<番外編>市野怜の気づけなかった努力

1/1
前へ
/25ページ
次へ

<番外編>市野怜の気づけなかった努力

 夕方の東京駅に着いた。倉敷でのシンポジウムに登壇してとんぼ返り。仕事が立て込んでる今はのんびり会食をしている暇もない。新幹線を降りて、足早に改札に向かって歩く。 「はい。あ〜ん」  コーヒーショップの袋からスコーンをちぎって俺の口に入れようとするこの女性は、一緒に登壇した文化人類学の学者だ。詳しくは知らないが、普段は東海の国立大でその道で第一線を行く研究をしているそうだ。地道な研究を日本とアメリカのハーフ美人が行なっていること、誰にでも分け隔てなく向ける派手な笑顔と人懐っこさがウケて、名前と姿をメディアでたびたび見かけていた。 「は?」  俺は気に入られてしまったらしい。今朝の打ち合わせで初めて会ったのに、干渉されまくって困惑してる。 「お腹空いてるんでしょ」 「いらないって」 「じゃあ、ご飯食べて帰ろうよ」 「約束あるから」  育ちがアメリカだからか、スキンシップが甚だしい。腰に手を回したり、人の体に頭を預けたり。翠が公共の場で嫌がることの五月雨攻撃だ。 (まぁ、今はだいぶ人前で触らせてくれるようになったけど)  思わず顔がニヤける。今回は偶然(すい)も出張中で、あと三時間ほどで東京に戻ってくる予定だった。その前に晩ご飯を用意して、残りの仕事も全部片付けて、金曜の夜をゆっくり過ごせるように準備しないと。 「まだ仕事あるの?さっきからお腹がグーグー鳴ってるのに強がるんだから」 「この後、食事するから今はいらない」 「ほら、あ〜ん♡」  しつこくてイライラしてきた。素直に従えば、さっさと別れられるか。そう思って、彼女が差し出すスコーンに食いついた。 「はい、いい子」  もう帰る。俺は急がないとならないんだ。 「じゃ、俺はこれで……」  腰にまとわりつく腕を失礼にならない程度にハッキリとどける。方向を変えてエスカレーターに向かおうとした時、翠がいることに気づいた。出張の荷物を持って、車両一個分くらい後ろの位置から俺たちを見ていた。表情はうれしそうではないけど怒ってもいない、完璧にニュートラルな状態だった。 (同じ新幹線だった?いつから見てた?)  翠は関西方面への出張だったはず。でも帰ってくる時間がずっと早い。ドクドクドクドクドクドクドクドク。やましいことはないのに、背中にドバッと汗が出た感じがした。 (いきなり離婚の危機だ。まだ結婚もしてないのに)  翠はくるりと踵を返して、改札へと続くエスカレーターに向かった。まるで、俺なんか見なかったみたいだ。 「俺、行くんで。今日はありがとうございました」  こういう時、翠は逃げる。逃げてひとりで過ごし、気が済んだ頃にやっと会ってくれる。彼女なりの処世術なのは理解してるけど、一緒に住んだからそれは通用しない。思うようにはさせないぞと、エスカレーターを降りた人混みで翠の腕を掴んだ。 「今日は俺の家って約束したよね?」  ごねられるかと思ったけど、おとなしく俺に引っ張られてタクシーに乗り込んだ。文句や嫌味のひとつは覚悟してたから拍子抜けだ。それとも俺の誓いの書があるから余裕なのか。いや、違うな。さっきから一度も目が合ってない。唇をギュッと結んで、窓の外を見ている。 「早かったね」 「早く終わったから」 「どこから乗ったの?」 「京都」 「席近くだった?」 「三列後ろ」  俺たちのベタベタしたやりとりを二時間半ずっと聞き続けてたってことか。迂闊だった。週末をかけて甘やかして機嫌を直さないと。 「疲れてるから寝ていい?今回寝る時間があまりなくて……」  家に着くなり翠が言う。いい訳ない。でも晩ご飯を用意する間の仮眠ならいいか。相変わらず晴れない顔をしている翠を思って、できる限りの優しさで接する。 「いいよ。ゆっくりシャワーでも浴びて」 「ありがとう」  翠がバスルームでガタガタしてる間に、簡単だけど食事の準備を済ませた。寝室の翠を覗くとまだ寝ていたから、自分もシャワー。だんだんと気が急いてきて、濡れた髪のまま翠を起こしに行った。  翠の寝方はいつも同じ。ベッドの端っこで外を向いて眠る。