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3、
「こういう場合、推理小説ではこのなかに犯人がいるんじゃないのか」
「あ? 馬鹿いえ、どう見ても、急にいなくなった教師のヤツが怪しいだろ」
「大体、ああいうやつは早々に殺されるんだ。今頃死体になっているかもしれない」
「……お前、物騒なこと言うなぁ。最初に殺されそうな見た目のくせに」
「本当にお前は刑事か? 今のは侮辱だぞ、人権侵害だ」
シノザキ刑事とゼンヤが、話をしている声がする。私は、霞かかった意識のなかで、話を聞いている。
「んで、そっちの作家先生はどう思う? 犯人、このなかに居ると思うか?」
「さぁな。今は、リンの回復が優先だ。犯人など、どうでもいい」
「本当に好きだなぁ、この子が」
「ああ」
「言い切ったよ、こいつ。照れるとかねぇのか」
「私のことよりも、今しがた聞いたそっちの……鼻の男の話からすると――」
「せめて、小柄な男と言ってくれ」
「小柄な男の話によると、四年前の事故で死んだ夫婦は、桜子の養父母だった。しかもその養父母はひどい悪人で、未成年を養子にしては売春で稼がせていた。そこまでは、あっているか?」
「ああ。……お前がいう事故が、桜子の養父母の事故だと、仮定するならばの話だが」
先生が、盛大なため息をついた。
そのため息には、私まで苦しくなってしまうような、苦悩があった。
両親が死んで、引き取られた先で祖父も死に、私には祖父が残した古書屋と、間借りしている作家先生しか、いなくなった。
色のない日々が続いた。
小奈津との出会いをきっかけに、徐々に私の世界に色が戻り始めた。罪を背負って生きることこそ贖罪だと言い聞かせ、そんな自分を正当化するたびに、世界の色が薄れてしまう悪循環を抱えてきた。
驚くほどに、色々なことに興味をもてなかった私だけれど。
大切な人と過ごす時間だけは、毛布にくるまれているように心地よかった。
ゼンヤから、あの事故で死んだ夫婦が悪人だと聞いて。あのとき私を「人殺し」と叫んだ少女が売春の運命から救われたのだと知って。
僅かでも、自分の罪が軽くなったような錯覚を覚えた私は、今すぐに地獄に落ちるべきだろう。
このまま、薄い靄に包まれた記憶ごと、溶けて消えてしまいたい。
そう思いながら、うっすらと瞼をあげる。
すぐ傍に先生が座っていた。シノザキ刑事とゼンヤが、私を囲むように立っている。私はどうやら、ソファに寝かされているようだ。
「……先生」
かすれた声で呟くと、先生が私を見た。微かに頬を緩めて、優しく髪をすいてくれる。
「話は聞いたぞ。驚いたな」
「うん。ごめんなさい、私、なんだが頭が真っ白になって。倒れたの? 誰か運んでくれたの?」
「そっちの小柄な男が、運んでくれたらしい。私たちが来たとき、この部屋には、リンと小柄な男の二人しかいなかったが……」
先生は、眉をひそめて口元に手を当てた。
「この部屋って、集まろうって言ってた広間だよね」
「そうだ。つまり、眠っているきみに、彼が何をしたのか特定できんということになる。なにかこう、怪しい感覚はないか? 変なものを触らされたり、唇に当てられたり」
「その話はもういいんだよっ! 問題はそこじゃねぇだろうがっ、あの教師野郎がいねぇことが問題なんだろっ」
シノザキ刑事が、気だるげに叫ぶ。ゼンヤは、やれやれといった表情をしていた。よほど、先生が面倒くさい詰問をしたに違いない。
なんだか申し訳のない気持ちになったが、今の話の中に、聞き逃せない言葉があった。
「シンジさん、いないんですか?」
「ああ。腹をたてて、どっかいっちまったんだろ」
