<番外編>市野怜の君は覚えていないけど

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<番外編>市野怜の君は覚えていないけど

「やだー!」  リビングで(すい)が叫ぶのが聞こえた。  理由はわかってる。さっき俺がアップしたSNS投稿を見たのだろう。俺がいるベッドルームに向かってくる足音がする。 「ちょっと!こんなのアップしないで!」  プリプリに怒ってる。怒った顔もかわいいぜ。 「何が?」  今日、翠は俺の家の引っ越し準備を手伝ってくれている。俺はこういう作業が苦手で、彼女は得意。寝室の整理に俺がモタモタしている間に、リビングその他の大部分の仕分けや梱包をどんどん進めてくれるのだ。  そう、俺たちはもうすぐお互いの家を出て、新しい家で一緒に住む♡ 「こんな絵やめてよ!」 「上手く描けてるでしょ」 「上手いのは上手いけど」 「一番エロくなくて、顔がわからないのを選んだのに」 「他にもあるってこと?それも見せて!」  翠の顔が赤く染まっていた。これは見せないとキレるな……。仕方がない。出張から帰ったまま放置しているスーツケースの中から小さいスケッチブックを取り出し、彼女に手渡した。 「もっ、もうーーーーー!」  ページをめくりながら「いや」とか「もう」とか「あっ」とか、喘ぎ声みたいな声をあげる翠。だんだん顔も歪んできて、誘ってるのかと勘違いしそうになった。 「こんなの、いつ描いたの?」 「出張中。翠が電話でエッチな格好を見せてくれないから」 「だって、そんなのどこかに漏れたら困るでしょ!」 「写真を送ってくれるだけでもいいのにさ」 「同じこと!」  スケッチブックには、俺の腕の中にいる時の翠が描かれている。SNSにアップした絵は腹がチラ見えしてるくらいだけど、他の絵は裸だったり半裸だったり下着姿だったり。気持ちいいことをされて恍惚としている、とても淫らな翠だ。エロくて当然。離れていてさみしい時に、俺がムラムラするために描いたんだから。 「これは没収します!」 「いいよ、また描くし」  こっちを見て睨んでる。うん。今度はこういう構図で、裸にした絵がいいかも。 「怜が死んで何年も経ってから、こういう物が発見されちゃったら恥ずかしいでしょ!」 「別にいいじゃん。画家がガールフレンドのヌード描くなんて大昔から普通だし」 「そのうちの何枚が無断で描かれた物なの?」  いかに翠が考えそうなことだったから、つい吹き出してしまった。 「もう!笑ってる場合じゃない!」 「翠だって、ヌードくらい描いたことあるでしょうに」 「ありません。私、美大出身じゃないし、絵の勉強もしていないし」 「嘘だよ。平沢先生のクラスに通ってたじゃん」 「えっ?あっ、行ってた。高校生の時」 「そこでヌードの授業あったでしょ」 「あった!懐かしい!怜もいたの?」  平沢先生は俺の大学時代の恩師だ。 「行ったことあるよ」 「そうなんだ。あのクラス、私が一番歳下だったんだけど皆優しくて。一緒にご飯食べに行ったりしたな。でも、怜がいたなんて全然気づかなかった。キャラ変したとか?」  さっきまであんなに怒ってたのに、もう機嫌が直ってる。俺の隣に座ってニコニコ楽しそうだ。 「隣に座ったこともあるのかな?ヌードの時なんてね、皆恥ずかしいのか、正面がガラ空きだったんだよ。私は遅刻しちゃったから、そこしか空いてなくて恥ずかしかったな〜!ねぇ、あの時の絵はないの?」 「ない」  やばい。 「捨てちゃったのか。上手そうなのにね」 「いや、俺描いてないし」 「えっ?ああ、平沢先生の助手をやってたとか?」  う〜ん。俺の黒歴史なんだよな。 「違う」 「?」  でも、翠は忘れてるから思い出してほしい気持ちもあって。 「俺、モデルやった……」 「えっ?」  翠が俺の顔をまじまじと見てくるから、恥ずかしくなって手で顔を隠した。今、必死で記憶を蘇らせようとしてるだろ。 「嘘?バイトとか?」 「いや、違う。こらっ!笑うなって」 「だって、だって……」  翠は笑いをこらえるのに必死でいる。 「あの時のモデルが怜とか……。ふふふっ、もうやばいって……」  あれは、平沢先生が与えた罰だった。俺が先生が所有する貴重なものを壊してしまって……、その罰にとデッサンのクラスでヌードモデルをさせられたのだ。  