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<番外編>市野怜のそして僕は甘やかされる
「結婚は分別がつかない、若いうちにしておきなさい」。
ある女優の言葉を翠は格言にしていた。確かに、歳を取るごとに自分は固まっていくものだ。その分、無駄はなくなるけれど、何も持っていなかった頃とは違う。誰かと生きようと決めたら、新たに手に入れる物とお互い手放す物があった。
俺はなんの未練もなくてすっきりさっぱり片付けてしまったけど、翠はそうでもないらしい。
■■■■■
まず、俺たちはおそろいの指輪を手に入れた。
俺はアクセサリーをつけるタイプじゃない。万が一、結婚することがあっても指輪をするとは思っていなかった。なのに、このザマだ。そんな俺を藤崎が眉をひそめて見ていた。
「気持ち悪いぞ」
「翠が選んで買ってくれたんだ」
「金出させたの?サイテー」
「婚約指輪を俺が買ったから、今度は自分って譲らないんだもん」
婚約なんてすっ飛ばした。だけど、翠が「自分の分はあの時の指輪で十分だ」と言い張るから、あれは結婚指輪じゃないと主張したのだ。
「翠ちゃん、いいよね。稼ぐ」
藤崎は最近馴れ馴れしい。翠は俺の友達だからと気を使っているのだろうけど、そんなの不要だ。この男のこうしてさりげなく懐に入っていく感じも、モテる要素なんだから。
そんな男とおしゃれなフレンチビストロに来たのは、ただ腹が減っていたから。翠が出張中で弁当を作ってもらえなくて、昼を食べ忘れた。だから、こうして男二人でカウンターに座っている。
そう、俺は愛妻弁当も手に入れた。俺も交代で作ることが条件だけど問題ない。初めて作ってくれたのは、俺が子供ができることをした次の朝。オフィスでウキウキ自慢げに弁当箱を開けたら、頰を膨らませてプンプン怒るアンポンマンのキャラ弁だった。
「何したんですか?」
鷲山が冷たい目をする。違う。翠はしたこと自体に怒ったのではなくて、俺が勝手にしたから怒っただけだ。それに俺は怒れるアンポンマン弁当だって構わないんだから。
「うまいな、この鴨」
「泣かせたでしょ?」
「は?」
「翠ちゃん。こないだ一緒にご飯食べてわかったんだよね」
人妻を連れて出歩くなんて不愉快な男だ。勝手に連絡を取るようになったのもむかつくが、まぁ、こないだは俺が出張だったし、翠は全部話してくれるからいいけどさ。
だけど、顔を見て何があったかわかるなんて大嘘だ。翠の対人スキルはそんなに甘くない。長年の会社員生活で鍛え上げた鉄壁の笑いに、おまえもだまされてるだけ。
(ふふん。翠のことは俺が一番よくわかってる)
フォークを持つ自分の手が目に入ると、自然とニヤけてしまう。細かく考えずに幸せに浸ればいい。そう考えながら鴨を平らげた。
■■■■■
でも俺たちは、お互いの家を手放した。
驚いたことに、翠は家を買っていた。賃貸ではない気がしたけど確信はなく。今回の引っ越しではっきりした。
「売らないとダメ」
「なんで?」
「お互い、帰る家はひとつにしよう」
俺はスッキリ売却する。
「あのマンションは、祖母が残してくれたお金で買ったの。結婚する気なかったし、住む場所は確保しておきたくて。だから売りたくない」
言いたいことはわかるけど、それはたぶん一番の理由じゃない。だから率直に聞いた。
「いざという時の逃げ場が欲しいんでしょ」
「違う」
「ケンカしても帰る場所は二人の家だけ。それですぐに仲直りする」
「世間は歳取った女に厳しいんだよ。いざという時に住む所がないと大変」
これも理解する。だけど、これでは翠の負けだ。
「翠には俺の誓いの書があるんだから、家無しになるのは俺の方」
「それは理由によるじゃない。原因が違うことなら、私は家が必要になる」
そう簡単には引き下がらないか……。翠がプレゼンで負けなしなことは、俺の仕事筋から聞いていた。というか、違う原因ってなんだよ?
「二人の家と言っても名義は怜だし、全部お金出しちゃったし」
「そこはごめん。俺にも男のプライドがあるから譲れない」
これも揉めたけど、名義の簡素化などなどのことも含めて考えて、翠が譲るかたちで治った。その前に、すべての男が女が家を買ってることをすごいと褒められる訳じゃないことを知っているのだろうか?