シノザキ刑事はそう言って苦笑するが、彼の表情からは、シンジに対する心配が見て取れた。シンジは誰よりも現状を警戒しているようだったし、ひとりで出歩くなど誰も予想できなかったことだ。
何かあったのかもしれない。
皆がそんな不安を抱いていただろうけれど、口にはしなかった。
「あ、今何時ですか」
「やっと、昼前だ。嬢ちゃんは寝てたから一瞬だろ? そろそろ、昼飯だなぁ」
「……ご飯、ですか」
空腹は覚えないが、身体がだるいと思えるほどには体力が落ちつつある。今朝も食べていないし、無理やりにでも押し込んだほうがいいだろう。
けれど。
「なんだか、食べるの怖いですね。明日の朝に迎えが来るんですし、それまで食べないって選択肢もありませんか?」
「駄目だ」
先生の冷やかな一言で、私の提案は没になった。シノザキ刑事が苦笑をして、むっとした私を宥めるように言う。
「まぁ、食うっていっても、あれだ。それぞれが持ってきた食料を食うんだよ。俺も、実は持参してるんだ。聞いたら、お前らも持参してるっていうじゃねぇか。だから、それを食ってしのごうって話になったんだよ」
「はぁ、なるほど。この館のものより、安心ですね」
タクマの薬がすり替えられていた件を思い出したが、強引に頭から振り払った。誰が鞄を触っているかわからないのは確かだが、何も毒は、経口摂取だけではないのだ。
皮膚だとか、空気だとか、様々な種類があって、すべてを考えていては、身動きができなくなってしまう。
私たちは、それぞれ持ち込んだ食事のなかから、昼食を食べた。
招待状には、持ち物という欄があり、着替えや招待状本体などの記載があったが、食料の項目はなかった。よって、持ち込む必要はない。それでも、ここにいる皆が持ってきているのだから、どれだけ怪しい場所へ飛び込んできたのか、改めて思い知らされた。
恐ろしく、時間がゆっくりと過ぎていく。
客間へ閉じこもったきり、誰も部屋から出ないのだ。最初こそ、ゼンヤから持ち込まれた新たな情報――孤児院の裏の顔について――や、桜子の本物の恋人についてなどの意見が交わされたが、それも途絶え、沈黙が部屋を占領していた。
それぞれ、部屋をうろうろ歩き回ったり、ソファで寝転がったり、先生は小説を読んでいたりと、好きなように時間をつぶした。
窓の向こうに陽が落ち始めた頃、四人そろって、トイレへ向かった。集団で行動している限りは安心だと、先生とシノザキ刑事が言い切ったのだ。そしてそれは間違いではなく、それぞれが手洗いをすませ、夕食のことを考える余裕が出てきた頃だった。
トイレからの帰り。
エントランスの前を横切ろうとしたとき、私はふと、異臭を感じて足を止めた。
「リン、どうした」
目ざとく私の異変に気付いた先生が、すぐに声をかけた。
「……ううん」
玄関エントランスに入ってすぐ右側の小部屋には、来訪時にここにあったカンダの遺体がある。それの匂いだろう。
私の視線をたどった先生が、ああ、と頷いた。
「怖いのか」
「怖いですよ。……あそこに遺体があるんでしょ?」
「ああ、さっきまではあったな」
「え?」
先生のぶっきらぼうな言葉に、シノザキ刑事が補足をくれた。
「場所を、厨房に移したんだ。明日まで、食事は各自持ち込んだもので済ませることにしたからな。あの遺体は損傷が激しいから、匂いを抑えるためにも、厨房の冷凍庫へ移動したんだ。倉庫みてぇなでっけぇ冷凍庫があったんだよ」
「じゃあ、今、あそこには遺体はないんですか」
「おう。それが、どうした?」
さっきまで遺体があったのだから、異臭がしても当然だろう。そう思ったが、ゼンヤとふたりで客室から降りてきたとき、腐臭がしなかったことを思い出す。
「リン、気になることがあるのなら言え」
先生に促されて、少し戸惑ったが、言うことにした。
「なんだか、異臭がするんです。少しだけ、ですけど」
「なんもしねぇぞ?」