俺用のスペースを開けているつもりなんだろうけど、ここまで端で寝られるとよそよそしさしか感じない。いつまでも他人行儀が抜けないのはかなり寂しい。 「翠、起きて」  驚いてベッドから落ちたりしないように、両腕で挟んでガードした。スースーと小さな寝息が聞こえる。彼女は眠りが深くて、ちょっとやそっとでは起きない。だから、わざと体重をかけて覆いかぶさって、頰にキスをした。 「んっ……」 「起きて」 「眠い……」  一瞬うっすらと開けた目が閉じられる。いつもなら「しょうがないな〜」と俺に体を預けてくれるのに、今日は拒まれてるのがわかる。 「さっきの怒ってるでしょ」 「……ううん、平気」  翠の「ううん、平気」は平気じゃない。これはここ数カ月で学んだこと。もちろん紙切れ一枚で、彼女がずっと守ってきたことを変えられるとは思っていない。だけど、もう少し信じてくれたっていいじゃないか。さっき駅で起きたことは、ただの不可抗力なんだから。  俺は少しイライラしていた。早く会いたい話したい触りたい、翠も同じ気持ちだと思ってた。なのに、また拗ねてふて寝してる。それを見て、今日は言うこと聞いてやらないぞという気持ちになっていた。  だから、クローゼットからネクタイを持ってきて、翠の手首を縛り上げた。今までしたことなかったし、俺の触り方が乱暴だったからか、翠は驚いて目を丸くする。 (嫌だって言ってもやめないからな)  想像に反して、翠は抵抗することなく俺を受け入れた。たびたびビクンビクンと体を反応させるだけで、目を閉じて息を吐いたり唇を噛んだり。声はひたすら押し殺していた。  馬乗りになって、うつ伏せにして、膝の上に抱き上げて、力任せに体をぶつけた。いつもならお互いを気づかって、抱きしめたり撫でたり笑いあったり、俺たちにとってセックスがひとつの大事なコミュニケーションであることを実感してた。  だけど、今日は無理。苛立ちと縛り上げられて動けない翠の姿への欲情で、いつも増して激しく、溜まりきった欲望を翠の中へ吐き出した。休ませてもあげるつもりもない。グッタリとして息を整えている翠を待つことなく、脚の間に顔を埋める。 「んんっ……」  頭上から微かな声がした。彼女は行為自体は嫌いじゃない、むしろ好きなはず。ただ、俺の愛撫がしつこくて長いから、我慢できなくなって「早く挿れて」とねだってくるのが常だった。でも今日は違う。秘部を真っ赤にしてヒクつかせてるくせに、声を出すのを堪えてる。怒っている時に気持ちいい声を出すのは、負けた感じがして嫌なんだろう。 (まさか、寝てないよね……)  顔を上げると目に涙を溜めて悶えていた。 (今日は優しくしてあげないからな)  再び脚の間に舌を這わせる。翠の羞恥心を煽りたくて、これ以上できないくらいに脚を全開にさせた。いつも俺ばっかり我慢して気づかって愛情を見せて、全然返してもらえない罰だ。俺の性欲を思い知れ!と思っていた。  もう立てませんというくらいに抱いた後、明るんでくる空を見ながら眠りに落ちた。次に目を開けたのは何時間後?物音に目を覚ますと、翠が服を着ているところだった。 「まだいいでしょ?」 「もう帰らないと」  シャワーもせず、髪をまとめ直しただけのその姿で帰れるわけない。 「送るから、もう少しいなよ」 「平気」  寝て起きてもまだ目が合わない。本当に強情だなぁ。そのまま部屋を出て行ってしまったから、慌てて服を着て追いかけた。  車に乗っても、翠は窓の外を見つめたまま。あの口をギュッと結んだ顔でひと言も話さなかった。俺が無理矢理送ってるんだから気持ちはわかるけど。  マンションに着くと「ありがとう」とだけ言って降りてしまった。 「今週末は仕事が溜まってて時間作れなそう」  口調が冷たくなる。 「わかった」  いつもなら別れがたくてキスをして「やっぱ帰るのやめて」とか「一緒にいよう」とか言って呆れさせて笑って別れるんだけど、今日はそれもなし。昨日縛った手首が赤くなってるのがチラ見えしたけど、優しくしてやんない。  無表情のまま振り返りもせずに、翠はマンションに入っていった。  見送った後はオフィスへ向かう。仕事をしないといけないのは本当だ。