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3、
「大丈夫、先生に相談しているもの」
桜子は、僕にそう言った。僕のほうは振り向きもせずに、縁側に座ったまま、文庫本のページをぺらりとめくる。
よく、話をしながら本が読めるものだと思う。
けれど、本当のところ、本ではなく僕の顔を見て話をしてほしい。けれど、僕は言わない。桜子にとって、本は特別。彼女は本を読むことで、辛い現実から目を背けているのだ。
いつだったか、そう、あれは、桜子がまだ孤児院にいたころだ。
眠る前に、読む予定だった本が無くなる事件が起きた。実際のところ、桜子が図書館から借りてきた本をほかの子が隠したというちょっとした悪戯だったのだが、本がないと知った桜子は半狂乱になって暴れたという。
壁に頭を打ち付けて、自らを引っ掻き、そのままでは自死してしまうと心配した大人が、数人がかりで抑えつけた。
それくらい、桜子にとって本は現実を忘れることのできる唯一のツールであり、生きるために必要不可欠なものだ。
「最近、本を読む数が増えたな」
「そうね」
桜子は、ちらりと床に置いた四角い時計を見た。彼女はこのあと、「客」のところへ行かなければならない。
二年前、養子に出た桜子は、惜しげもない愛を与えられるはずだった養父母から、随分と酷い扱いを受けている。桜子は、まるでなんでもないことのように話すけれど、僕にとっては身を引き裂かれるほどに辛いことだ。
「なぁ、桜子。その、先生に相談したら、助けてくれるのか」
「……いい先生って聞いてるわ。話も親身に聞いてくれる。内緒にしてほしいって頼んだ約束も守ってくれてるの。それにしても、話しがころころと変わるのね」
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないわ。……よかった、最後まで読むことができた」
桜子は、最後のページをめくり終えると、余韻にひたるように目を閉じた。桜子の隣に腰をかけた僕は、そんな桜子の横顔をじっと見つめる。
美しい桜子。
その見た目の美しさから、今の養父母に目をつけられた哀れな桜子。
「ねぇ、――。私ね、ミステリーが好きなの。人がね、死ぬの。単純な愛憎から殺されるの。私は、推理小説のなかでも、次々に殺人が起こるものが好き。とくに、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』みたいに、閉鎖的な場所で起こる連続殺人は、見ていてドキドキするわ。……でもね、――。小学生のころ、夢中になって読んだ江戸川乱歩の『少年探偵シリーズ』ほど、私をわくわくさせるものはないの」
「ああ、何度も繰り返し読んでいたな」
「ふふ、私ね、物語のなかの人物に、恋をしていたのよ」
ゆっくりと、桜子は目をひらいた。
微かに頬をそめ、暗くなり始めた空を見上げて、桜子は微笑む。その笑みに、ちくりと胸が痛んだ。これは嫉妬だ。僕は、小説のなかの人物に嫉妬している。
「……それは、誰だい?」
「あら、――は読んでないの? 『少年探偵シリーズ』の主人公よ。彼のようになりたい、って思ったこともあるけれど、それは正しくないわ。私は、彼に会いたいの。彼は私の夢であり希望であり愛であり、すべてだから」
倒錯的ともいえることを、桜子はつらつらと述べた。
「じゃあ、残念だ。作者はもう、この世にいないんだから」
僕は少し意地悪をしてみたくなって、桜子にそう言った。桜子は、初めて僕のほうを振り返った。
「彼は、私のなかで、私と一緒に大人になるの。いいえ、私のなかでは、彼は彼ではなく、彼女なのかもしれない。だって、小鳥が親鳥から巣立つように、あの小説の主人公も、今は私の胸の中で幸せに時を刻んでいるの。作者の手を離れた物語は、主人公の性別をも変えることができるのよ」
「……僕には、よくわからないけれど。桜子は、続きが読めなくても落ち込まないんだね」
「ええ。だって、彼もしくは彼女は、立派な探偵になるもの」
