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<番外編>市野怜の女心俺知らず
翠が家にいるようになって、女性がとても大変な生物であることを知った。
仕事では自分で立ち上げた会社がそれなりに認められ、ビジネスは上々。困難には何度も直面したが、その度に乗り越えてきた。物も知ってるつもりでいたし、わからないことは学べばどうにでもなった。そんな俺が最近ぶち当たっている。
女心という名の、高い壁にだ。
これは実のところ俺にとってまったく未知のジャンルなのだけど、乗り越えなければならない。にも関わらず、仕事では絶対にしないミスを何度も繰り返していて、まったくため息しか出ない。女心とはどうしてこう複雑で気まぐれで、細かいフェーズと大量のアイテムを必要とするのだろうか?
例えば、風呂上がり。俺というか、たいていの男はタオルで体を拭いて髪も拭いたら、水を飲んで暇ならストレッチをしたり、筋膜リリースの筒で体をほぐすくらい。髪なんて放っておけば、そのうち乾く。
でも、女は違う。髪より先に保湿のために体中にクリームを塗り、むくみを取るためのマッサージもする。翠のツルツルスベスベの肌がこんな面倒な手入れからできていたとは!クリームを塗る時には、ついでに無駄な毛がないかをチェックしている。翠は永久脱毛をしたらしいのだが、ホルモンバランスによっては再び生えてくることがあるそうだ。
最近、男でも脱毛する奴が多い。時間も金もかかるらしいのに、ヒゲとかスネ毛とか気にするなんて意味がわからない。けど、恐る恐る翠に聞いてみた。生やしっぱなしで手入れなんてさっぱりな俺。嫌だと思われていたら嫌だ……。
「男もツルツルの方がいいと思う?」
翠は手を止めて、ポカンとした表情で俺を見る。やがて、俺が真面目に聞いていることを察して口を開いた。
「好き好きでいいと思う」
「翠は?」
「……。そのままがいい、かな」
ホッ。安堵が顔に出たらしい。すかさず翠が突っ込んできた。
「脱毛しようと思ったの?」
「翠が好きなら」
「私のことはいいから」
「俺は嫌なの」
「私は、女が持ってないものを持っててほしい」
なるほど。激しく同意だ。
だって俺は、俺が持たないもの=翠のおっぱいが大好きだ。
そうだ、俺は知っている。なんと、おっぱいには専用のマッサージジェルがあるのだ。カサカサしてると悪いから俺も保湿を……と思って、翠のスキンケア用品を借りようとした時、一番さっぱりしてそうなジェルを選んだらそれだった。
でも、マッサージをするところは見せてくれない。「俺がやりたい」と言ったらスルー。ソファで後ろから抱きしめておっぱいを触ってる時に、こんな感じか?と想像で揉んだら怒られた。胸が痛くなる時期だったのに、俺の手加減が強過ぎたらしい。ごめん。
あと、朝の化粧と夜に化粧を落とすのも大変そうだ。あれに比べたら、自動でできるヒゲ剃りなんて楽な作業極まりない。
洗顔の後、素顔になった後の肌の手入れもすごい。細い筒からブラシを引き出して、まつげと眉毛に液体を塗る。これは育毛剤らしい。次に化粧水を塗って、美容液を塗って、クリームとアイクリームを塗る。(ちなみにアイクリームは一際容量が少ないくせに、平気で1万2万3万円とするらしい)小さな容器のフタを次々と開けて、顔、そして首から鎖骨付近にまで塗りたくる。こうしたケアをする前に、週に数回違う色のパックもするらしい。
「女は面倒だね」
前に言ったら「そう?」と無表情で返ってきたので「しまった」と思った。たぶん、これは余計なひと言だ。気を取り直して興味がある風を装い、アイテムそれぞれの中身や効果を聞こうとしたけれど、そのうち翠は洗顔後は俺の前に現れず、顔のお手入れを隠れてするようになった。
