んだ。立ち上がろうとした私を、篠崎刑事は慌てたように引き留めた。
「いやいや、いいんだ。俺はすぐ戻らないといけねぇし」
「もしかして、お仕事中ですか?」
驚いた私に、篠崎刑事は苦笑した。
「おう。あの事件のあと、色々あってなぁ。俺もほら、無関係じゃねぇだろ? んで、結論からいうと、こっちへ転勤になった」
あら、と私は驚いた。
篠崎刑事は、緑川桜子が暮らしていたM県の刑事だったはずだ。それがまさか、ここN県へ移動になるなんて。
だがこれで、M県にいるはずの彼がひょっこり現れた理由がわかった。
「んで、近くへ来る用事があったから、寄ってみたんだ。話しておきたいこともあったしな」
そう言ってから、篠崎刑事は鞄からペットボトルの炭酸飲料を取り出して飲んだ。余程喉が渇いていたようで、八割ほど残っていたドリンクが四割程度まで一瞬で減った。
店内は飲食禁止なんだが、お茶を勧めた手前言い出しにくくて、私は結局、彼が汗をぬぐって一息つくのをただ見守った。
「……それで、なんのご用ですか?」
タイミングをみて話を促すと、篠崎刑事は、おう、と気さくに頷く。
「例の凛木小奈津って名乗ってた、あの女だが。死んだよ」
私は、ゆっくりと篠崎刑事に顔を向けた。
何かを堪えるような顔で、彼は私を見ていた。
私は目を伏せた。
「そうですか」
例の事件――抜刀島で起きた連続殺人について、メディアが連日報道を続けたのは記憶に新しい。犯人である小奈津は実名で容疑者として取り上げられ、今の私は彼女の本名を知っている。
メディアは、どれほど残忍で、計画性があったのか、彼女をひたすら責めた。精神が歪んでいるだとか、育った家庭環境がどうのだとか、あることないこと報道するメディアに、私はひたすら苛立ちを募らせたものだ。
その報道のなかで、八年前の事件についても触れていたが、被害者となった三人の罪状についての報道はされなかった。表面を撫でるかのように、小奈津が彼らに恨みがあったということだけが、報道された。
「自殺、ですか」
「ああ」
詳しくは聞かなかった。小奈津が自殺した、その事実だけで充分だった。
「嬢ちゃんの慰めになるかわかんねぇが。殺された三人なんだがな、結構な非道を働いていたようだぜ。カンダは快楽殺人者でな、ほかの未解決事件にも関わっている可能性が出てきた。タクマは、桜子の死後、何人か女をストーキングしては秘密を握り、恐喝を繰り返してきた。被害者のなかには、自殺したやつもいる。あの教師は、招待状に書いてあったまま、婦女暴行が趣味だったらしいしな。救いようのねぇやつらだった」
「そうですか。……そんな人たちを殺したのなら、小奈津は彼らを超える悪人ですね」
篠崎刑事は何と言っていいかわからない、奇妙な顔をした。私は苦笑をして、首を横に振る。
「彼女は人殺しです。どんな理由があっても」
「そんな一言で、片付かんだろ。加害者と被害者の関係は」
小奈津もまた、大切な人を殺された被害者の一人だったと、篠崎刑事は言いたいのだ。
私はそれに、ただ苦笑した。ええ、とも、そうですか、とも言わなかった。
篠崎刑事は、ああ、と思い出したように肩をすくめた。
「それから、もう一つ。俺らも、招待状を受けた関係者として、徹底的に取り調べを受けただろ?」
篠崎刑事がげんなりした表情で言った。私も先生も、結構な質問攻めにあったが、刑事という立場の篠崎は、もっと過酷だったに違いない。彼が上司その他諸々の警察関係者に責められる姿を想像すると、哀れになった。
「まぁ、俺もお前たちも、聞き取りだけで充分だった。犯人との供述も一致しているしな。だが、あの男――峨朗善哉に関しては、そうはいかない。あいつは、八年前以上前に、勤めていた孤児院を退職しているが、今でも結構な悪事を働いているらしくてな。まぁ、俺らが知ってるあいつからは想像もでねぇんだが」
「ゼンヤさんが、どうかしたんですか?」
「聞き取り調査が終わったあと、桜子がいた孤児院を徹敵的に調べた。ゼンヤの供述通り、裏の組織が絡んでいてな。結構でかいヤマになりそうだ。まぁ、その流れっつーか、警察は当然、関与していたゼンヤのことも調べた」
「でも、ゼンヤさんは、孤児院が人身売買まがいのことをしてるって、知らなかったって」
「あくまで本人が言ってるだけで、確証はねぇからな。実際のところはわかんねぇ。だが、問題はあいつが孤児院を辞めたあとだ」
私は首を傾げた。
「あいつ、とんでもねぇやつだぜ」
篠崎刑事は懐から新聞の切り取りを取り出して、私に見せた。それは、昨年世間を騒がせた窃盗事件の記事だった。
これなら、私も知っている。
美術館の絵画が盗まれた事件だ。当時、その美術館では現代画家の展示会をしていた。窃盗が起きたのは、恐らく深夜。展示場は防犯センサーに警備を任せて、無人だったという。
犯人はそこへ目をつけたのだろう。展示会に飾ってあった絵画が、一作品を残して、たった一晩ですべて盗まれたのだ。
確か、今でも、犯人及び手口も含めて、不明のままだと聞いている。
一晩で絵画を盗んだ泥棒の手腕も勿論だが、世間を騒がせた理由は、盗まれなかった絵画に犯人が残した一言だ。
――『盗作は不要』
その一言が、絵画のうえに直接、赤字で書いてあったのだ。
「これ、よく覚えてます。目立ちたがり屋な泥棒だなぁって思って記憶があるので。でも、これが何か?」
「この事件で盗まれた絵画の何点かが、ゼンヤが潜伏していたと思しきアジトから見つかった」
私は目を丸くした。