「リンの嗅覚は、一般人より優れているんだ。それで、どこだ。確認してこよう。例のシンジかもしれん」
「先生っ!」
なんてことを言うのだ、と青くなる私に、先生はふんと鼻を鳴らした。
「可能性の問題だ……とはいえ、時間的に腐臭がするには早すぎるが」
先生は大股で歩いていくと、ドア付近の待機部屋――カンダの遺体が安置してあった場所のドアをひらいた。
慌ててシノザキ刑事が追い、先生の背後から部屋を覗き込む。
「変わりねぇぞ」
ドアを開いた瞬間、腐臭が押し寄せてくるところ想像して息を止めていた私は、静かに息を吐いて、匂いを確認した。
だが、先ほどと同じ、微量な腐臭がするだけだ。そこへ、別の、酸味が多く加わったような匂いが混ざったといえる。
「……あれ?」
私は首を傾げて、先生たちのほうへ行く。すると、酸味のほうの匂いが強くなった。これが、カンダの遺体の匂いだ。ならば、最初に嗅いだ腐臭は、何の匂いで、どこからするのか。
私は、くんくんと匂いを辿るように鼻をひくつかせて、匂いのもとを探った。
そして、一歩二歩と歩みをすすめて、玄関ドアの前に立つと、何気なくドアをひらいた。
風船の口を開いたように、ぶわっと館内の空気が外へ流れて行く。私の髪が、微かになびくほどだ。
その風が止まったとき、ふと、懐かしい香りが鼻をかすめた。それは一瞬のことで、懐かしい匂いの正体を思い出す前に、先ほどより強い腐臭が鼻につき、両手で口と鼻を抑える。
「リン!」
「……酷い匂い。外からするみたい」
先生が鼻をひくつかせる。
「確かに、何か匂うな」
「そうか? 俺にはわからんが」
私は、辺りに視線を滑らせた。庭はがらんとしていて、来たときとなんら変わりない。匂いは、潮の匂いに混ざってやってくる。風は、奇妙なうねりとなって、伸び放題の草木を四方八方へ揺らしていた。
「先生、風はどっちから吹いてるんですか」
「これは、おそらく館の背後だな」
即答した先生に、「お前、すげぇな」とシノザキ刑事が代弁してくれた。
私は、何度か深呼吸をしてから、館の玄関を出る。その瞬間、腕を掴まれた。振り返ると先生が私を睨んでいる。
「行く必要はない。あの男が死んでいたとしても、明日の朝になれば帰れるのだろう? わざわざ探しに行く必要がどこにある」
「でも、気になります。この匂い、さっき二階から降りてきたときはしなかったんですよ?」
「必要ない」
先生は頑なに、私の提案の拒否した。
「つか、もしあの教師が死んでたとしても、腐臭がするには早すぎるだろ? そもそも死体が腐乱するのは、夏場でも死後二日からだ。匂いがするってんなら、何か別のもんが腐ってんだろ」
シノザキ刑事が、やれやれといった様子で言った。
「お嬢ちゃんが気になるんなら、様子を見に行きゃいい。全員で移動すれば、問題ねぇだろ?」
先生は、酷く冷めた目でシノザキ刑事を見据えた。
「黙れ。このまま、明日を迎えれば終わることだ。動き回って、身を危険にさらす必要はない」
「なぜそう言い切れる」
答えたのは、ゼンヤだった。
「その娘が行きたいというんだ、構わないだろう。……それとも、行くと何か困ることでもあるのか」
私は、首をかしげて先生をみた。
先生の眉間には深い渓谷が出来ている。私を行かせたくないのは、安全のため。それ以外の意味などないだろう。
わかっているのに、どうして、ゼンヤの言葉が引っかかるのか。
――何か困ることでもあるのか
そういえば、小奈津が持ち込んだ招待状を見て、行こうと言ったのは先生だった。
何気なく考えてしまった物騒で恐ろしい考えを、私は強引に頭から振り払った。
ややのち、先生はため息をついた。
「わかった、行こう。だが、向かうのは部屋に置いてある食料をもってからだ。この島に真犯人が潜んでいたら、不在のあいだにどんな細工をされるかわかったものではないからな」