悲しいけれど、これは自業自得だ。
俺が翠の前で、とある美人のすっぴんをベタ褒めして以来、こうなってしまったのだ。
俺としては、客観的な視点で世間一般からも美しいとされるその女性のことを共有したかっただけだ。だけど、考えていたようには伝わらず、翠はそれ以降、俺に化粧をしていない顔を見せなくなった。
調べたところによると、女子界には“すっぴん風メイク”という泊まりのデート用の技術が存在し、翠も風呂上がりはそれをしているらしい。朝はいつも俺が起きる前に身支度完了。家では当然、旅行先でも彼女はこのルーティンを徹底している。たぶん、この先ずっと俺は好きな人の素顔は見せてもらえない。
「翠は化粧しなくても十分きれいだよ」
一度、ベッドで翠をかき抱きながら言ったことがある。長い時間ギュウギュウに絡み合っていたから、彼女は機嫌を直してくれると思ってた。だけど、その言葉を聞いた途端に顔を背け、首を横に振った。俺の失言については何度も謝ったんだけど、ホントごめん。
とはいえ、実は俺はこの思考を理解できていない。
だって、翠自身かなりの美人だ。バサバサ音を立てそうなわざとらしいまつ毛をせず、酒に酔ってるような真っ赤な頰やギトギトした唇もしていない。なのに、目や唇に少しだけ化粧をして、いつも品が良い涼しげな顔をしている。それがむちゃくちゃ俺のタイプなのだ。
顔だけじゃない。サラサラで真っ直ぐの髪。色白でいい匂いがする肌、細いのに柔らかくて、おっぱいはかなりデカい。AV女優のおっぱいに偽物疑惑があることは知っているが、あのくらい。俺の手には収まらないし、例えようがないレベルで柔らかくて……、あぁ、想像しただけでたまらなくなる。
あれがマッサージの成果なんだろうか?
こんな女性を抱きしめて、好きにできる自分が幸せ過ぎるのはわかってる。だからたびたび俺は眠っている翠の手を取って、こっそりとキレイに塗られた爪にキスをしている。女性は爪のケアも大変そうだ。
翠もよく、時間がある週末にマニキュアを塗っている。仕事で会う女性は爪に絵を描いたり、宝石のようなキラキラ光る物を貼り付けているけれど、翠は自分で一色塗っているだけだった。
塗った後は乾かす。その間に触ってしまうと塗ったマニキュアがヨレて汚くなる。だから、指も脚も何も触らないように気をつけながら乾くのを待つ。
俺はこの時間にジャれるのが好きだ。翠の手足が自由でないのをいいことに、好きなように服を剥いて、好きなだけ愛撫するのだ。翠はものすごく嫌がるけれど、しつこい俺に呆れて結局降参してくれる。
そういえば、何かで浮気防止に男の足の爪にマニキュアを塗るという話を読んだ。俺にもしてほしい。けれど、なかなか言い出せない。「なんで?」と聞かれることが目に見えてるし、「浮気しないか心配してほしい」「ヤキモチをやいてほしい」なんて言える訳ない。
でも、俺はちょっとしたことで妬いてばかりだ。
例えば、藤崎。こいつは俺の友人なのだが、知らぬ間に翠と仲良くなっていたイラつく男だ。こないだパーティーで、身動きできない俺に代わって翠を他の男からガードしてくれたのは助かった。だけど、翠が藤崎の香水の匂いをクンクン嗅いだ時はイラっとした。奴がとてもいい香りをさせていたらしく、翠は藤崎の胸に顔を近づけて匂いを吸い込み、何の香水かを聞いていた。
「あんなことしちゃダメだから」
藤崎が場を離れた時にこっそりと言った。
「ん?」
「男にあんな近づいて上目遣いで見たらダメだよ」
言ってる自分が恥ずかしくて、翠の顔を見られなかった。
