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<番外編>市野怜の薫の亡霊を消し去りたい
「え〜!結婚式しないの?」
「うん。歳だから」
「歳なんて関係ないよ。一生で一回のことだよ」
「ああいうのは若いからいいの」
「絶対反対。カジュアルなものでもするべき。市野さん、イケメンなのにもったいない」
「イケメン関係ある?」
「というか、市野さんは結婚式しなくていいんですか?」
絵理香さんが突然、話を振ってきた。今日、俺たちは絵理香さんの家にお邪魔している。いや、正しくは俺が勝手にくっついて来た。
「したいんだけど翠が嫌がって」
俺はリビングの端に作られた子供用の遊びスペースで、絵理香さんの長女の遊び相手をしていた。小学二年生で、名前は和歌ちゃん。彼女が描いた女の子の絵に色をつけてあげたら「もっと」とリクエストされたのだ。今はお姫様のドレスにグラデーションをつけている。子供と遊んだことはないけど、お絵かき帳が塗られていくたびに目を輝かせる様子はかわいかった。
「ほら!市野さんはしたいって!」
こっちも塗って!と和歌ちゃんが袖を引っ張る。絵理香さんのもうひとりの子供、和歌ちゃんの弟の歩くんは俺の膝の上で寝てしまった。さっきまではしゃいでいたのに、突然電池が切れたみたいだ。子供という生物は意味がわからない。
「あのねぇ、翠。結婚はふたりでするものなの。自分がどうしたいかだけじゃダメなんだよ」
「そんなのわかってるよ」
絵理香さんの前では、翠は普段見せない顔をする。今みたいにふてくされたり。絵理香さんのように子供の頃からずっと一緒にいる友達は、翠にとって親よりも身近な存在なんだろう。今日一緒に来たのはこのためだった。翠の友達に会いたいのはもちろんだけど、自分のことを進んで話さない翠のことを親しい人から聞きたかった。
「翠はドレスだって超〜〜似合うのに!」
絵理香さんの言葉に、翠は微かにピクッと反応した。
翠のことはなんでも知っていると思われる絵理香さん。翠とは違って割り切ったり冷めたところがなく、人生を100%エンジョイしている感じがいい。二人でいるとバランスが取れるのだろう。何かを思い出したのか、絵理香さんは本棚を探っていた。
「あった!」
冊子をペラペラとめくりながら笑顔になる。
「市野さん、見てくださいよ。これ、すごくキレイだと思いません?」
「絵理香!」
翠が叫ぶ。絵理香さんの手にある冊子は、翠にとって都合が悪そうだ。
「これ、翠が花嫁のモデルをした時のカタログなんです。学校に家がコム ラ クレームの子がいて頼まれたんですよ」
疎い俺でも知っているウェディングドレスの高級ブランド。カタログはずっしりとした重さがあり、紙やフォントのセレクトもエンボスのつけ方もブランドの品位に合うセンスの良いものだ。金のかかり方がカタログのレベルじゃないなと感心したら、フォトグラファーが超敏腕の御厨隆敏だった。
「これ、大学生くらい?」
ドレスとメイクのせいだろうか、俺が知ってる高校生の翠より大人っぽい。和歌ちゃんも乗り出して、ドレスの写真に見入っている。女の子は小さい頃からこういうのが好きなんだな。なのに、歳を取ると興味を示さなくなるのはなぜなんだろう。
「三年だっけ?皆で撮った成人式の写真で見初められたんだよね」
(成人式の写真も見たことない。ついでに見せてほしい)
写真の中の翠はとても美しかった。たくさんのドレスを異なるヘアメイクで着こなし、ドレスのテーマに合わせた表情とポーズをとっている。照れくささと幸せでいっぱいな花嫁の心が、ページ全面にあふれていた。
(かわいいのに、なんで見られたくないんだろ?)