自分で時間がないと言ったのだから当たり前だけど、お昼を過ぎても翠から連絡はなかった。  なんか悔しい。なのに、心の中は罪悪感でいっぱいになっていた。力任せに抱いたり、体を傷つけたり。あまりに一方的な行為だったと胸が痛む。  それに、翠の友達の有希さんに言われたことも思い出した。 「翠は、去る者は追いませんよ」  些細なことにヘソを曲げないで素直にかわいくするまでは、優しくしてあげたくない。でも、俺が追わなければたぶん終わる。こないだやっと合鍵をもらって、翠の家で過ごすことも多くなって、そうそう料理もお互いしてる。弁当も作ってもらったし、短期間で二人の関係はすごい進歩をしていた。  あー、もう!!!! 「鷲山。悪い。俺、家で仕事するわ」 「えっ?あっ、わかりました。電話は繋がるようにしといてください」  俺に彼女ができたことは鷲山にもバレている。だからか知らないが、大半の作業をひとりでやることになったのがわかってもOKしてくれた。助かる。部署アシスタントちゃんの席の後ろのキャビネットを開けて、会社に届いた贈答品を眺める。彼女が管理してくれていて、毎日おやつの時間になると皆に出してくれている物たちだ。 「鷲山。女が喜ぶ物どれ?」 「俺に聞かないでください……」  うん、聞いてごめん。センスがあって頭もいいし仕事もできるけど、彼は最高にモテない。翠が好きそうな美しいパッケージデザインのクッキーとウイスキーと、あと腹が減ってるのでインスタントのビーガンラーメンセットを掴んで会社を出た。  アホみたいに急いで翠の家まで車を走らせる。こんなことなら、優しくしておけば良かった。もうどこかに出かけてしまったかもしれないし寝てるかも。そう思って、玄関のドアはそっと開けた。家の中からガタガタと音がしている。良かったー。 「翠?」  洗面所のドアから翠が顔を出した。 「ただいま」  びっくりした顔で俺を見てる。 「来ちゃまずかった?」 「ううん」  大丈夫なのはわかってた。俺が好きなストライプのパジャマを着て、髪は洗いざらし。寝る前に、出張の荷物の洗濯をしていたんだろう。手にたたんでいる途中のタオルを持っていた。 「お腹空いてる?ちょっと賞味期限が過ぎちゃったけど、おいしい和牛のお弁当あるよ。さっきサラダも作ったし」  これ知ってる。京都の予約しないと買えないやつ。相変わらず俺とは目を合わせないで、弁当をレンジに入れたり、冷蔵庫の中からサラダのコンテナを取り出したりしていた。 「翠は食べたの?俺も少し持ってきたよ」 「もう食べた。ありがとう。このクッキー気になってたの」  俺の分まで弁当を買ってきてくれたのか。ちゃんと考えてくれてたんだな。  顔は暗いままだけど、さっきよりはリラックスしているように見える。自分の家にいるからだろうか。ただ、俺の方は心が痛んだ。翠の手首が見えたからだ。 (思ってることは口にしよう。自分が提案したんだから、まずは俺からしないと) 「痛い?」  翠の手を取って聞く。 「すぐ消えるから」 「ごめん。傷つけたりして」 「平気」  翠は微かに笑って、また口をギュッと結んだ顔になった。 「怒ってるのはわかってる。俺がまた女とイチャついてるって。だけど、あんなの向こうが無理矢理やってきただけだし、断ったの見たでしょ。いちいち疑わないで俺のこと信じるべきだと思うよ」  こんな言い方をしたかったんじゃない。 「わかってる」  翠から弱々いい返事。 「我慢しようとしてるけどダメなの。ただの仕事のお付き合いだってわかってるけど、やっぱり嫌なの。怜が悪いんじゃない。私、なんでもっとがんばっておかなかったんだろうって。怜にふさわしい人になっていたかったって思っちゃうの。怜が言うから、男の人と二人にならないようにしてるし、誘われても断ってるし、お弁当も作ってあげてない。自分では努力してるつもりなんだけど、上手くできなくて……」  違う。  近くで見ると唇が震えてる。どこも見ていないようなぼんやりとした目には力が入っている。怒りで無表情をキメてるんじゃなくて、泣かないように堪えてたのか。ちゃんと見ていなかったのは俺の方だ……。 「セックスはいいの。痛くても傷ができても平気。怜の好きにしていいから、もう少し時間がほしい。