翠は藤崎に心を許しすぎている。あいつが俺よりずっと女の扱いがうまいことは知ってるけれど、あんなに頻繁にLINEでやりとりをする理由はないはずだ。俺のことを話してるらしいけれど、詳しいことは教えてくれない。だから、俺の心は狭くなる。
こんなことでイライラしたらきっと笑われる。静寂が辛いから、何か言ってほしい。
「ごめんね」
目線を下ろすと、翠が心配そうな顔で見上げていた。だから、その上目遣いはドキドキするからやめてって……。
「いいよ」
「でも」
「……俺もされたかっただけだから」
言ってしまった。
「香水を気にして欲しかったの?」
「いや、あの仕草っていうか……」
翠が呆れてる。どう返事をすべきか考えてるのか、何かを言おうとしてはためらっている。
「市野さんには難しいな」
「何が?」
「……」
「言って」
翠は一息ついて口を開いた。
「市野さんからは女物の香水の匂いがする」
「……えっ」
全身からドッと汗が吹き出すのを感じた。言っておくけど、まったく身に覚えはない。それでも自分の腕や肩の匂いをかいで、翠の言う“女物の香水の匂い”を探した。
(どれがその匂いかわからない……)
「あ、いいから。別に気にしてる訳じゃないの」
翠は笑って言うけれど全然良くない。仕事で女性と過ごす時間はあるけどやましいことは一切ないし、女性の香水の匂いが服についた理由もわからない。とりあえず、すぐに持っている服をすべてクリーニングに出した。ランドリーサービスの袋に入ったまま着ていない物も含めて全部。空っぽになったクローゼットを見た翠が俺に謝る。
「本当に私は気にしないから」
俺にかかる労力を考えての言葉なのはわかってる。でも、この時の俺はなぜか言ってしまった。
「いや、気にしてほしい」
かなり嫌味っぽいのはわかってる。申し訳なさそうに小さく「ごめん」と言う翠に、こちらが謝りたくなった。女性について勉強したつもりだったのに、俺はまだ全然わかってない。こんなんじゃ、藤崎といる方が楽しくても仕方がないじゃないか。
その後、俺は異常なまでに服についた匂いを気にするようになった。それまでは仕事のつきあいであれば“いわゆるそういう店”にも顔を出していたけれど、どんな理由があっても断るようになった。
家に帰ったら消臭スプレー。自分の発言のせいだと感じている翠は、潔癖症ようになってしまった俺を何も言わずに見守ってくれていた。
そんなある日、帰宅してクローゼットでスプレーをかけている時に、リボンがかけられた小箱を見つけた。
(翠が俺に?)
俺はまるで竹藪でかぐや姫を見つけた翁のように立ち尽くし、神々しく輝いて見えるきれいな包みを見つめていた。いや、俺にではないかもしれない。じゃあ、なぜここに?と一人問答しながら、やっぱり翠が来るのを待つことにした。
「市野さんに合いそうだったから」
(やっぱり俺へのプレゼントだった!)
クリスマスの子供かという勢いで包みを開けると、中から濃いブルーの瓶が出てきた。香水だ。早速、手首に少し吹きかける。ハーブのように爽やかで、スパイスのような香りもして、少しだけ甘い気もする。好きな香りだ。
「どう?嫌だったら無理しないでね」
「好き。すごく好き」
「よかった」
「翠、うれしい、ありがとう」
翠を抱き寄せて、これでもかってくらい腕に力を込める。「そんなにいいよ」と笑われたけど、抵抗はされなかった。
その日から俺は、仕事に行く時も寝る時も翠がくれた香水をつけて過ごした。香水は身につけた後、時間によって香りが変わる。翠は結構時間が経った、いわゆるラストノートと呼ばれる香りが特に気に入ったみたいだ。
「少し木の匂いがするから落ち着く」
俺のシャツに顔を埋めて、深く息を吸い込んでいる。見たか、藤崎!おまえより近い距離だ!