理由は、次のページでわかった。
それまでのページにも腕だけ脚だけ肩だけとピントが外れて写り込んでいた花婿役の男とツーショット。翠と同じ歳くらいの、かなり美形の男だ。
「薫にはもう会いました?」
こいつか。
「いや、まだ会ってないです」
「私の身長に合う男が他にいなかっただけだよ」
遠くから翠が口を挟む。普段、自分から口にしないケーキをモリモリ頬張って、遠目にもイライラしてるのがわかった。
「薫とはずっとベストカップルに選ばれてたもんね〜」
余計なことを…。翠の心の声がした。
直接聞いてはいないけど、薫という男のことは絵理香さんと有希さんと三人で話しているのを盗み聞きして知っている。薫は翠の体を開発した男。たぶん処女も奪った男。あと、きっと本来翠はこういう顔が好みだ。それだけでもフツフツと沸き立つものがあるのに、こんな超絶ハイクオリティの写真が残っているのを見たらネガティブな思考を止められそうにない。
(まるで本物の新婚夫婦じゃないか)
「わたしもドレスー!」
和歌ちゃんが走ってリビングを出て行った。自分の部屋に洋服を取りに行ったのだろう。その後を絵理香さんが追いかける。
俺は歩くんを昼寝用のクッションに寝かせて毛布をかけ、まだ知らんぷりしている翠の横に座った。一番いいと思う写真、二人がさりげなく肩を寄せ合ったページを見せて。
「すごくきれいだよ」
「カメラマン、御厨さんだから」
「うん」
「ベストカップルとかただの学校の行事だから」
「うん」
ページをペラペラめくって、再び美しい翠を眺める。
チュッ。
突然、翠の体温を頬に感じた。俺のムカつきが顔に出ていたのかもしれない。人前ではほとんどイチャつかない翠が、こんな場所でキスしてくるなんて。
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
「……私も若かったら結婚式したかったよ。ドレスも着たいし」
「わかってる」
ああ、そうか。歳を取ると興味がなくなるんじゃない。憧れる気持ちに折り合いをつけて、フタをしてしまうんだ。
翠が嫌がることはしたくない。とは言え、この件はそう簡単に譲れなくなった。だって、このままだと薫とのこの写真が翠の唯一のウェディングドレス姿になってしまうから。俺はそんなの冗談じゃない。
困った顔で俺の機嫌を伺っていた翠の、今度は唇にキスを落とす。振り払われるかと思ったら、翠の方から腕を掴んできた。そんな翠に甘えて、和歌ちゃんと絵理香さんの足音が聞こえるまで唇を味わい続けた。
■■■■■
「は〜〜」
「すごいあくび。眠いの?」
腕を伸ばして抱き寄せると、翠は素直に俺の肩に頭を預ける。目を閉じて、かなり眠そうだ。
「少し」
「仕事忙しいんだ」
「ううん。普通。眠いのは……、怜が毎日元気だから」
俺か。
「そっか。俺は会社で昼寝できるけど、翠は違うもんな」
「社長はいいなぁ」
うちの会社は社長とか関係なく寝るんだけど。でも、だからって夫婦の営みをやめるのは無理。
「私も怜が帰ってくるまで、少し寝たりしてるんだけど」
「本当に辛い時は言って」
でも、やめるのは無理。
「大丈夫。出張の時に寝溜めしてる」
「俺とするの、そんなに好きなんだ」
「好きだよ。でも……、心配もしてるの」
「? 何が心配?」
聞いておいてなんだけど、何を言われるかドキドキしている。
「元気になる物、飲んでないよね?」
「オフィスでたまにレッドグルとかは飲むけど」
「違う。……男の人が、元気になる薬のこと」
はっ?
「バイアゲラ?」
「使うのは全然いいの。だけど副作用もあるって聞いたから……」
翠は大真面目だ。でも、バイアゲラって。やっぱり俺くらいの歳になると、そういう疑いをかけられるのか。
「飲んでない」
「それじゃおかしいよ」
「何が?」
散々エロいことをしてきたのに、今さらバイアゲラぐらいで恥ずかしがる方がおかしい。
「もう四十歳なのに、あんなにできるなんて高校生もビックリだよ」
「回数が多いってこと?」
「……」
「俺、変?」
「知らない。そういうことは男同士で話して」
恥ずかしそう。いや、ちょっと待て。ということはだよ。
噂の薫よりも回数が多いってことだな!
見たか!
やったぞ!
万歳三唱だ!
「どうして笑ってるの?」
「なんでもない」
まさかのバイアゲラには驚いたけど、まだ見ぬ敵、イケメン絶倫の薫より優れていることが見つかってホッとした。
なのに翠ときたら!
後日、おそろいのパジャマを手渡してきた。
「これを着てる日は朝まで寝かせて」
(えっ、無理)
「朝になったら、OKだから」
「朝って何時からが朝?」
「私が起きるまでが朝」
くそっ。
翠曰く、ずっと気になっていたお高いパジャマ屋さんで奮発したらしい。パジャマというアイテム自体はそそるしエロいからいい。でも何だこれ、パジャマが四万円もするの!?
いらない。いらない。いりません。
俺はこんなお預けパジャマは絶対にいらないんだからな!