「結婚しないつもりだったから買ったんでしょ。なら手放そう。売ったお金を別のことで使えば、おばあさんは喜ぶよ」
翠は不満顔で少し考えて、やがて俺の膝の上にちょこんと座った。
これは翠の降参の合図。意地っ張りで負けず嫌いだから、素直に言葉にするのは悔しいらしい。負けましたと言われてみたい気もするけど、抱き心地がいいからこれでいいか。
■■■■■
さらに俺たちは、諸々の生活用品を手放した。
使える物は使おうと言う翠。全部新しく買い換えたい俺。翠の生活は本当に地に足が着いたというか、浮かれたところがなくて、たまにはもっとワガママを言ったりおねだりをされてみたいと密かに思ってる。
「もったいない」
「じゃあ売ったり寄付したりしよう」
「思い出だってあるし」
「例えばどんな?」
俺は過去のことはどうでもいい。思い出はこれから作るから。
「初めて怜とセックスしたベッドだよ」
「ベッドは絶対買う」
「他の人との思い出があるから?」
「こら」
俺は誓って家に女を連れ込んだことはない。そうじゃなくて。
「あの時、翠は俺のことセフレにしようとしてたでしょ。だから嫌だ」
翠が罰の悪そうな顔をする。
「それは……。でも、いい思い出もたくさんあるのに」
お互いが四人家族くらいの生活用品をも持っていたから、かなりの物を処分することになる。でもダメな物はダメ。翠の家のベッドなんて、もっとダメ。
「俺たち一世一代の決断をしたんだよ。結婚する気なかったのに変わっちゃったんだから」
「もったいなくて」
翠はいいと思う物を買って、愛着をもって永く使う人だ。彼女の家のキッチンにある道具が使い込まれている様子は心地が良かった。衝動買いや無駄遣いをしてる様子もないし、くだらない物に大金を使ってしまいがちな俺とは正反対。
「一緒に選びたいんだよ」
我ながらいい理由を言えたと思う。
「そんなこと言って、この家もプロに任せたんでしょ」
なんでバレた?
「お金持ちは違うね〜」
そうだ、俺はマンションの家事サービスも手放した。家の掃除や服の洗濯に金を払っていたことを、翠が「住む世界が違う」と言ったからだ。
「はいはい。掃除も洗濯ももう自分でやってますよ〜」
「別に強要してない。私は自分でしたいだけ」
「翠だって、掃除はムンバにさせてるじゃん」
「ムンバは生活必需品だもん!冷蔵庫と同じなの!」
翠は基本的に他人のことを気にしない。なのに、強要してないのに不満を言うのは、俺のことを気にしている証拠。それがうれしかった。だから家事も掃除もがんばっている。
■■■■■
それから俺たちは、ただいまとおかえりを手に入れた。
家なんて寝に帰るだけだったのは、いつのこと。自慢じゃないが、もっと昔には家をもたず事務所で生活していた時期もある。なのに今では、家が自分の拠点だ。
翠は毎日きちんと帰ってくる。だから俺も帰る。一緒に寝て、一緒に起きる。それだけなのに俺の目に見える物は千倍きれいな色をして、いい匂いがするから不思議だ。
♪翠ちゃん、俺はね、君が好き 大好き大好きアイラブユー
それに知ってる 君もさぁ 俺のことが大好きだー
翠から遅くなると連絡をもらっていたから、俺は先に風呂に入っていた。暇だから。上機嫌でデカい声で愛を歌う。
♪だから早く帰っておいでよね おっぱいモミモミしてあげる
お風呂で待っているからね 裸でダイブしておいで〜
軽く何か食べるかな?でも待たないでと言われたし……。
「ただいま〜」
翠が帰ってきた。すかさず「おかえり」を言う。手洗いとうがいの音がして、その後に風呂の扉が開き、ひょっこりと美人が顔を出した。
「洗濯してくれたんだ」
「畳んでしまっておいた」
「ありがと」
褒められるとうれしい。俺はやる時はやる男なので、ネットできれいな畳み方を調べて繰り返し、技術を身につけたのだった。
「でもね」
何か言いにくそうにもったいぶっている。
「その歌は嫌。ご近所に聞かれたら恥ずかしい」
笑顔で完全に拒絶される。いつからどこから聞いてたの?
