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「これが瀬川の家を守っている蛇神を描いたとされる図です」
衣装合わせが終わった和泉が普段着に着替えて戻ると、賢吾は古い文献を何冊か広げて見せてくれた。
遠い昔、台風が続いて飢饉が起こった。雨が止まず、川が決壊して田畑は水に浸かった。
瀬川の先祖は蛇神の怒りを鎮めるため我が子を生贄をささげ、その後も蛇神を祀り生贄を捧げ続けることで集落の守護を得てきた。
猛々しく風雨を操り、生贄を求める古代の神なのに、蛇神は長い髪を垂らした美しい女性の姿で描かれていた。
俯き加減のほっそりした面立ちをしており、広げた両腕の中にじっと視線を注いでいる姿は、
「なんだか、少し悲しそうですね」
何気なく思ったままを口にして、郁葉ははっと顔を上げた。
一同の面々が沈黙して郁葉に注目している。
「え、あ、すみません、オレ」
なにかとんでもなく見当違いな事を言ってしまった気がして、思わず視線が泳ぐ。
「いやいや、若い方の感性でしょうかね」
「新しい解釈というか、興味深いですわねぇ」
「斬新な見解で面白い」
大人たちは顔を見合わせて好き好きに意見を言い合いはじめた。
「はははっ」
郁葉は苦笑いしながら頭をかいた。
ヤバかったのかな、神様が悲しそうなんて言って。
ふと、視線を上げると、和泉がまっすぐに郁葉を見ていた。
眼が合っても、今度は逸らされなかった。
怒っているわけでもなさそうだ。ただ、興味を持って観察されているみたいな、心の奥底を推し量られているような面映ゆいような視線だった。
昼食をご馳走になったあと、もう少し文献を見たいと申し出た友介を別棟にある書庫へ案内してくれたのは和泉だった。
「瀬川家の先祖は、我が子の命と引き換えに集落全体の繁栄と守護を蛇神と契約したということなのかな」
古書文献の類に目がない友介は、書庫に収納されている膨大な資料を前に鼻息荒く和泉に質問した。
「確かにこの土地はかつて、何度も長雨による洪水に被害を受けていた記録があります。それが、ある年を境に急激に水害が減っているのも事実ですが、僕は治水技術の向上がそのおもな原因だと考えています」
「なにかその頃の資料が残っているのかな」
「この書庫には瀬川家の記録のほかに、集落全体の歴史に関する文献もかなり状態良く保存されていますよ」
「和泉くんは読んだの? ここの資料を全部?」
「ほかに、やる事もなかったので。村の家系図や噂話草紙みたいなものもあって、結構面白いですよ」
「へぇ、それにしてもすごい量だな」
埃っぽい書庫の中で友介は嬉しそうに腕まくりした。
これはしばらく動かないぞ
「郁葉はどうする? ここは退屈だろ、集落の中を散歩でもしてくるか?」
要するに、郁葉に気を遣わず資料あさりに没頭したいということか。
昔から、興味のあることを見つけると周囲にお構いなく熱中してしまうのが叔父だ。
「え? あ、うん、じゃあそうしようかな」
いそいそと書棚に向かってゆく友介の背中を見て、郁葉は仕方なくうなずいた。
集落の中を散歩って、たんぼと畑しかなかったけど。
振り返ると、二人のやりとりを聞いていた和泉と目が合った。
「来いよ、案内してやる」
「え、いいの?」
「ちょうど出掛ける用事もあったし」
意外と気さくにそう言って、和泉は先に立って歩きだした。
渡り廊下を通って本宅に戻り、来客を迎える準備にばたばたしている屋敷を突っ切って玄関から外へ出た。
途中、何人かの親戚だか世話人だかが声を掛けてきたが、
「東京からのお客さんが集落を見たいっていうから案内してきます」
というとあっさり通してもらえた。
「君、明日の祭祀の主役なんでしょ? 抜け出していいの?」
5人目の大人に声を掛けられたあと、さすがに郁葉は和泉に訊いた。
「主役は俺じゃない、蛇神だよ。それに『東京からの客人』の前じゃ、無理やり引き留めることも出来ないんだろうな」
「やっぱり外出はまずかったんじゃないのか? 準備手伝わなくていいの?」
「準備にどれだけ人が集まってきてると思ってんだ。俺一人がいなくたってなんの差し障りもないよ」
たしかに屋敷内は祭壇を組み立てる者、来客を迎える者、料理を段取りする者とかなりの人数がせっせと立ち働いていた。
だが、郁葉が気にしているのは物理的な手伝いの事ではなかった。
「和泉は蛇神の加護とか、信じてないの?」
明日、大役を務めるというのに、和泉からは微塵も祭祀にたいする信心も畏敬の念も感じられなかった。
和泉は一瞬、真面目な顔で郁葉を見たが、結局答えなかった。
「お前、ただの部外者なのに気にしすぎなんだよ、ほら、これかぶって」
そう言ってポンッと投げ渡されたのは、フルフェイスのヘルメットだった。
和泉は敷地の片隅のガレージから、250CCのヤマハを引っ張り出してきた。
「誰かを乗せるの、初めてなんだからな」
光沢のあるタンデムシートを愛しそうに袖で拭って、和泉は恩着せがましくそう言った。
「え?? 散歩じゃないの?」
驚く郁葉に和泉は呆れたように眉を上げる。
「田舎のあぜ道を二人で散歩って、年寄かよ」
「そりゃあ、たしかにそうだけど」
ドルゥーン
と快調な起動音をたてて、和泉の愛車は覚醒した。
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