潜伏だのアジトだの、なんだかドラマみたいだ。
「ほかにも、国内外で盗難された品が複数見つかっている」
「もしかしてゼンヤさんは、密売人の仕事を手伝っていた、とか」
篠崎刑事は、ふいに目を見張ったあと、苦笑した。
「嬢ちゃんはやつを信じてるんだなぁ」
「……ゼンヤさんは、いいひとですよ」
「さっき、とんでもねぇやつだったって言っただろうが」
「――つまり、その盗みの首謀者だったということだろう」
背後から低く不愉快そうな声がして、肩越しに振り返る。
先生が、寝起きの着物姿のまま、奥へ続くドアに凭れるようにして立っていた。
「よぉ、先生。久しぶりだが、相変わらず冴えてるなぁ」
「そのくらい誰でもわかる、そもそもお前は誰だ。私にはお前のように汚い顔の知り合いはいない」
安定の毒舌と、人の顔を覚えられない先生の癖が勃発し、古書屋のなかで男二人の言い争いが起きる。私はそんな二人をぼうっと眺めながら、先生の言葉を反芻した。
盗みの首謀者。
篠崎刑事の、国内外という言葉からも、かなりの大物であることが伺える。
盗みのプロ。展示場で盗みを働いた際の、華麗な手口。子どもじみた、優越感に浸るような『盗作は不要』と残された言葉。
それはまるで、江戸川乱歩小説に出てくる、あの怪人のようだ。
くすりと笑う。
ゼンヤはとてもいいひとだ。優しい人だ。けれど、だから悪人ではないと言い切れないし、本人も褒められない仕事をしていると言っていた。
何より、タクマが死体で発見されたあのとき、ゼンヤは人が醜いと言った。これはなんとなくだが、彼の意見を聞いたとき、ゼンヤには、不変の美しさを愛でる趣向があるのだろうと想像したのだ。
それはつまり、彫刻や絵画、骨董品などの美術品のことである。
「リン? どうした」
先生の訝る声で、ふと、顔をあげる。
「随分と嬉しそうだが」
「え? そうですか」
「私がすすめた小説が面白かったのだろう。基礎になる推理小説はおおむね打破したな。どれが好みだった?」
「うーん、この中だと、モーリス・ルヴェルが好みかなぁ。でも、エドガー・アラン・ポーを超える好みの作家はいないかも」
「ふむ、アラン・ポーは数学でいう数字そのものだからな」
「……例えの意味わかんねぇんだけど。つか、話し進めてもいいか?」
私は慌てて、篠崎刑事に謝罪をして、どうぞ、と言った。
飄々とした姿に忘れそうになるが、彼は刑事で仕事中。多忙な身なのだ。
「んで、峨朗善哉について警察は詳しく捜査した。そしたらまぁ、見つかった盗品の盗難を行った張本人である可能性が大いに浮上したわけだ。……そっちの先生が先に言っちまったけどな。それを、知らせておきたかった」
「わざわざありがとうございます」
「嬢ちゃん、ゼンヤとは仲良くしてたからな。ないとは思うが、向こうから関わってくるようなことがあれば、注意しろよ」
篠崎刑事は、よいしょ、という掛け声で立ち上がると、軽く手をあげた。
「まぁ、職場が近くだし、気が向いたらまた寄るわ」
「お待ちしています。あ、篠崎刑事」
踵を返した篠崎刑事を呼び止める。
振り向いた彼に、私は立ち上がって深々と頭をさげた。
「その節は本当にお世話になりました」
「ははっ、大袈裟だっつーの。つか、顔見れてよかった。嬢ちゃん、ほんと変わったなぁ。うんうん、いい傾向だ! ははっ」
じゃあな、と言って、今度こそ篠崎刑事は帰って行った。
「……シノザキ。ああ、あの孤島で会った刑事か」
先生の呟きに、そうですよ、と返す。篠崎刑事は冗談だと思ったかもしれないが、先生は本当に他人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだ。名前を憶えていただけでも凄いだろう。
先生は私の隣に腰を落とすと、店内を見回した。
「本には困らないな」
「売り物ですけどね」
「最近、ネット販売に力を入れているそうだな。買取も強化したようだ」
「ええ。これまでさぼっていたので、古書屋で食べていくために本格的に営業していこうと思います」
「ふむ。まぁ、生活に困ったら、私のところへ嫁にくればいい」
ぽん、と大きな手が頭を軽くたたく。
本気なのか冗談なのか、先生の言葉の真意を探る前に、先生が立ちあがった。
「さて、原稿の続きをするか」
「あ、先生。夕食は何が食べたいですか」
「つくし。この前のあれは美味しかった」
この前、というのはいつのことだろう。
私は苦笑を浮かべて、返事を返した。
「残念ながら時期的に終わっています。来年作りますよ」
「再来年もな。いや、その次も、その次の年もだ」
「はいはい、わかりました」
先生が、笑ったのを感じた。嬉しそうに肩まで揺らしている。そんな先生を見て、自分が未来を約束したことに気づいた。
最近、当たり前のように、今後のことを考えるようになった。未来に向けて行動するようになった。
今だけを生きていた私が、こんなふうに変わるなんて。
先生の背中を見送って、私はまた、読書に戻った。時折客が来て、店内をぶらつき、何人かが購入して帰っていく。
近所に住む常連客と談笑して、ネット販売のためにパソコンをうち、夕方の定時にシャッターを閉めた。
こうして、今日も終えていく。
明日が来て、明日も終わって、明後日がくる。
そんな当たり前のことを当たり前にできる私は、なんの変哲もない幸せ者なのだ。
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