若かったし、別に困ることはないと素っ裸でモデル台でポーズをとった。美大入学を目指す外部生のためのクラスだったから、恥ずかしそうにしてる人が多いのもおもしろい。こんなのちょろいぜ、と俺はたいして反省もしていなかった。  まぁ、モロ出しだけど、真っ正面はガラ空きだから平気平気。そんな風に余裕でいた時に、遅刻者が教室に入ってくるのが目に入った。形からして女の子。 「遅れてすみません」 と女の子の声。 「いや、問題ないよ。空いてるところに座って始めて」 平沢先生の声がする。 「スイちゃん、遅い〜」  彼女にかかるクラスメイトの声。  そんな声もなくなって、左右の斜め後ろどちらかに空席を見つけて座っただろうなと思ったら、俺の目の前に美人が座った。 (今、入ってきたスイちゃん?)  彼女以外からは誰も見えないだろうけど、俺の顔はピクッと動いたと思う。白い肌に自然な茶色の髪。頭のてっぺんでクルクルと丸めてまとめていて、少し出ている後れ毛がエロい。背も高く、手足はスラッと長い。でも、細身なわりに胸はしっかりあって、シンプルな白いTシャツに大きな盛り上がりが作られていた。 (エロい体してる)  しかも、この子。顔がスゲーかわいい。涼しげな顔立ちだけど、ちょっとハーフっぽい感じもあって、化粧はしてないよな?唇だけ少しピンク色に塗られていてウルッとしていた。美人がこういうラフな格好をすると、妙にそそられるんだよな。 (って、何を凝視してるんだ。でも仕方ない。俺は健康な若い男だもん♪)  その子はモロ出しの男を前にしても動揺することなく、すぐに遅れを取り戻すべくデッサンに集中した。クールな子なのかな。きれいなアーモンド型の瞳で、俺の頭、耳、眉、目、鼻、口を見る。この子の瞳、紅茶みたいにきれいな薄茶色をしてる。   首、肩、腕、指。射抜かれるような視線でじっとりと見られることは、触られたり舐められるよりもムラムラするのだと、この時知った。胸、腹、そしてあそこ。 (そんなに見るなって……)  彼女の視線に、俺は何度も生唾を飲んだ。  途中、動きを止めて俺というかモデルを凝視したり、何か考えながら唇を噛んだり。そんな些細な動きの全部に妙に反応してしまって、いつの間にか勃たないように自分を制御することに必死だった。  授業が終わって(服を着て)から、誰もいなくなった教室に並べられた生徒たちのデッサンを眺めた。あの子の物が見たい。どれかはすぐにわかった。だって、同じ角度の絵はないはずだから。 (小早川……。これでスイなのか?ミドリちゃんじゃないのか。なんか戦国武将みたいな名前だな)  絵はうまかった。技術云々なんて、たかが学生の俺ではわからない。そんなことはどうでもよくて、俺は彼女の目に映った自分を見てみたかった。でも、実際見るとちょっと照れる。だって、全部バッチリ精密に描かれてる。どれだけしっかり見られたか、想像するだけで恥ずかしくなった。 「うまいでしょ」  平沢先生が教室に入ってきた。 「はい。でも、まさか真っ正面に座られると思ってなくて……、ちょっと恥ずかしいなと」 「これ、罰だからね」 「わかってます」 「小早川さんは美人だからね〜」 「やっぱ先生も思います?あんなかわいい子、滅多にいないですよね?そんな子にあんなにジロジロ見られたらヤバイですよ」  正直に言ったら、先生が俺をジトッと睨んだ。 「手出しちゃダメだからね」  いやいや、いくら先生だからって。 「なんでですか?若い男と女が惹かれ合ったら仕方ないですよ」 「ダメ。あの子、高一だから」 「はっ?」 「まだ十五歳」 「えっ、見えなっ」  ヌードモデルはあれ一回きりだったけど、その後も夏休みや冬休みの集中講座のたびに、教室で翠を見た。描画だけでなく、そういえばグラフィックのクラスにもいたな。見るたびにどんどん大人っぽくなって、たまに制服姿だったりすると萌えた。大学はきっとウチに来るんだろうし、俺が大学院に行けば一緒になるな。そしたら先輩面して手を出そう、なんてことを考えていた。 「行きたいと思ってたよ。だけど、その頃家にいろいろあって、新しい環境で新しいことをする気力がなかったの」 「そっか。俺、結構がっかりしたんだよな。