客間へ戻り、各自荷物を持つと、再び玄関に出た。庭を辿るように、館の側面から背後へ回り込む。
「げ」
呟いたのは、シノザキ刑事だ。その頃になると、彼もツンと鼻につく匂いに気づいたらしく、顔をしかめていた。
屋敷の裏手には、墓地のような一郭があった。
中央の奥に、三メートルほどの巨石と、小さな祠があり、まるで、巨石から生まれた子どもたちのように、周辺には大小さまざまな石が、積まれたり、重なったりしながら、あちこちに陳列してあった。
それらが体育館ほどの広さに渡っているのだから、奇怪このうえない。
墓地のようだが、墓石のように名前が刻まれているわけではないため、巨石信仰の一種だろうと推測した。
それにしても、酷い臭気だ。
それも、腐臭とよく似た種類の、これまでに嗅いだことのないかび臭い匂いもする。二つは混ざり合って、一つの匂いになっているが、たまに分離して、二種類の匂いが私を苦しめた。
「ここは、刀の墓場か」
ゼンヤの誰にともなく呟かれた言葉に、抜刀島で起こったという「いわく」を思い出した。
「ああ、そういうことか」
先生がにやりと笑い、巨石のほうへ歩みを進めた。咄嗟についていくと、足元の土がぬかるんでいることに気づいて、ぎょっと足をどけた。心なしか、空気も梅雨のようにじめじめと暑苦しい。
「うわ、あっつ。なんだこりゃ、天然のハウスか?」
シノザキ刑事も、同じ考えのようで代弁してくれる。先生はそっとしゃがみ込むと、ぬかるんだ土をつまんだ。
「生暖かい。まるで、人肌のようだ」
「気色の悪い例えはよせって!」
「この土は、人の体内とよく似た温度だということだ。つまり、菌の繁殖が著しい。この気温と湿気がそうさせているのか?」
先生は眉をひそめたが、すぐにため息をついた。
「……なぜこのような現象が起きているのかはわからんが、なるほど、事情は察した」
「誰かいるぞ‼」
少し離れた場所を歩いていたゼンヤの叫び声で、皆がゼンヤの視線を追う。
ゼンヤの視線は、巨石の手前にある社に向いていた。私たちの位置からは社の正面しか見えないが、ゼンヤの位置からは、私たちからは死角になっている側面が見えているはずだ。すぐに、私たちはゼンヤのほうへ動いた。
私は向かう途中で一度、匂いのきつさに足元がふらつき、しゃがみ込んだ。足元がぬかるんでいることもあり、石が三つ積み重ねてあるストーンエッジのようなソレに手を置いた。
そのとき、キラリと光るものが足元に見えた。
なんだろう、とほとんど無意識にそれを拾い上げる。
「……え」
私の呟きは、掠れていた。
幸いなことに、誰にも聞こえなかったようで、先生とシノザキ刑事の遠くなる後姿を横目で見たあと、私は手早く、拾ったそれをポケットに押し込んだ。
どうしてこれがここに。
私が拾ったのは、指輪だった。
母が肌身離さず身に着けていた、結婚指輪だ。持病が悪化する父の精神面と医療費を支え、身を粉にして働きづめだった母。そんな母の薬指には、鈍い色の銀の指輪がはまっていたのを、よく覚えている。
咄嗟にポケットに入れたけれど、母のものだと思ったのは、気のせいかもしれない。
そもそもこんなところに、亡き母の形見があるはずないのだ。私はそっとポケットから指輪を取り出して、内側を確認ずる。
――愛するHへ
オーダーしたという独特の飾り文字は、激しく見覚えのあるものだった。
これは、母の形見で間違いない。
でも、どうしてここに。
「うわああっ」
悲鳴と同時に、反射的に指輪を再びポケットに戻す。そして、声をあげたシノザキ刑事のほうへ駆け寄った。私に気づいた先生が、「見るな!」と怒鳴るが、遅かった。
祠の壁に、凭れてこと切れているシンジがいた。