どうやら、結末を迎えた物語のその先は、桜子のなかで続いているようだ。
ふと、桜子は目を細めて僕に笑いかけた。
「勘違いしないで。彼が立派な探偵になれるのは、敵対する人物がいるからよ。ねぇ知ってる? 敵はね、最後に必ず捕まるの。それも潔くね。だからこそ、物語におけるカタルシスを得ることが出来るのだけれど、敵の潔さはとても大切だわ。そうでないと、美しくないもの。悪者は、最後に退場する。そして謎を解いた名探偵は褒めたたえられるの」
「きみの大好きな、主人公名探偵が、だろう?」
「そうよ。ふふ、考えただけでもわくわくするわ」
桜子は、もう一度時計を見て、「行かなきゃ」と言って立ち上がった。そのあとは、いつも通り短いやり取りを経て、彼女は「客」のところへ行った。
それが、彼女を見た最後だった。
今回の計画を行った理由は、単純明快――『復讐』、その一言に尽きる。
桜子を死へ追いやった者たちの命を、僕が奪うのだ。愛しい桜子が愛した、#ミステリー小説のなかで__・__#。
桜子が今、この場を見たら、さぞ喜ぶだろう。彼女が望んだ世界が、現実にあるのだから。何年もかけて準備をして、僕は、最高の舞台を用意した。
僕が彼女に送る鎮魂歌。
復讐劇という、連続殺人
僕は、罪人を裁く正義になったつもりはない。ただ愛憎に狂った復讐者として、小説の登場人物でいう「真犯人」としてここにいる。
僕は、手にかけた人物たちを思い出しながら笑った。
窓の外はとっくに帳が下りて、夜空の星々が美しく煌めいている。いつもは靄が島を覆っているため、星空など滅多に見られないのだが、今夜は特別らしい。
僕は、ナイフを手にとると、立ち上がって大きく伸びをした。
僕が殺したい人物は、あと一人。
――リンキコナツ
顔を思い出すだけで、腹立たしさを覚える。
リンキコナツは、直接桜子の事件とは関係がない。だが、十分、死に値する罪を犯した。四年前、そう、四年前だ。
大学病院の前で起こったその事件を、僕は、目の前で見た。
僕は身を潜めていた剥製が並ぶレストルームから抜け出ると、二階へ上がり、リンキコナツがいる部屋の前で足を止める。耳をつけて室内の物音を確認してから、予め空けておいた隠し穴を通して、部屋のなかをみた。
ターゲットは、ベッドにいた。はっきりとは見えないが、ベッドの膨らみは、ちょうど人間一人分ほどの大きさだ。
夕方ごろ、探偵気取りの愚かな男が部屋を変える話をしていたが、そんなものなんの意味もない。
僕は極力物音をたてないように開錠して部屋に侵入すると、ナイフをきつく握り締めて、ベッドの膨らみに突き刺した。
手ごたえは、ない。
「――やはり、きみが犯人か」
背後から聞こえた声は、男のもの。小声であることから、リンコへの配慮が伺えたが、そんなもの当然だった。
僕は嗤う。凶暴に、荒れ狂った獣のように。
「そう、気づいてたのか」
「最初に会ったときからな」
彼のその言葉は、強がりでもなく、事実だろう。
僕は益々笑う。
「きみが、相談だと理由をつけてリンへ持ってきた招待状。あれは、私に見せつけるために、わざわざ自宅へ直接持ってきたのだろう。リンキコナツという名で、四年前の件が書かれた招待状を私が見れば、私がきみの代わりに招待を受けると知っていたのだ」
「でもお前は、あのとき名乗り出なかった」
リンコの家に間借りしている作家先生こと、凛木小夏。
この男が、この男こそが、四年前。
リンコを――桜子の愛した主人公を、殺したのだ。
私は、シノザキ刑事の広い背中を押した。
「退いてくださいっ」
「駄目だ」
「先生を助けにいかないとっ」
「そんな話を聞いたからには、通すわけにはいかねぇだろうっ。お前はここにいろ、俺が行く」
「だめっ、私が行かないとっ」
少し前、廊下を誰かが歩いていく姿が見えた。気配をひそめて、犯人だやってくるときを待っていたのだ。
そして、ついに犯人は動き出した。
真犯人が――私の親友、凛木小奈津が。
正確には、凛木小奈津を名乗る人物が、だ。