新入生をチェックしまくったのに翠がいないんだもん」 「そんなに私のこと好きだったんだ」 「かわいいな〜、触りたいな〜って思ってた」 「怜はロリコンなんだね」 「違うよ。そんなに歳離れてないと思ったの」 「ふ〜ん」  疑いの目を向けてきたけど、ロリコンの趣味は絶対にない。 「ていうか、平沢先生とそんな話してたなんて嫌。恥ずかしくて、どんな顔して会えばいいの」 「俺、褒められたよ。すごい執念だって」 「十年以上忘れてたくせに」 「忘れてません」  翠の首筋にこぼれる髪の毛に触れて、話を遮った。だって、くだらない言い合いで時間を無駄にしたくない。せっかく手に入れたんだから、いつだって腕の中に置いて嫌ってほど愛してあげないと。 「あの時もこの髪型してた」 「そうだっけ?邪魔だからまとめてたんだと思う」  二人で温泉に行った時も同じ髪型をしていた。あの時は服装も似ていて……、だから異様に興奮した。生理でセックスができない翠が胸や脚や脇の間に挟んでイカせてくれて、擦りまくったせいで彼女の体を真っ赤にしてしまったんだ。 「モデルしてた時さ、俺のこといい男だと思ったでしょ?」 「ヌードモデルにそういうこと考える?」 「皆それしか考えないだろ」 「そうなの。う〜ん、細い人だなと思った。ヌードモデルってもっと筋肉モリモリだと思ってたから」 「マッチョ好きなの?」 「ううん、別に」 「濡れてたでしょ?」 「怜こそ、勃ちそうなの我慢してたんでしょ?」  まったく。俺の美人はなんてふしだらなんだ。ニヤニヤして俺を見てるから、そのまま床に押し倒してやった。 「そうだよ。悪いか。隣の準備室に連れ込んで裸にして、めちゃくちゃに喘がせたいと思ってた」 「んっ、ダメだよ。まだ荷物の整理終わってない。引っ越しできないよ」 「あとで急ぐ」 「んんんっッ!」  キスをしたまま翠を抱き上げて、二人でベッドに倒れ込んだ。 「でも準備室ってドキドキするね。してみたかったな」  はぁ、まったく……♡  それから数日後。  今度は、俺が悲鳴を上げることになった。ガラスで仕切られた社長室などない我がオフィスの、他のスタッフと並んだ自分の席で声が出た。  自宅の引っ越し作業をしている翠が、昔のスケッチブックを発見したんだろう。例の俺のヌードをSNSにアップしたのだ。 (まじか……)  さすがに卑猥な部分はギリギリでトリミングされて見えていなかったけど、俺が描いた翠とは違って彼女が描いた俺は誰だかわかる。髪が少し長いくらいの違い。困ったことに、翠は一般人なのに業界で知られた存在なのと投稿内容のセンスの良さもあって、フォロワー数が著名人の端くれの俺くらいいる。つまり、俺の素っ裸が世界中に絶賛拡散中という訳だ! (藤崎のヤツ、真っ先にいいねしやがって!ムカつくな!) (ちょっと待て……。母さんまでいいねしてる……)  俺の母親と翠はすっかり仲良くなり、今では俺の留守を狙って家に来て、一緒にご飯だ買い物だ料理だと楽しんでいるらしい。「やっぱり女の子が欲しかったわ〜」って今さら。グレるぞ。  翠から“あっかんべー”の絵文字が送られてきた。 (まったく……、かわいいな) (出した舌に吸い付いてやるぞ) (そして、そのままお仕置きだ!)  あー、早く家に帰りたい。家に帰ったら翠がいるか、俺がおかえりを言うか、どちらでもいい。それを想像するだけで楽しくなって、幸せな気持ちになってニヤニヤが止まらなくなる。  でも、今はしっかりしろ。仕事中だ。スタッフが皆一生懸命なのだから、俺もがんばらないと!前の席の鷲山が俺をジッと見ている。鷲山は真面目な男だ。ニヤニヤしている俺が嫌だったのだろう。 「どした?」  携帯を見て何か考えている。俺が何かミスったか?というか、俺が妄想している間に皆、ランチに出かけてしまったらしい。 「昼、食べた?行くか?」 「これ、社長ですよね?」  ……。  ……。  鷲山の手に翠の投稿が表示された携帯があった。  中高男子校で工学部出身、博士課程修了。ついでに彼女いない歴=年齢のこの若者に、アートとはなんぞやをどう伝えるか、伝える必要自体あるのかどうか。  真面目な顔で質問する鷲山に作り笑いをキメて、要するに俺は必死こいて言い訳を考えていた。
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