腹部に、背中に貫通する一本の刀が刺さっている。白い柄に乾いた血がこびりついた刀は、シンジの背中の背後、社の壁に突き刺さり、彼を縫い留めるような形になっていた。
シンジの目は見ひらかれており、あんぐりと大きな口をあけている。その口からは、ぽたぽたと血が滴っていた。舌ごと顎まで真っ二つにざっくりと斬られたあとがあることから、口の中に刀を突っ込まれたのだろう。口だけではない。だらりと垂れた両手足、胴体、顔、すべてにおいて刀を突きさしたあとが見られた。
「正気の沙汰じゃねぇぞ、こりゃ」
とんでもない、執念、憎悪を覚えずにはいられない。
シンジを殺した者は、よほど彼を恨んでいたのだ。
私は、シンジの肉の断面が見える口内で、ふと、動くものを見た。それが虫だと気づいた瞬間、必死でこらえていた匂いが津波のように脳内を犯し、胃を逆流させた。
後ろを向いて、吐いた。
あまり食べていないので、量は少しだ。けれど、すべて吐いても吐き気は収まらず、胃液を少しずつ吐き続けた。
「……なんで、こんなに腐敗してんだ」
やっとのこと、沈黙が消えた。シノザキ刑事が、自分の呟きをきっかけとするように、先生を振り返る。
「おかしいだろ⁉ 人間は、死んですぐ腐敗が始まったりしねぇ。しかも、こんなウジ虫がわく寸前なんて、ありえねぇよ。どう見てもこりゃ、死後一週間以上は経ってるぞ」
「確かに」
「いやいや、なんで冷静なんだよ。こいつ、今朝一緒にいただろ。あれはなんだったんだ、幽霊だったのか? 本当はとっくに殺されてたってか⁉」
ひとは死ぬと、顎から死後硬直が始まる。全身の血の流れが止まるためだ。その際、すでに腐臭は漂うが、近づいてやっとかぎ取れる程度だという。
そして、一週間ほど経ち、もっとも匂いのきつい時期に突入する。シノザキ刑事が言うには、シンジの死体は、このもっとも匂いのきつい時期だということだ。
「例の抜刀島で起こった、いや、迫田棚邸で起きた惨事を彷彿とさせるな」
ゼンヤの言葉に、私は確かにと頷いた。迫田棚邸で、かつて主人による惨殺事件が起きている。その際、手を下したはずの主人のほうが、なぜか皆より前に死していたという、怪奇事件だ。
「まさに、見ての通りだ。迫田棚邸の主人の死が疑問視されたのは、その遺体の損傷具合からだろう。この男のように腐敗が早ければ、死後何日も経ったとされてしまう」
先生は、ざっと辺りを見回した。
私たちがいる、石を積み上げた不思議な場所は、墓地のように四角い石で区切られた一郭だった。
「この辺りは、妙に暖かい。常に湿気ており、細菌は発生しやすい環境だ。人体は腐敗しやすいといえる」
「おい馬鹿いえ。仮に状況が、腐敗を早めてるとしてだ。いくらなんでも、早すぎるだろ」
「何か特殊な細菌が土に混ざっているのかもしれない。この男の腐敗の進行具合は尋常ではないが、腐敗を早める要素がある場所に放置されていたのだから、原因は霊的なうさんくさいものではなく、科学的根拠に基づくことが出来るだろう。その辺りは、明日以降、専門分野の者に聞きたまえ」
先生は、袖で鼻を覆いながら、彼の傍から紙を二枚ひろいあげた。
「読もうか?」
三体目となると慣れたもので、その紙が何を示すのか、すぐにわかった。
「ああ。どうせ、胸糞わりぃ内容だろう」
「そのようだ」
先生は紙に視線を落とすと、玲瓏な声で読み上げた。
『ササキガワシンジ様
この度、誕生日パーティへお招きしたく、招待状を送らせていただきました。尚、ご出席の際は、必ず、おひとりでお越しください。
場所と日時は、以下の通りです。必ずご参加ください。もしご参加いただけない場合、以下のことを行いますこと、ご了承ください。
あなたはその倒錯的な趣味で、数多の女性を傷つけました。強姦暴行を日課のように繰り返すあなたに、救いはございません。此度のパーティへ出席されない場合、あなたの犯した罪をすべて、実名にて、世間へ公表させて頂きます。緑川桜子』