■■■■■
一応言っておくと俺は幸せの絶頂にいて、仕事も問題なく順風満帆。そんな俺は最近、悪夢にうなされている。どんな夢かといえば、薫だ。翠が言うとおり今はただの友達なんだろうけど、俺はまだ消化できずにいた。
ある時見た夢は、高校生の翠とイチャついていて、またある時は二人とも裸で、さらにある時は二人の結婚式だった。
目覚めて次の瞬間は、必ず最悪な気分。なんてバカな夢見てるんだと自分にムカついた後、翠の髪のいい匂いを吸い込んでやっと落ち着く。本物の翠は俺の胸にしがみついてグースカ寝てるのに、何が不満だって言うんだ。
こんな風にひとり悶々とする日を送っていた。
「起きて、怜!」
「はっっ」
揺さぶられて目を覚ますと、上から翠が覗き込んでいた。また夢か。ホッとして深く息を吐く。そうだ、引っ越し作業中にソファで少し寝させてもらったんだった。家はほぼパッキングが済んでガランとし、ダンボールの山が並んでいる。
「嫌な夢でも見た?」
掃除用にエプロンをして、ポニーテールを垂らす翠。額にかいていた汗を拭って、前髪を整えてくれている。
「うん」
「どんな?人に話すと正夢にならないって言うよ」
正夢になんかなっちゃ困る。でも、これは話せない。
「忘れた」
「ふっ。寝てていいよ」
続きに取り掛かろうと立ち上った翠の腕を引っ張って、俺の上で抱きしめた。
「一緒に寝よう」
「今はダメ。今日は絶対に終わらせたい」
「少しだけだから」
「まだ昼間だし」
俺が首すじを舐めてエロモードに突入すると、翠が逃げようとした。でも笑っているということは、逃げることを諦めたサイン。もう〜なんて言いながら、俺にされるがままエプロンとニットを脱がされる。
本当に真っ昼間だ。リビングの窓は天井から床までガラス張りで、青い空が見える。周囲に遮るビルもなく、たっぷり光が入ってくるところは翠も気に入っていた。そんな翠は俺の首に抱きついて、強く舌を絡めている。
(嫌だとか言って、たまんない)
つい、悪いことを思いついた。
翠を抱きしめたまま立ち上がって、窓際に移動する。素肌の背中に太陽の温かさを感じているはずだ。キスに夢中になっている間にジーンズのウエストに手をかけて、ずり下ろす。ショーツ一枚だけにされて恥ずかしくなったのか、荒げる息の合間に訴えられた。
「見えないようにして」
熱っぽい視線に煽られて、つい手が脚の間に伸びる。
「んんっ……」
「この高さじゃ誰も見ない」
「ドローンとか望遠カメラとかあるでしょ」
それはあるかもね。でも知らない。翠の向きをぐるんと回転させて、裸の体をガラスに押し付けた。シンプルなニットとジーンズの下に、こんなに透け透けの下着をつけてるのが悪い。
「えっ、ちょっと、やっ」
動けないようにしてショーツも剥ぎ取り、後ろからズップリと挿入した。
「はぁっ……、やだっ、やぁ、見え…ちゃう」
俺が動くたびにガラスに全身をベッタリと張り付ける翠。片脚を持ち上げて、繋がっている部分が外から丸見えになるようにすると、また小さな悲鳴をあげた。
さっきの夢で、翠はこうやって薫に抱かれていた。二人はなぜか俺の高校の音楽室にいて、制服のままセックス中。それを高校生の俺が眺めていたのだ。
最悪だ。夢の中で気持ち良さそうな顔をする翠が忘れられない。どんなに下手な男が相手でも感じられるようにしたという色男の腕の中で、身をよじって喘いでいた。
「怜。やめて、本当にやだ……、ソファに行きたい」
涙目で訴えてはいるものの、恥ずかしさが興奮を煽るのか、グショグショに濡れている。そんなだからすぐにイってしまって、俺を咥え込んだままズルズルとへたりこんだ。それと同時に翠の中がギュウギュウに俺を締めつける。
(こんなのやめられる訳ない……)
そのまま仰向けに抱いて、今度は繋がったままの秘部をガラスにペトリとつけた。
「ひゃあっっ」
ガラスの冷たさか、あまりの恥ずかしさにか、翠が悲鳴をあげたけど、俺は構わず腰を振る。頭にこびりついたムカつく映像をかき消したい。俺の方がもっと翠を気持ち良くできる。
「やっ、やっ、ああっ、んっっ、怜ぃ……」
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
