二章:まつりのまえ

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 あの日、彼は深手を負って森へ逃げ込んだ。  村人たちは手に手に松明をかかげ、彼の血の痕を追ってきた。  ニガミツバの葉を焚いた煙で森は満たされ、ほどなく彼はその当時はまだ若木だったこの楠の木の前へ燻り出された。  経文を唱和する声が次第に撚り合わさって銀鎖のように躯に絡みつき、彼の自由を奪う。 「罪を悔いて許しを求めるか?」  朦朧となっている彼を問い詰める僧。 「……違う、俺じゃない」  しかし、彼の言葉は村人たちの読経の声にかき消された。 「この森を護り、二度と人に悪さをしないと誓うなら命だけは奪わずにおいてやろう」 「俺じゃない、違うったら違う」  死にもの狂いで暴れた。  長く鋭利な爪で木々の幹を切り裂き、咆哮を上げて逃げ惑う村人に襲いかかる。 「ぎゃー」  なぎ倒されて、村人が悲鳴を上げた。  怒りに我を忘れた彼は、腰を抜かして地面を這いずるその男の首を片手で握りしめ、吊し上げた。 「ぐぐぐっ~」  踏みつぶされた蛙のような声をあげ、男は必死でもがいている。 「その手を離せ、鬼」  僧が命じた。  彼を見据える僧の瞳。  篝火をまばゆく反射して明度を増したそれは、人外の力を秘め禍々しく輝いていた。  あかくあかく。 「っひぐぅ」  村人の喉から断末魔の呻きが漏れた。 「人を殺め喰らう化け物め、その身をもって罪を償うがよい」  彼と僧の周りを取り囲んだ村人たちが、再び唱経を始め、彼の怒りを煽った。  彼は村人を放り捨てると、今度は目の前の僧を八つ裂きにしようと躍りかかった。  次の瞬間、      ズザンッ  僧が抜刀し、一気に振り下ろした。  肩から脇腹にかけて走る鋼の冷たい感触。  ドンッ  僧は崩れ落ちる彼の体を剣先で受け止め、一気に深く刃を突き立てた。 「……っは」  胸から背中を貫いた灼熱感。  よろめきながら後ずさった彼の背中に、楠の幹が当たった。    ズズッ    渾身の力を込めて、僧は剣を押し進めた。  名のある刀鍛冶が鍛え、七人の僧が祈祷を込めた封魔の剣。  玉を埋め込んだ柄を無意識につかんで引き抜こうとするが、法力に護られた剣は微動だにせず、彼はあきらめて天を仰いだ。  冥闇の空を焦がす松明の炎、火の粉が樹冠の合間を飛び交う蛍のようだった。  明滅する小さな虫を捕まえようと凍えた指先を伸ばしても、昇ってゆく光には届かない。  胸の痛みに耐えかねて彼は咳き込んだ。喉の奥に溜まっていた血があふれて顎を伝い地面に落ちる。 「俺がお前になにをした」  諦念のにじんだ口調で、彼は僧に問いかけた。 「なにも……」  返り血に濡れた僧の顔は哀しげで、瞳から妖しい赤い輝きは失せていた。 「おまえに恨みなどないが、人に害をなす化け物を調伏するのが私の役目なのだ」  印を結んで封印を完結させる僧を見守る村人たちの中に、大きな眼を見開いて嗚咽を堪えている村娘の姿があった。      記憶はそこで途絶えている。 「お前、あのときの僧…か?」 「そんなわけないだろ」  今度は少年の方が呆れた表情をした。 「オマエが封印されてから何百年たってると思ってるんだ」 「じゃ、あの僧の子孫なのか」  思わず気色ばんだ彼に、少年は問いかけた。 「オマエを裏切った娘が、その後どんな人生を送ったのか知りたくはないか?」 「な……に?」  あの娘はどうなったのだろう。    楠に封印されてしばらくは、何も見ず何も聞かず、誰とも話さず、彼の心は閉ざされたままだった。  幾年を眠ったまま過ごしたのか、ふとある朝、彼の心に浮かんだのは、その後の娘の消息だった。 「庄屋屋敷に盗みが入り、気付いて起きてきた家の者が殺された。犯人探しが始まったが手掛かりさえ見つからず、難儀しているところへ、使用人の一人があの夜、鬼を見たと話した」  黙ってしまった彼に少年が話している。 「村の東に広がる森に棲む物の怪たちの大将で、時々人里に降りてきてはイタズラを働く赤角の鬼だと、その使用人は言った」  息子を殺された庄屋の怒りは凄まじく、金を積んで全国から高名な調伏師が呼び集められた。  彼を封印した僧も、招きに応じて村へやってきたうちの一人だったのだ。 「鬼は弾劾され、僧の持ち込んだ斬禍の剣によって森の大楠に封じられた」 「よく知っているな」 「東雲森の封鬼塚伝説だよ」  少年は言った。 「その時の使用人がその後、どんな人生を送ったのか、知りたくないか?」 「どうなったのだ、あの娘は」  思わず訊いていた。  少年がにやりと笑う。 「俺に協力するんなら、蔵にある村史を全部読んで聞かせてやるぞ」 「それとこれとは話が別だ。お前が死のうが生きようが喰われようが、俺にはまったく関係もないし興味もない」  彼は意固地に言い張った。  少年は嘆息した。 「そうか。じゃ仕方ないな」  あっさりと引き下がり、登ってきたのと同じ枝を伝って降りてゆく。  祠の前に降り立つと、少年は彼を見上げて怒鳴った。 「また来るから、それまでに考えておいてくれよ」 彼は答えなかった。
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