彼女が私に声をかけてきたのは、大学生のころ。無気力だった私は、彼女の誘いになんとなく応じて遊んでいるうちに、この世界に色が戻るのを感じた。
そして、世界に色が灯ると同時に、小奈津のことがぼやけていることに気づいた。どこに住んでいるのか、どこの学部なのか、何歳なのか、それらを含む自身のことを小奈津は話さなかったのだ。
唯一知っている凛木小奈津という名前さえ、知り合って一年が経つころには偽名であることがわかった。彼女が大学に在籍さえしていないことは、僅か半年で気づいていた。
あなたは誰、と、問い詰めなかったのはある種の惰性でもあるけれど、彼女が何者でも構わなかったのだ。
絶望の淵にいた私に声をかけて、現実へ引き戻してくれたひと。
それだけがわかっていれば、十分だったから。
「でも、嬢ちゃん。緑川桜子の恋人が、その、嬢ちゃんの女友達っていうのは、どうも信じがてぇんだ。男と歩いている姿も目撃されてるんだぞ?」
「中学生の年頃です、見た目の性別なんてあてにならないでしょう。それに、桜子が周りに言ったのは『恋人がいる』ですよね。『彼氏がいる』とは言ってない」
「そりゃ、そうだけど。……恋人が女? 俺には、よくわかんねぇ世界だが。って、おい、嬢ちゃん! 俺が行ってくるからここで待ってろって!」
「いいえ、行きます」
押し問答をしていると、すっ、とゼンヤが私の前に手を入れてきた。シノザキ刑事と私の間に、壁のように割り込んできた彼は、私に背を向けている。
「行かせてやればいい」
「……嬢ちゃんに怪我をさせないために、作家先生は嬢ちゃんを俺らに任せたんだろう。行かせたら意味ねぇだろうが」
「だが、先ほどの話を聞くに、今回の犯人はリンコの親友なのだろう。このまま、何も知らず事件を終えたところで、彼女に残るのは後悔かもしれない」
「事件が終えたあと、じっくり話をすりゃいい」
「終えたころには、死体が二つ増えている可能性だってある」
ゼンヤの言葉に、シノザキ刑事は歯ぎしりをした。二つというのは、先生と小奈津のことだ。相打ち、という未来をイメージしての言葉だろう。
「お前、嬢ちゃんの前でなんつーこと言うんだ」
ぐっ、とシノザキ刑事が拳を握り締めた。そのとき、僅かに彼の脇が緩んだ。ゼンヤは肘で、いけというように私に合図をしたあと、驚くほどに、素早かった。
シノザキ刑事の腕を掴むと両足の隙間に足を差し入れ、引っ張り上げるように蹴りつけたのだ。
僅かに緩んでいた脇がひらいて、私は床を蹴ると、その僅かな隙間を潜り抜けた。
シノザキ刑事が何か叫んだ。シンジが冷静な返事を返している。そんな二人の話は、声こそ聞こえていても、私の頭には入ってこなかった。
私は真っ直ぐに、昨日泊まった突き当りの部屋へ向かった。ドアは微かに開いており、微かに話し声がする。
私が部屋へ近づくと、話し声が止んだ。
構わずに、ドアをひらいて部屋のなかへ飛び込んだ私は、ナイフを持つ黒ずくめの姿をした小奈津と、小奈津に対峙するよう壁にもたれている先生を発見した。
ふたりとも、驚いた顔で私を見ている。
「先生!」
私は、先生の前に立って両手を広げた。
背後で、先生が息を呑む気配がした。
「……やぁ、リンコ」
小奈津が言った。
彼女の声はいつもより低くて、これが彼女の本性なのだと知ると、無性に悲しくなる。小奈津が私に見せていた姿は、演技に過ぎなかったのだ。
「リン、なぜきた」
呻くように、先生がいう。
私はそれを背中で聞いたので、先生がどんな表情をしているのかわからない。けれど、先生の声には、泣くのを堪えるような例えようのない葛藤が感じ取れた。
「先生を放っておけませんから」
「きみがきたら、意味がない。……なんのために、私は」
ああ、やはりそうだ。
「先生は、今夜殺されるのが、私じゃなくて自分だって知ってたんですね。だから、私を巻き込まないために別の部屋へ移動させた。……先生はきっと、最初から、小奈津が怪しいって知ってたんです。私が、小奈津が犯人だと知ったら落ち込むと思って、遠ざけてくださったんですよね」
