二章:まつりのまえ

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 あれから、何日かが過ぎた。  気が付くと、ドドドッと腹の底に響くような音を立てて大楠の下にバイクが止まった。少年がいつかのように大楠の幹を登ってくる。  鬼のそばの枝まで登ってくると、何も言わずに腰を下した。  枝の下に足を投げ出して、吹き抜けてゆく湿った風が髪をなぶるのも構わずに集落の方を眺めている。  見ると顔にも服にも黒い煤のような汚れがついている。 「転んだのか」  鬼は訊いた。 「子どもじゃあるまいし」 「喧嘩に負けたか」 「このあたりにそんな骨のあるやつはいない」  少年は唇を尖らせた。 「石でも投げられたか」    からかうつもりで言ったのに、少年はちっと舌打ちして鬼を見た。 ……図星か。   「俺のことはいいんだよ!それより『りん』という名前だったぞ、庄屋屋敷の使用人の娘」  名前などとうにわすれていた。  覚えているのは大きな瞳と紅い頬、寄り添ったときの肌の温かさだけだった。 「庄屋は息子を亡くした後、病んで床についた。りんは暇を出されたが里に残り、しばらくして父親のない子を産んだそうだ」  鬼は眼を見開いた。 「りんは一人でその子を育て、年老いてこの地で亡くなった。その子がこの樹の下に祠を建てて鬼を供養したんだってさ」  鬼は見飽きた祠の屋根を見下ろした。  そういえば、あの祠はいつから建っていたんだろう。  祀られても祈られても、彼の心が慰められたことはなかった。  なにも聞かず、なにも見ず、彼の魂は閉ざされたままだった。  彼は樹上を見上げた。  ちらちらと木漏れ日が落ちてくる。  濃い葉影を通して、かろうじて覗くこまぎれの空。  遮るもののない大きな空を、最後に仰ぎ見たのはいつのことだっただろう。  錆びた霊剣に死ぬまで繋がれた命。  何度、引き抜こうとしても動かなかった斬禍の剣。  違う。  彼の魂をこの地に縛りつけていたのは剣の霊力なんかではなかった。  なぜ、忘れようとなどしたのだろう。  りんとすごした季節は優しい光にあふれていた。  萌える新緑も蝉しぐれも黄金色の秋も凍てつく雪の白さも、りんが一緒だと眩しいほど鮮やかだった。   抱き合って眠れば冬の夜でも寒くなんかなかった。  りんが笑ってくれれば、怖いモノなどなにもなかった。   「もうどこにもいないのか……」  鬼の頬を温かいものが濡らした。  あとからあとから溢れてくる涙に鬼は戸惑い、少年を見た。  あの娘と同じ漆黒の瞳が見返している。 「もう許してやれよ」  そういいながら少年は剣のツカに手を掛けた。 「そうすれば、おまえはもうずっと前から自由だったんだぜ」    ズズズっ  生きながら身を裂かれる激痛に、鬼はあえぎながら身悶えた。 「我慢してろよ」   少年は踏ん張った足に力を込めて、さらに剣を引き抜いた。 「っつ……」  ズドッ  鈍い音を立てて斬禍の剣が抜けた。 「うわっ」    その瞬間、菱形に開いた傷口から血ではなく蒼い炎が吹き出した。   熱も痛みもなくただ皓々と燃え上がる青い炎に包まれて、鬼の体がゆっくりと倒れ込んできた。 「ちょっ、危ないって」  とっさに少年は鬼を抱き止めた。  涙に汚れたその横顔は子どものように頑是なく、長い歳月の怨恨を祓い鎮めてくれるような無音の炎が燃え尽きるまで、少年は鬼を抱きしめているしかなかった。 「世話の焼けるご先祖様だよ、まったく」  空を仰いで嘆息する。  少年の名は、瀬川和泉といった。  
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