嫌な気分にさせてるのわかってるけど、怒らないで待っててほしいの」  一気に言って、翠は口を閉じた。  怒ってるのも俺か。翠が努力していたことにも気づかなかった。時間をかけて関係を育てていこうと決めたのに何やってんだろ。 「もう行って」 「なんで?」 「仕事あるんでしょ?電話ずっと鳴ってる」  そういえば、ジーンズのポケットで携帯が震えてた。渋々出ると、その隙に翠が離れていこうとしたから両腕で捕獲した。 「鷲山、どうした?」 「ああ、そこか。いいよ、任せる」 「できたら写真送って、確認するから」 「オフィスには行けない。彼女の具合が悪くて」  アゴを乗せていた翠の頭が動いて「自分は大丈夫だ」と訴える。でも無視。鷲山は俺の指示をすんなり受け入れて、電話は切れた。 「オフィスに行って平気だよ」  まだ言ってる。翠の唇をフニフニと触って、一文字に結んだり噛んだ状態を止めさせる。 「何?」 「翠が努力してるのに気づかなかった。こんなに唇噛んで我慢しなくていいよ」  あとは手首。やっぱり申し訳なくて、思い切って翠の前で膝をついて頭を下げた。 「やだ、土下座なんてしないで」 「いや、ダメだ」 「いいの。私もごめんなさい」 「あんな抱き方して申し訳ない」 「平気だから」 「良くない。痛いところはない?」 「大丈夫」  翠も床にペタンと座って、俺の体を起こそうとしている。だから抱きしめた。俺の腕の中にすっぽりと収まると、目から涙がこぼれる。ぬぐってあげようとした途端に顔を隠すから、笑ってしまった。泣いてるのバレてる。 「翠、愛してる」 「うん。迷惑かけてごめんなさい」 「翠は悪くない」 「あの時、どうすれば良かった?」  これは初めての反応だ。改善していこうという気持ちが見えてうれしい。 「う〜ん。乗り込んできてほしかったな」 「乗り込むって?」 「『うちの夫に何か?』って会話を邪魔しに来るの」 「……」 「同じことがあったら、俺もそうするから」  翠は絶対にしない行動だ。本気で困ってるみたいだったから、からかっていると言おうとしたら、 「わかった。やってみる」  まぁ、いいか。 「ゆっくり急ごう」 「うん」 「あと、やり直しさせてほしい」 「何のやり直し?」 「昨日のセックス」 「そんなのいいって」 「自己満で悪いけど、俺は嫌だ」 「わかった。じゃあ、夜ね」 「違う。今」  翠が驚いているのがわかった。「またなの?」って顔だ。できるに決まってる。今度はもっと大切に、気持ち良くしてあげたい。 「今はダメ」 「嫌だ」 「そんなにお腹がグーグー鳴ってたら集中できない。ご飯食べてからならいいから」  翠が正しい。でも、だったら……。キッチンからお弁当とサラダを運ぶ翠におねだりしてみた。 「じゃあ、食べさせて♡」 「……」  まずい……。墓穴堀った……。  冷や冷やして翠の顔を見られない。 「そこ座って」  ちょっと怒った顔で言われる。おとなしく座ったものの気が気じゃない。 「ごめん。そんなことしなくていいです……」  翠は俺の言うことなんか聞いてなくて、ダイニングの椅子を隣に寄せて座り、俺の脚の上に太ももを乗せてきた。 「はい、あ〜ん」  へ? 「食べさせてほしいんでしょ?」  素直に口を開ける。と、同時に赤面した。なんか子供みたいだ。 「なんかこれ、結構恥ずかしいな」 「さっきもしてたくせに」 「しつこかったから、食べれば帰れると思ったんだよ」  翠が俺の口に入れたトマトを、口移しで翠の口に入れる。 「ちゃんと食べて!」 「でも断るべきだった」 「私が『ちょっと』って行けばいいんでしょ」 「翠がいない時もちゃんとする」 「早く食べて。また、いっぱいするんでしょ」 「ははは」  ツバメの親みたいに、翠は俺の口が開くのを待っている。その様子がたまらなくかわいくて、この愛らしい生き物に心底飼い慣らされたいと思った。 「怜がネクタイ持ってるなんて知らなかった」  そこ突っ込むところ?  まずは、ネクタイ締めてデートからだな。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

138人が本棚に入れています
本棚に追加