不愛想で、変人奇人で、人見知りで、口が悪くて、物知りで、優しくて、私のことをとても大切にしてくれる先生。
先生は、少しずつ怪しい行動をすることで、私に、先生が犯人であると思わせるよう、仕組んだのだ。私が先生を疑って一晩部屋にこもれば、それで先生の目論見は成立するのだから。
「でも、そううまくはいきませんよ?」
私は、ポケットから母の形見の指輪を取り出して、手のひらに乗せた。
それを、小奈津に突き出すように見せる。
「これ、刀墓に捨てたのは小奈津でしょう?」
小奈津は、にやりと笑うと頷いた。
「ミステリーには、手掛かりが必要だ。リンコ、きみはその指輪に気づくと思っていた。気づいて、そしてその指輪から正しい犯人――すなわち、僕だ――を導き出すか、はたまたミスリードを真に受けて、凛木小夏を犯人と思うか」
小奈津は、低く笑う。酷くおかしそうに。
「完全犯罪は、存在しない。僕は、いくつか僕が犯人であるという証拠を残してきた。そうでないと、名探偵が僕へたどり着けないからな」
「……まるで、自分が物凄い犯罪者みたい。モリアーティ教授にでもなったつもり?」
「それもいいな。さて、リンコ。きみに聞きたい。今回、僕はこの館に六人を呼び寄せた。目的は、なんだろうね?」
さながら、クイズのように軽い口調でいう小奈津を、私は精一杯睨みつけた。
「桜子の死に関わった者たちを殺すことが目的よ。小奈津、いいえ、小奈津と名乗るあなたの正体は、桜子の恋人」
「うん、そう。当たりだ。順番にいこうか。まずは、タクマを殺した方法を聞きたいね。わからなかったら、わからないでいいよ」
「タクマさんは、先生が推理したように、薬のカプセルに入っていた毒で死んだんだわ」
あはは、と小奈津が笑う。
「それだと、死体の近くに置いてあったカードは、僕がいつ置いたんだい? 死んだ部屋に忍び込んで、カードだけ置いてきたって言いたいの?」
「いいえ。カードを置いたのは、あなたじゃない。シンジさんよ」
小奈津は、ぴくりと動きを止めると、笑みを消した。一歩背後にさがると、どさっとベッドに座り、長い足を組む。ナイフを手の中で弄びながら、それで、と続きを促した。
「シンジさんは、あなたの共犯だった。彼の遺体の傍にあった招待状は、彼が最初に持っていたものから別のものにすり替えられていたの。犯人にとっては、最初に渡した招待状では不都合だったから。なぜなら、共犯者であるシンジさんには、私たちのような脅し文句を書くことができなかったからよ。見られたときに困らない程度の、軽い内容しか書いていなかった。けれど、シンジさんが不要になって殺したあと、それをそのまま遺体の傍に置くには、動機が軽すぎる。だから、本物の――小奈津がシンジさんを恨んでいる本当の気持ちをしたためた招待状を、遺体の傍に置いたの」
「うん……うん、そう、正解。よくシンジが僕の共犯者だって、わかったね。そんな素振りなかったはずだけど」
「シンジさんはね。でも、小奈津。あなたは自分でも気づかないミスを犯したの」
「気づかないミス? ありえない。それは僕がきみに与えたヒントだよ」
私は、そっと息をつく。
小奈津はまだ気づかないのだ。
「どうして、シンジさんの遺体をあんなふうに置いたの?」
「あんなふう? 見立て殺人のことか? ある推理小説に、刀で一突きにされる殺人があってね」
「あなたは、小説を再現することにこだわって、無意識に私との親しさを忘れていたのよ。あの死体は腐敗していたわ」
小奈津は、だからなんだというように、眉をひそめた。
「あの場所は腐敗が早いからね。だが、どこで見立て殺人を行おうが、一緒だろう? せっかく刀墓っていう、もってこいの場所があるんだ。使わないでどうする」
「いいえ。あなたは、あの場所では遺体が早く腐乱することを知っていたから、あの場所を無意識に選んだの。ミステリーを再現するつもりも確かにあったでしょう。でも、その最たる理由は、シンジさんについた自分の匂いを誤魔化すためだった」
私は、小さく首を横に振る。
