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一章:まつりのあと
夏休み、フィールドワークに付き合わないか?
大学院で民俗学を研究している母方の叔父である友介がそう打診してきたのは、梅雨に入ってすぐのことだった。
「うん、いいけど」
両親はほぼ毎日フルタイムで仕事だし、帰宅部彼女なしの郁葉にはこれといって夏の予定はなかった。
知らない人に囲まれて安い時給でアルバイトするより、叔父の手伝いで小遣いをもらった方が気楽かな、とちらっと考えたのもあった。
フィールドワークってなんの?
という郁葉の質問に、友介は京都の夏祭りの調査、とだけ答えた。
今にして思えば、ずいぶんはしょった説明だった。
祇園祭や五山の送り火なんかのきらびやかで情緒あふれる夏祭りの光景を思い浮かべてわくわくしていた郁葉にとって、新幹線を降りてレンタカーで三時間余り揺られ、連れて来られたこのたんぼと山と川しかない京都奥地の田舎は想定外だった。
「50年に一度の奇祭を特別に取材させてもらえることになったんだ、たまたま教授のご友人がこちらの出身でな」
その幻の奇祭を見るために、友介は何年も前から粘り強く交渉を続けてきたのだそうだ。
念願叶ってこの地にやってこれ、ただただ嬉しそうな叔父は夏休みの子供そのものだった。
「50年…すごいね」
梅雨が明け真夏の陽ざしを浴びて、山は勢いを増していた。
植物の生命力は圧倒されるようで、何層にも分かれた濃度の違う緑が、くっきりと青空に稜線を描いている。
風が渡るとたんぼの若い稲が水面のようにキラキラと波だち、一刻も止むことのない蝉の声がわんわんと耳を圧する。
レンタカーは集落に続く小高い丘を登り切り、その頂上にある小さな祠の前で停車するところだった。
「大きいだろう、この森を護っているご神木だそうだよ」
友介は車を降りながら祠の後ろに立つ、大楠を指して説明した。
郁葉も続いて車を降りた。
体中が強張っている。のびをして深呼吸すると、湿った土の匂いで胸が満たされた。
「ご神木かぁ」
見上げると、自然にあんぐりと口が開いてしまう。
年を経た巨大な大木は、地上に根を隆起させた異様な姿で立っている。
堂々たる姿は天を支えるいびつな柱のようだ。
なんだろう、あれ……剣?
太いしめ縄を渡した苔むした幹の、地上から5mほどの所に、古風な剣が刺さっていた。
刃の大部分は大楠の幹に埋没してしまっているが、装飾を施したツカの部分だけは苔と木埃に黒ずんだ大楠の幹から唐突に突き出して、木漏れ日をまだらに受け止めている。
「やぁ、お待たせしましたね」
「わ、わぁっ!」
目を凝らして剣の詳細を観察していた郁葉は、突然声を掛けられて驚いて振り返った。
「あれ、驚かせたかな」
「あ、いえ、すみません」
声を掛けてきたのは、日焼けしたごま塩頭の男性だった。
友介と郁葉を案内するため、この場所で落ち合う予定になっていた祭祀の世話人の一人で長谷部と名乗った。
「やあ、どうもお世話になります」
「遠い所から、ご苦労さまです」
挨拶を交わす大人たちについて、車に乗り込む直前、郁葉はもう一度頭上を仰ぎ見た。
生い茂る楠の葉に遮られ、古びた剣はもう見えなくなっていた。
いぶし瓦を載せた高塀に囲まれた瀬川邸は、このあたり有数の資産家だ。
江戸時代から続く由緒ある家柄で、当主は代々商才に長け、それぞれの時代ごとに新しい事業を興してはことごとく成功させてきた。
現当主の瀬川賢吾は、所有する土地の山から湧きだした清水を商品化することに成功し、財を得た。
おりしも世間は銘水ブーム。
まろやかな口当たりと料理につかえば食材の味が引き立つ絶妙なミネラルバランスが口コミで広まり、この春からは全国規模での扱いがはじまったという。
「で、でか」
郁葉は高塀からつづく両袖しっくい塗りの堂々たる腕木門を見上げ、思わず声に出して呟いていた。
「今年50年ぶりに執り行われる祭祀はこの瀬川の家の神様とのご縁の存続と守護を願う祭りなんですよ」
と長谷部は説明した。
「個人の家の祀りごとを地域で祝うのは珍しいですね」
「いやぁ、このあたりはほとんど、親類縁者のようなもんですから。誰かが生まれたり、亡くなったりすると寄り合って儀式を遂行するのが習わしみたいなもんなんです。その規模が少し大袈裟になったようなもんで」
門をくぐり、苔むした通路に配置された御影石の飛び石をたどってゆくと、書院造りの大きな建屋に到着した。