「翠もつけてみたら?」
ふと好奇心が沸いた。もともといい匂いがする翠がつけたら、どんな香りになるんだろう。
「うん。つけたい」
翠はクローゼットに行って瓶を手に取り、手首にひと吹き。その手首を首筋と髪に持っていって香りを分ける。すかさず首筋に顔を埋める俺。翠は「ちょっと待って」と俺を押しのけた。
「もう少しつけたいから、ちょっとあっちに行ってて」
「なんで?」
「いいから」
俺をクローゼットから追い出すと背中を向けて……、シャツのボタンをはずし始めた。そして、再び瓶を手に取る。
「どこにつけてるの?」
クローゼットの中に入って、肩越しに翠の手元を見る。すると、たわわな谷間を作るブラジャーにスプレーをひと吹きしていた。「もう、見ないでって言ったのに!」と翠がシャツで肌を隠す。
(エロい。そんな所に香水をつけるのか)
マンガみたいにわかりやすく鼻血が出るかと思った。
それにしても、翠はどうしていつも俺から隠れようとするんだろう。彼女の体でもう、知らないところなんてないんだけど。
シャツのボタンを直そうとする翠の手を止め、再び脱がせて胸に顔を押し付けた。弾力と繊細なレースの衣摺れ。今つけたばかりの香水の匂いを、鼻からたっぷり吸い込んだ。翠は俺の髪に指を通して遊んでいる。きっと、また呆れて降参してくれているのだろう。
「なんか、俺よりさっぱりした匂いがする」
「そう?つけたばかりだからじゃない?」
「ううん。なんかいい匂い……」
「ねぇ。そんなに舐めたら香水が取れちゃう」
「また、つければいいよ」
「ちょっ、んんっ、市野さん……、待って……」
鎖骨から首、首から唇へと舌を這わせ、両手で胸を揉みしだいたら翠が悶えた。リクエストにお応えして、ベッドに行こう。もつれあいながらクローゼットを出て、二人で倒れ込む。服が邪魔。全部剥ぎ取って、スベスベとした素肌に頬を滑らせると、またいい香りで胸にいっぱいになった。真っ白な肌が触れたところからピンクに染まると、エロさが倍増する。
(どうやって悶えさせようか)
企んでいる間に翠が逆転し、俺の鎖骨に唇を当てながら「いい香り」とうっとりとしていた。
(俺の方が陥落だ……)
二人がまとう香水が熱を帯びて匂い立つ。まさぐり合い抱き合う間にお互いの汗と混ざり合って、俺だけがつけている時とは違う変化を見せる。そして、翠。彼女の興奮が高まり甘く滴り始めると、香りはまた変化した。
「ううっ、翠……」
「うん……いいよ」
女性という生物について俺なりに勉強をした結果、「女は面倒そう」という以前の発言は検討違いであることがはっきりした。ここに深くお詫びしたい。
わかったのは、男がいかにがさつで、急いで欲望を満たそうとしているということ。子孫を残すためにプログラムされた生理現象ではあるのだけど、今の世でいきなり獲って食われて機会を奪われる心配はない。欲望はコントロールすべきなのだ。だって、女性という生き物は可能な限りのアイテムを駆使して下準備を念入りにして、人間同士のコミュニケーションを楽しもうとしているのだから。
藤崎はそういうこともわかっているのかもしれない。だからと言って、俺が今から真似をしたところで勝算はない。それ以前に、俺は藤崎のように万人にモテたいのではなく、翠に好きになってもらいたいだけだ。
しかも、翠の好きではなく、俺の好きで。
いつか、この想いを受け入れてもらえるのだろうか?その日を夢見て、今日も女心を学ぶ。今まで読んだどんな本よりも難解で、世界を変えた先駆者たちの伝記にもヒントが載っていない。
(どうやったら俺にアツくなってくれる?)
俺の胸で穏やかな寝息をたてる翠のまぶたに、キスをひとつ落とす。
早起きの彼女が起きるまであと数時間。俺の腕に閉じ込めておこうと思う。
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