「ここからは、私の想像だけれど。あなたは最初からシンジさんを殺すつもりだった。シンジさんはきっと、そのことに気づいていたのよ」
小奈津が、あははっ、と笑った。
「シンジは予定通り、皆と喧嘩したふりをして一人で出てきた。殺す予定だったから決行しようとしたら、シンジのやつ、私を脅してきたんだ。リンコ、きみの想像は正しいよ。でもね、多少の想定外はつきものさ。シンジとは少し揉めたけれど、結局は僕がこの手で殺した。愚かなやつだよ」
「そう、やっぱり揉めたのね。小奈津、そのとき、シンジさんにどこかを捕まれなかった?」
「え?」
小奈津は、きょとんと眼を見張った。彼女の視線が微かに己の腕に向いたが、すぐにまた、私を見ると、朗らかに微笑んだ。
「腕を少し。それがどうかした?」
「私、前に小奈津に言ったわ。私は、匂いに敏感だって。そして、こうも言った。私は、あなたの匂いがとても好き。懐かしい感じで、心地よいって。……あなたは、シンジさんを殺害したあと、彼に掴まれたことで移り香が残っていないかと不安になったの」
移り香など、微々たるものだろう。誰も気にしない程度のものだ。
けれど、小奈津は私が匂いに敏感なことも、私が小奈津の匂いを知っていることも、よく理解していた。だから、シンジの遺体を、匂いのわからないように、腐乱させた。
小奈津はこぼれんばかりに目を見張って、少し口をひらいたまま、停止した。
ややのち、彼女は声をあげて笑った。
「そうか、なるほど。僕自身、本当に無意識だったよ。僕の匂いでも残っていたの?」
「シンジさんのもとに置いてあった招待状から、微かに」
「……はは、そこか。もっと注意しておくべきだった。どうせ三日が過ぎたら僕のことも知られる、そう思っていたことが、失策に繋がったのかな」
ふむ、と小奈津は目を眇めて、じっくりと私を、そして次に先生を見た。
「次の質問だ。どうして僕は、最後に、そこの先生を被害者に選んだのか。これは難しいんじゃないかな。なにせ、その作家先生は、八年前の桜子の事件と無関係だから」
小奈津の態度に、余裕があることが気がかりだ。もう深夜と呼べる時間も過ぎて、時期に辺りも明るくなり始めるだろう。
彼女に残された時間も、迫っているのに。
私は先生の前に立ったまま、小奈津を睨みつけた。
「あなたが先生を被害者に選んだ理由――そんな理由、一つしかない。小奈津、あなたの身勝手な私怨だわ」
私は、はっきりと告げた。
小奈津の身体が静かに強張るのが、わかった。
「今回の一件で、集められた皆の名前が、カタカナ表記なのが気になっていたの。それは、先生の本名である『リンキコナツ』と自分をミスリードさせるためだった。私は先生の本名をずっと知らなかったし、今でも知らない。でも、先生の本名が、『リンキコナツ』なら、違和感を覚えてきたことの何もかもに、説明がつく」
小奈津が、息を呑む。
私は続けた。
「小奈津が、私の前に『凛木小奈津』と名乗って現れたときから、今回の計画は始まっていたのね。四年前の事故で、車を運転していた夫婦が死んだわ。ゼンヤさんの証言で初めて知ったのだけれど、亡くなった夫婦こそ、桜子を引き取った緑川夫妻だった」
小奈津は、頷いた。
微かに唇が震えている。
「……そうだ。緑川夫妻は桜子が死んだあとに引っ越して、行方がわからなくなっていた。僕があの夫妻を見つけたのは、大学病院の前で起きた事故のときだ。現場に出くわしたのは、本当に偶然だったんだ。でも、僕にはそれが、悪魔の導きのように思えたよ。潰れた車に乗った、あの夫婦の惨たらしい姿に、僕は歓喜したんだ。やっと見つけたと思ったら、苦しみながら死ぬ瞬間だったんだから、嬉しいに決まってる。そう、そのときだよ、リンコ。きみを見つけたのも」
「あなたは、私に近づいた。無気力で明日を生きるのも億劫になっていた私を、助けてくれた。小奈津、あなたは私を、他の誰かと重ねて見ていたのね」
「重ねるも何も、リンコはリンコだ。桜子が愛した小説の主人公さ」
小奈津は、眇めていた瞳を見開いた。
爛々と目を輝かせて、私を見ると、破顔した。