「いつも歌ってるよね」
俺が作る物のことは何でも驚いて感心してうっとりしてくれる翠なのに、歌は褒めてもらえなかった。俺は音痴ではない。まさか歌詞が嫌なのだとしたら……もう話題を変えてやる。
「翠も入りなよ」
「うーん。お腹が空いてるから、怜の焼うどんを食べたいなと思ってたの」
♡合点承知の助♡
バスタブから飛び出てキッチンへ行こうとしたら押し戻された。びしょ濡れがまずいらしい。濡れたくない翠は「ちゃんと拭いてね」とだけ言って部屋に行ってしまった。
まぁ、いいか。今日は翠が「ただいま」を言って、俺が「おかえり」を言えた。明日はどっちだろう。その前に「いってらっしゃい」と「いってきます」か。
■■■■■
俺は、もうひとり市野を手に入れた。
のはずだった。なのに、今になってまた翠がイライラしてる。
「めんどーーーー」
「ん?」
「名字の変更が思ってたより面倒。数も多いし」
「今更?」と行ってはダメだ。だって翠は自分の名字を手放すのだし、変更の作業をするのも彼女だけだから。
「別姓だと一緒のお墓に入れないよ」
真偽は不明。でもきっと翠は死んだ後も俺と一緒にいたいはずだ。
「もう死ぬこと考えるんだ」
ここは「死んでも一緒がいい♡」と言って、キュンとさせてほしかった。
「小早川が恋しい?」
「全然」
「じゃあ、申請関係以外で面倒なことは?」
「普段はいいけど、仕事がね。だって名刺変えるでしょ。メアドはどうするのかな」
「それ、翠は会社に申請するだけじゃ……」
「うん。でも皆に言わないとだし、そうすると何か言われるし面倒だなって。離婚して戻すのも恥ずかしい」
(離婚する気あるんだ……)
「仕事は今のままにしようかな」
「仕事こそ同じ名前がいい。一緒にやってる感がほしいから!」
「何を一緒にやってる感?」
「仕事」
一発で夫婦ってわかる感じがいい。例えば、角の『暁コーヒー』の高久保さん。奥さんが焙煎やって、旦那さんがバリスタ。お店をしたい云々じゃなくて、ああいう距離感で一緒に何かをしたいと思ってる。
「私が怜とできることなんてないよ」
「あるある。いっぱいある」
「仕事をしたくて結婚したと思われたら嫌だし」
「思わないよ」
「そっちは平気でも、私はそう見られてもおかしくない」
ガツガツしていないところは上品でいいけど、もっと欲を出してもいいのに。
「翠は俺と一緒にやりたくない?」
「……やってみたいけど」
「よし!何やろうか〜。楽しみだな〜」
大げさに浮かれたら、翠はそれ以上何も言ってこなかった。その後で会社や仕事関係に名前のことを告げたらしい。もともと合理性を好む性格だ。結局、俺の名字になることを選択した。
市野翠、素晴らしい響きだ。
■■■■■
さらに俺は、かわいい義理の娘も手に入れた。
正確には、親にプレゼントしてあげられた、か。
金曜日の夜。月曜の朝まで翠を独り占めするぞと家路を急ぎ、家の玄関を開ける頃には小走りになって、リビングにはトム クレーズよろしく靴下スライディングで滑り込んだ。
「翠ーーーー。ただいまーーーー。俺が帰ったよーーーー。今日も朝まで……」
母がいた。
なんで?
「朝まで何なの?」
「……決まってるだろ。夫婦なんだから」
ソファに座ってテレビを観ながら、優雅にお茶をすすってる。
「まっ、仲がいいのは何よりですけど」
「てか、母さんなんでいるの?」
「翠ちゃんに会いに来たの」
「連絡してよ」
「翠ちゃんにしたわよ。一緒に出かけるのよ」
翠とのLINEを見たら、ついでくらい簡潔に母さんが来ることが書かれていた。翠は仲の良い義理の母を手に入れた。でもさ……、
「週末は俺と過ごすんだけど」
「“怜さんはいつも仕事が入っちゃうから平気です”って言われたわ。あなた、早速どうしようもないのね」
ショック。
「翠は?」
「テニス。明日時間をもらっちゃうから、今行ったらって言ったのよ」
どれだけ疲れさせても意地で行く週末の早朝テニスを、母さんのためには休むらしい。
「無理言って結婚してもらったんだから、もっと大切にしないと」
「してるって。それに無理言ってったって、翠は俺のこと好きだし」
「翠ちゃん、泣いたでしょ?」
母さんまでそれ言う?
