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二章:まつりのまえ
頬を撫でる風に、細い水脈のように花の香がまじっているような気がしてふと、眼を開けた。
いつのまにか雪は融け消え、濡れた黒い土は生き物たちの声なき煽動にざわめいて見えた。
ここで、巡り来る春を迎えるのはこれで何度目だろう。
ツカまで深く胸を貫いた鋼の剣。
長年風雨にさらされた刃は赤く錆びこぼれ、いまにももろく崩れそうだというのに、かつて込められた封印の念力はいまだゆるぎなく、身動きすらままならない。
「……っち」
あの僧はもう死んだのか。
人を殺め、喰らった罪で彼をここに封じたのは、まだ年若い旅の高僧だった。
「違う」とさけんだ声はうねるような唱経の声にかき消され、顧みられることはなかった。
彼を裏切ったあの娘。
彼が惹かれたあの大きな黒瞳も肌も髪も、もう塵になっただろうか。
彼が刺し留められているのは、溶岩層に阻まれて地下へ伸びられなかった根が、いびつに曲がりくねって地上へ隆起した老齢の楠。
その様子が龍のようだと祀られている森一番の大木で、注連縄を渡した幹の太さは、大人が四人掛かりで抱いても余りある。
根元に建立された祠は、小さく質素だが、朝夕小さな供物を捧げに、人が来ない日はない。
手を合わせ、頭を垂れる人々。
彼らが呟く、祈りにも呪いにも興味はなかった。
「おーい、聞こえるかー?」
不意に足の下から声がのぼってきた。
見下ろすと、祠の前に人影がある。
見たところ16、7のたいして食いでのなさそうなやせっぽちの子供だった。
辺りを見渡して人のいないのを確認すると、大胆にも祠の屋根に足をかけて手を伸ばし、丈夫な注連縄をつかんで身体を引き上げた。
つぎつぎと太い枝を選んでは手を掛け足を掛け、あっというまに彼と同じ視線までよじ登ってくる。
「おまえ……何、してる?」
彼は呆れて訊かずにはいられなかった。
「ここは見晴らしがいいな」
少年は、見事な枝振りの楠の幹に手をついて、葉の間からのぞく遠い街並に眼をやった。
たしかに、街を見下ろす丘の上にあるこの森でも一、二の高さを誇る大樹だ。
ここからの展望をさえぎる物はない。おかげで、彼は森とそれを囲む人里の様子をあますところなく見ることが出来た。
「おまえ、人間か?」
彼の問いかけに、少年はふっと唇を歪めた。
「どうだかな」
最近では、彼の姿が見える人間は少なくなった。
ましてや言葉を交わすなど、随分と久しぶりのことだった。
「何をしてるんだ?」
彼はもういちどたずねた。
少年は彼の方を振り返った。
「もう一度自由に土の上を歩いてみたいとは思わないか?」
「?」
「流れに手を浸して魚を掴むのはどうだ? 花の咲き乱れる野原に寝そべって空を見上げるのは気持ちいいぞ」
その言葉に、彼はつかのまかつて野山を駆け巡っていた懐かしい日々を思い起こした。
足跡ひとつない白銀の雪原を渡る真冬の朝、足の下でもろく砕ける凍雪、無音の世界。
泡と光をまとってどこまでも沈んでゆく底なしの淵から、見上げた空を遠くよぎる鳥の影。
黒い嵐が森を揺さぶるのを、息をひそめて見守る夜明け。
もう一度、あの頃に戻れるのなら命など惜しくはないと、何度このいまいましい斬禍の剣の柄を引き抜こうとしたかしれない。
だが、どんなに泣いてもあがいても斬禍の剣を抜くことはできなかった。
「俺を手伝ってくれるなら、この封印を解いて自由にしてやってもいいんだぜ」
少年は、恐れを知らぬ横柄な態度で、剣のツカに手をかけた。
「お前なんぞにこの剣が抜けるものか。これまでだって何人の愚かな者たちがこの剣を抜こうとしたと思ってる。やすやすと子供に引き抜かれるような剣ならこの身もとうに自由になっているはずだろう。笑わせるな」
「どうだ? 俺に力を貸すと約束するか?」
少年は取り合わず、さらに言葉を重ねた。
「だからお前なんぞに……」
「試してみるか」
少年は幹に足をついて身体を支え、剣のツカを握りしめた。
眼を伏せて雑念を払い、渾身の力を込めて引く。
ズズッ
貫かれた時と同じ痛みをともなって、剣がわずかに退いた。
「な……ぜ?」
眼を見開いて、彼は思わず呟いた。
「封印を、解いてほしくないのか?」
怜悧な瞳が表情を読む眼差しで彼の面に当てられている。
葉影の揺れる午後の森。
甲高く鳴き交わす鳥の声のほか、聞こえてくるものはなにもない。
彼は呼吸さえ忘れて、少年の顔を凝視した。
アゴの尖った鋭角的な輪郭、通った鼻梁と薄い唇。
だが彼の心を捉えたのは、伸びた前髪越しに彼を見返している漆黒の双眸だった。
その、月にかざした黒曜石のように、冷ややかで硬質な輝きにはたしかに見覚えがあった。
「……おま、え」
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