「リンコ、きみは緑川夫婦っていう悪を倒したんだ。悪を成敗する、ミステリー小説の主人公のように。なのに、落ち込んで今にも自殺しそうになっていた。そんなきみを見たとき、僕は気づいたんだ。桜子の愛した小説の主人公は、きみなんだって。きみは、今こそ沈んでいるけれど、いずれ、高名な名探偵になるんだ」
館にきて、片仮名表記のネームプレートのなかに、『探偵様』と書かれたプレートがあった。リンキコナツが先生をさしているのなら、探偵様は誰をさしているのか。消去法を用いても、一人しかいない。
私だ。
小奈津にとって、私は出会ったころからずっと『探偵』なのだ。
私は息を深く吐いて、目を伏せた。
――『あなたも、リンコっていうのね』
そう私に声をかけてきた小奈津は、自分の名前を見せて破顔した。そして、私が当時高校時代から使っていたポーチにつけていたネームプレートを指さした。私の名前も、読み方を変えればリンコになる。
――『あなたの名前、素敵ね!』
――『コリンなんて名前、あんまり、好きじゃない。名字みたいだって、揶揄われることがあるの』
そう答えた私に、小奈津はにっこり笑って、こう言った。
――『小さいに林で、コリンちゃんか。漢字で書くと、コバヤシって読めちゃうもんね。でも、私好きよ。小林少年って知ってる? 小説に出てくる、名探偵の名前なの。皆に愛されて、大人をも納得させる推理力を持つ、少年探偵よ』
小奈津との出会いを、私は忘れたりしない。
出会ったその日、彼女はそう言って、いかに私の名前が素晴らしいかを教えてくれたのだ。
今ならば、わかる。
小奈津の精神は、桜子を失ったときから壊れ始めていた。そして四年前の事故の日、私と出会ったことで、彼女は正気を保つ方法を得たのだ。
私を桜子が愛した小説の主人公と重ねること。
私を無気力な状態へ落とし込んだ先生を悪とすること。
その二つを今回の一件へ繋げるという目的が、彼女の精神の崩壊をせき止めていた。
「今回、あなたは桜子に関わる憎い人たちを殺したわ。そして、そこに先生も加えた。私をよりはっきりと名探偵にするために、敵対する悪が必要だったから」
「リンコ、きみは誤解している。そこにいる凛木小夏は、きみを殺そうとしたんだ。四年前のあの日、きみを道路に突き飛ばしたのは、その男なんだよ。僕は見ていた。そう、事故が起こる前から、見ていたんだ。きみはどこか桜子と雰囲気が似ていたから、目を引いたんだと思う。リンコは自分が事故を起こしたと思っているみたいだけれど、実際は、その男が引き起こしたんだ」
小奈津が突然立ち上がった。
ナイフを、真っ直ぐに先生に向ける。距離があるので届かないが、私は息をつめた。
「何とか言ったらどうだ、作家先生」
小奈津の揶揄するような声に、私の背後で、先生が呻いた。
何も言わなくていいから。
そう私が言うより早く、先生が口をひらいた。
「……そうだ。私が、リンを押した。あの日は、不眠で原稿を仕上げたあとだったから、ぼうっとしていたんだ。眠くて、だるくて、足がもつれた。何かに捕まろうとして、近くにいた女性を押してしまった」
「わざとじゃないなら、どうして名乗り出なかったんだ。事故のとき、自分が女性を押してしまったから起きた事故だと言っていれば、リンコは自責の念を感じずに済んだはずだ。それをしなかったのは、リンコが、自分のせいだって責め続けているのを、近くで見るのが楽しかったからだろう?」
「楽しいものか!」
先生が苦しんでいる。こんなふうに、絞り出すように声をあげる先生を、私はこれまでに見たことがない。
「言えるはずがない。私だって人間だ。保身だって考える、我が身が可愛い。……事故であれ、結果として人が死んだのだ。私がやったと名乗り出ることなど、私にはできなかった」
「ははっ、それが悪じゃなくてなんだっていうんだ。保身のために、リンコを犠牲に――」
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
私は、強い口調で小奈津の言葉を遮った。