「これが、招待状の内容だ」
そう言って、先生が招待状をシノザキ刑事に差し出す。刑事は内容を確認するよう視線を落とすと、ぎりっと歯を食いしばって、振り返りもせずに招待状を隣にいたゼンヤへ渡した。
ゼンヤも中に目を通すと、ちらりと私を見て、招待状を胸ポケットにしまった。私に見せる内容ではないと考えたのだろう。
「で、もう片方は?」
「……ああ。読むぞ。『彼は、私にとって唯一の相談者でした。教師という優しい一面のみを信じた私が愚かだったことは否めません。それでも私が、唯一、真実を話して助けを求めたのが、先生でした。私が死んだあと、先生は私の相談をなかったことにして、警察に何も言いません。養父母のことも見て見ぬふりをしました。私は、私の死を隠蔽したものを、犯人を隠蔽したものを、許しません』だと」
先生は、その紙もシノザキ刑事に差し出した。シノザキ刑事は、内容を軽く流し見ただけで、ぐしゃりと紙を握りつぶす。わなわなと震える手は、彼が怒りを抑え込んでいる証拠だった。
「……こいつは、恋人じゃなかった」
「そのようだ。それどころか、随分と酷い男だったようだ。強姦暴行か」
先生は目を伏せて、私の傍へしゃがみこんだ。
「立てるか? もういいだろう、ここを離れよう」
「う、うん」
「煮え切らない返事だな。ほかに、気になることがあるのか」
私は、小さく首を横に振る。
本当は、気になることがあった。
ここにあるはずのない、母の形見の指輪が落ちていたこと。それに、シンジの遺体は、どうして屋外に放置されているのだろう。先生いわくこの場所に置くことで腐敗が早まるそうだが、腐敗を早める必要があったのだろうか。
ふいに、浮遊感がして、あっと声をあげた。気づいたころには、がっちりと腰を抱えられていた。
「先生っ、下ろしてくださいっ」
先生が私を抱き上げた。
私は幼子のように先生の首筋に両手を回して、落ちないように身体を支えた。細い体躯をしているにもかかわらず、先生はふらつくこともなく、私を抱えたまま歩き出す。
「黙って抱かれていろ」
「……そんな、誤解されるような言い回しを。それとも、そういう意味ですか」
「そういう意味ではない」
先生の憮然とした声が、不思議と耳に心地よかった。自分では気づかないでいたが、私の身体は震えていたらしい。震えが止まって胸にぬくもりが溢れ始めて、ようやく自分が震えていたことに気づいたのだ。
私は、先生の首にすがりついたまま、遠くなる巨石と社を眺めた。
社のなかに、刀を置く台座がある。そこにあるはずの刀がないことから、シンジを貫いていた刀がそこに祀られていたものだろうと推測できた。
だが、それにしては、随分と研磨された刀だった。遥か昔に、処刑に使われていたという刀とは違う刀なのだろう。どうして、別の刀が置いてあるのか。
社で祀るために、誰かが定期的に取り換えているとか。
私は、無理やり考えを追い払った。
辺りに漂う腐臭のせいで頭の奥がぐらぐらと揺れていたし、それには痛みも伴っていた。今は頭のなかをからっぽにして、少しでも神経を休めたほうがいい。
館につくと、シノザキ刑事が深いため息をついた。
「最初の一人に、クルーザーで来た二人。合計三人が死んだ。あと一晩、もう、被害者は出さねぇぞ」
その通りだ。
ここにはもう、私と先生、シノザキ刑事とゼンヤの四人しかいないのだから。
私は先生の腕からゆっくりと下りて、とん、と床に足をついた。
「いや。今夜、あと一人死ぬことになるだろう」
先生は、当然のようにそう言った。
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