俺の上で体を弾ませる翠は、羽交い締めにした俺の腕にしがみついていた。もう抵抗するのを諦めたのか、できないのか。突いて抜くたびにジュプッジュプッといやらしい音をたてて、蜜を溢れさせるだけだった。
「ううっ……」
俺が果てたその時、横を向いた翠の顔から水滴がこぼれて、俺の腕に落ちた。
「翠?泣いてるの?」
起き上がって翠を見ると、目は真っ赤で涙をいっぱいに溜めていた。
(やばい)
直感的にそう感じて、ソファからブランケットとティッシュの箱を取ってきた。床にペタンと座って肩を震わせる翠を抱きしめて、二人一緒にブランケットにくるまる。次にティッシュを何枚も引っ張り出して、涙で濡れた顔と俺がグショグショにした脚の間を拭いてあげた。
(またやってしまった。どうしよう。罪悪感しかない)
「やだって言ったのに」
翠は全然落ち着かなくて、まだヒクヒク言いながら涙を流している。それなのに俺は最低だ。翠から漂ういい香りに、また興奮しそうになっていた。しかも、言ってなかったことがある。
「ごめん。このガラス、外からは見えないんだ」
「ひっ、ひどい!!!」
翠はもっと怒って泣き出してしまった。
どうしよう。どうすればいいかわからない。何も思いつかないから、とにかく強く抱きしめて、うつむく翠の頭にアゴを乗せて考えた。
「こんなのひどい。やだ。全然気持ち良くない」
翠が必死で訴える。本当にまずい。いきなり離婚されてもおかしくない。でも俺だって、頭に焼きついた薫のせいでイライラを抑えられなくなっていたんだ。でも、もう素直に素直に言うしか方法がない気がした。みっともないけど仕方がない。
「薫のことが頭を離れないんだ」
「薫?」
「ドレスの写真を見てから夢に見る」
「どうして?」
「二人がお似合いだから」
「二十年も前のことだよ」
「翠がセックスうまいの薫のおかげなんでしょ?」
自分で言いながら笑えてきた。
「何の話?誰が言ったの?」
「薫と俺さ、どっちが良かった?」
「何言ってるの?怜、おかしいよ。」
「サイズは?硬さは?持久力は俺の方があるんだよね?どの対位が良かった?教えてよ」
最悪だ。胸につかえていたことを一気に吐き出してしまった。ひどいことをしたのは俺なのに。
「私は怜が寝てた人のことなんて、ひとりも知りたくない」
正論。
きっと翠は呆れてる。男の方がずっとバカでくだらない。だから情けないけど、これを聞かないとずっと悪夢にうなされる気がした。
「忘れた」
「……」
「薫がどうだったかなんて、もう忘れたよ。男はね、サイズとかテクニックとか気にしすぎなの。女には別のことの方がもっと大事なのに」
藤崎がそんなことを言ってた気がする。
「それに怜だって、美人でスタイルよくてセックスもうまい人とたくさん寝てきたでしょ。どの子が良かった?一番巨乳は?また寝たい?そういうの全部覚えてる?」
たくさん寝てはいないけど……。言葉が出なくて、首を振って答えた。
今の翠は俺だけのものなのに、ひどいことをしてごめんなさい。しかも自分勝手に意地悪して泣かせたのは初めてじゃない。もう何度謝っても許してもらえないかもしれない。
「薫の連絡先教えるから、聞きたいことは本人に聞いて」
吐き捨てるように言って、翠は服を拾い始めた。俺はその腕を止めて、正座をする。
「いい。薫のことはもういいから、やり直しさせてください」
そんな気分は失せてると思う。目が腫れているし、鼻もグズグズのまま。
「ああいいうのは嫌」
「ごめんなさい」
「絶対に嫌」
「わかってる」
「お風呂入る」
「洗ってきます」
「お風呂掃除知らないでしょ。自分でするからいい」
「できる。大丈夫。準備できたら呼ぶから待ってて」
ブランケットで翠をグルグル巻きにしてソファに座らせて、素っ裸で風呂までダッシュした。
薫とかウェデイング写真とか結婚式とか、もうどうでもいい。俺はこの先一生、翠と今とこれからだけを見て、生きていくことを誓います。そんなことを思いながら風呂をピカピカに磨き、今度こそ翠を満足させるぞ!と意気込む。
だけど、翠の怒りは半端じゃなかった。許してくれたのは奇跡だ。その証拠に、その後長い間、俺はセックスの主導権を握らせてもらえなかった。
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