先生をかばったわけではない。私は私が思ったままを、口にしたのだ。身体を強張らせる小奈津を睨みつけて、私は、静かに息を吐きだした。
「誰かにぶつかられたことくらい、気づいてた。でも、言わなかったのは私。人通りのある歩道を歩いていたんだから、ぶつかることくらい予想できた。予想できたのに、私は自分のことしか見えていなくて、気づくことができなかったの」
「……リンコは、ぶつかられただけだ」
「そう、ぶつかられただけ。ぶつかられて、私が踏ん張り切れなかったから、よろけてしまったの。すべてが故意ではないから、事故なのよ。……突き飛ばされたのなら、私だってそう証言するわ」
小奈津の顔色は、青くなっていた。
あんなに無残に人を殺して、平気な顔をしていた小奈津が。青くなって、小さく震えて、目を見張っている。
私は、真っ直ぐに、小奈津を睨み続けた。
「だから、どうでもいいの。先生だろうが、あれが小奈津であっても、他の誰かだとしても、私にはどうでもいい。私は、私が犯した罪を人のせいになんかしない」
「……だから、自分で背負って、抱えて、消えていこうとしているの」
小奈津の声は、かろうじて聞こえるほどに、か細かった。
ふいに。
小奈津が、目を見開いた。
その目は爛々と凶暴に輝いていて、一歩、また一歩と、近づいてくる。
「傲慢だ。……リンコ、きみは傲慢だよ。世の中にはね、生きたくても生きれない人が大勢いるんだ。桜子みたいに。なのに、何もない日々を過ごすだの、ただ死ぬまで待つだの……ただ、消えるのを待つなんて、馬鹿にしている」
「それが、あなたの本音なのね」
「そうさ。無気力なきみを見たとき、無性に腹立たしかった。桜子は死んでしまったのに、彼女が愛した小説の主人公は、行きながら死んでいる。だから……だから、僕が」
小奈津の声は、とても小さくて、ほとんど聞きとれなかった。
その呟きが言い終えるか否かのとき、彼女は動いた。床を蹴って、ナイフを腹のあたりで握り締めたまま、突進してきたのだ。
私はその場から動けなかった。
逃げようにも後ろには先生がいる。運動神経で小奈津よりも劣る私が、よけきれるとも思えない。だから、ただ、その場で小奈津を見つめた。
誰かが私の肩を掴んで、左へ押した。先生が私を突き飛ばしたのだ。床に倒れた私は、すぐに身体をひねって先生をみた。
息を呑む。
時が止まってしまったような、錯覚を覚えた。
先生の横腹に、ナイフが食い込んでいる。顔をしかめた先生を、小奈津はすぐ間近で睨みつけていた。
「……残念。リンコを殺したかったのに」
勢いよくドアが開いて、シノザキ刑事が飛び込んできた。シノザキ刑事はあっという間に小奈津を捉えて床へ押し付けると、後ろ手を抑え込む。ドアの前で待機してくれていたのかもしれない。
小奈津が持っていたナイフが、床ではねて、私の足元へすべってきた。
ゼンヤが、先生のほうへ駆け寄っていくのが見えた。けれど、先生はまったくの無傷だった。出血どころか、衣類が破れてさえいない。私は小奈津のナイフを拾いあげて、それが、押すと引っ込む玩具のナイフであることを知った。
――リンコを殺したかったのに
――無気力なきみを見たとき、腹立たしかった
その言葉とは正反対を示す、玩具のナイフ。
「――リンっ!」
先生が私を呼ぶ声が、遠くで聞こえた。
私は、ゆっくりと床に倒れ込む。
慌てる先生が見えて、少しだけ、笑ってしまった。ただ、張り詰めていた気が緩んだだけなのに、まるで、私が死ぬみたいに焦っている。
そうか。
私が死ぬと、先生は焦って、そして、悲しむらしい。
遠のく意識を感じながら、私は、ついさっき小奈津が言った言葉を思い出していた。
――だから……だから、僕が死ぬ前に、きみを
やはり、小奈津は小奈津だ。
本名さえ知らないけれど、私が本当に苦しいときに手を差し伸べて、傍にいてくれた人。彼女は、最愛の恋人の復讐に憑りつかれていたけれど、それでも、果てしないほどに、優しい人だった。
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