祭祀の準備で人の出入が激しいのか、玄関の引き戸は開放され、三和土には履物が数人分揃えて、脱いであった。
「ごめんください」
声を掛けると、ほどなく奥の方からパタパタと軽い足音がして、和服姿に前掛けをした女性が現れた。
「東京から祭祀の取材に来られた箱崎友介さんと甥の郁葉さんをお連れしました」
と長谷部が紹介してくれる。
「はじめまして、この度は貴重な機会を頂戴して感謝しております」
友介は神妙に頭を下げた。
「こんな遠い所までご苦労さまです。瀬川百合子でございます。祭祀の段取りでバタバタしておりまして、お構いもできませんがゆっくり見物して行ってくださいね」
百合子はほがらかに三人を招き入れてくれた。
庭に面した大広間では、祭祀の祭壇の準備が始まっていた。
「瀬川家の神様は蛇の姿をしていらっしゃるそうで、水をつかさどる農耕の護り神さまなんです」
と長谷部が説明してくれる。
「蛇といえば、生命力が強く、また金運も上げてくれると言われてますよね」
「弁財天の神使とされたいへん縁起のいい神様ですが、この土地の蛇神さまは気性が荒く、昔は生贄を捧げていたともききます。」
「生贄ですか」
「その名残で、いまも祭祀の祭司は一族の中でも成人前の一番年の若い子供が務めます」
「子供が?」
友介は驚いて聞き返した。
「子供といっても、今回は次男の和泉さんがその役割で、たしか17才ですよ」
「へぇ、郁葉と同い年だな」
友介が振り返る。
「50年に一度の祭祀で祭司を務めるなんて、巡り合わせに運命を感じますね」
ロマンチストの友介が言うと、長谷部は複雑な表情をした。
「和泉さんは昨年、お母様を事故で亡くされてこちらに引き取られてこられたんです。そして、今年が祭祀の年というのも運命といえば運命ですね」
なんだか複雑な家庭の事情がありそうだ。
広縁を何度か曲がり、障子を閉め切った座敷の前に到着すると、長谷部は障子越しに中へ声を掛けた。
「東京からのお客様をお連れしました」
「どうぞ、中へ」
障子を開けると、中は10畳ほどの座敷になっていた。
一番に目を引いたのは、部屋の中央で真っ青な差袴を履き、薄い水色の狩衣を着付けされている少年だった。
張りのある総絹の装束は少年のために誂えたのだろう、余裕のある寸法ながら少年の体にピタリと沿ってその鋭角的に整った容姿を見事に引き立てている。
当日はこの装束のほかに、面と帽子を付け、神様に太刀を使った舞を奉納するのが祭司の役目なのだそうだ。
同い年なのに、大役を務めてすごいな。
郁葉は素直に感心して、細かな刺繍を施した狩衣の裾を眺めていた。
「よくお似合いですよ、和泉さん」
いつの間にか、追いついてきた百合子が目を細めて褒めた。
「太刀を抜いてみなさい、重いようなら刀身を細い物と替えてみよう」
和泉の正面に座しているのが、瀬川の現当主賢吾だった。
和泉は黙って瑪瑙の装飾が施された大振りの刀をとり、鞘を取り払った。
鈍く光を反射する鋼の剣だが刃はなく、舞手の邪魔にならないよう重さも最小まで軽量化してある模造刀だ。
和泉は剣を頭上に構え、振り下ろしながらくるりと一周回ってみせた。
軽やかに音もなく、水色の狩衣が軌道を描く。
両手で支えた剣を横に一閃して動きを止め、真下から天井にむけて一気に振り上げる。
微塵も重さなど感じさせない動きだ。
「か、かっこいいな、初めてみたよこんなの」
興奮して思わず郁葉は声を出してしまった。
瞬間、和泉が眼を上げてこちらを見た。
野性的な切れ長の目が、郁葉の頭から足先までを一秒かけて往復した。
「あ、すみません、うるさくして」
模造刀とはいえ剣を手にしているせいか、和泉の視線には妙な迫力と威圧感があって郁葉はしらず畏まって姿勢を正した。
和泉は唇に薄い笑いを浮かべて、ふいっと視線を逸らした。
「いえ、ごゆっくり」
慇懃に会釈して賢吾の方へ向き直る。
「重さは問題ないです」
「通し稽古は今夜だったな、仕上がりが楽しみだ」
「はい」
親子だというのに、他人以上に堅苦しいやりとりに、郁葉は居心地の悪さを感じた。
そういえば、昨年引き取られたと言っていたっけ。
百合子が本妻なら、和泉の母親というのは婚外交渉の相手ということか。
和泉が脱いだ狩衣を畳んだり、太刀を刀掛けに戻したりと、母親じみたこまやかさで和泉を手伝う百合子を郁葉は複雑な思いで見つめた。
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