「なんとなくね」
どうして皆、顔を見ただけで俺のやらかしを察知するんだろう。
「もう解決した」
「女心はそんなに単純ではありません」
「だってさ……」
モヤモヤをうまく伝えられる気がしなかったから、寝室に行って翠が隠した例の写真集を持ってくる。一目見るなり、母さんの目が輝いた。
「まぁ、コム ラ クレーム!きれいね〜。翠ちゃんがモデルをしたの?この男の子もハンサムだわ。ふ〜ん。どうせ、この子にヤキモチやいたんでしょ」
ズバリ過ぎて悔しい。
「ただの同級生らしいけど、冗談じゃない」
「二人とも本当の新婚さんみたいだものね」
「ちょっと……」
母さんはカタログに見入ってる。ドレス欲しいわ〜とか言ってる場合じゃないから。
「翠、何言ってた?」
「人に聞くくらいじゃ、解決してないのね」
「したよ。だけど、翠は言わないことも多いから」
「とにかく、お父さんもお母さんも、実の息子より義理の娘がかわいいの。あなたがしてくれたことで一番うれしいことだわ」
まぁ、いいけど。
「だから、何があっても翠ちゃんには一番幸せでいてほしいわ」
「わかってるって」
あまりに言われるから、子供みたいな言い方をしてしまった。かっこ悪。でも母さんは俺のことは気にもしないみたい。
「明日の夕方、鍵坂に寄りなさい。荷物持ちが必要なの」
へいへい、行きますよ。
■■■■■
飽きもせず俺は、安らげる場所を手に入れた。
俺はひとりでいることに寂しさや不安を感じたことはなかった。むしろ超自由。だって女はめんどくさい。でも変わった。今日の母さんみたいにけしかけられると、失うことを恐れてしまうくらいだ。
「今日はなんかグリグリくるね」
翠のパジャマの中にもぐりこんで、生のおっぱいに顔を埋めていた。手はモミモミ。ここは俺の安らぎの場所だ。
「お義母さんに怒られたの?」
頭だけを左右に振って答える。でも思い切って、気になることは聞く。
「あのさ、最近泣いた?」
「ははは。怜といるようになってから、泣いてばかりだよ」
「ごめん」
「ああ、違うって。泣くのは、ちゃんと関係を築きたいからだと思う。私、恋愛も結婚もしないつもりだったから、そういうこと考えてこなかったの。ひとりの時と違って思うようにいかないこともあるから、もどかしいんだと思う」
髪をクシャクシャと撫でられる。
「仕事がうまくいかなくても、すぐに投げ出さないでしょ。ミスしたら調整してまたトライ。で、その連続。結婚も同じだと思って実践してるの」
「怒って泣いたんじゃなくて?」
「あの時は怒ったよ。怜が意地悪するから」
何も言えない。
「でも、他は違うかな。よくわからないけど」
「離婚じゃない?」
「離婚?お義母さんに言われた?」
「翠が、離婚したら名字戻すの面倒って言ってたから」
「ああ、あれは……勢いで言っただけ。それに、離婚したい人と避妊なしでセックスしないでしょ?」
……そうか。
気が抜けた俺は、再びおっぱいに顔をめり込ませる。襟から俺を覗き見る翠の「ごめんね」が聞こえた。
「胸が好きだね」
「#♬&」
「胸の大きい子とばかりつきあってたの?」
「●%※☆‼️△@※☆$」
「私、そんなに大きくないと思うんだけど」
「♬△#@」
「いつもこうなの?」
違う。
「聞こえないよ」
「翠の肌が好き」
「肌?」
「スベスベでサラサラで、触ると吸い付く」
「言われたことないな」
言われなくていい。
「表面だけじゃなくて、粘膜も好き」
「粘膜?」
変態風な発言に翠が笑ってる。本当にわかってない。
膝の上に乗せた翠の腰を引き寄せて、裸の肌を密着させる。風呂上がりに髪だけ乾かして、シャツは着てなかった。
「怜の体あったかいけど、風邪ひいちゃう……」
翠の肌は陽に当たらない部分が真っ白で、触れると微かに赤くなる。この肌を知ってしまったら、他は無理だ。だから彼女を諦めた男たちはすごいと思う。
「ホント、おっぱい星人なんだから……。でも、今日はこれ以上はダメだからね」
「ヤダ」
「お義母さんがいるから」
「もう寝てるよ。ゲストルーム遠いし」
こんなこともあろうかと思って、間取りには気を使った。
「ダメ。音が聞こえたら嫌だもん」
「だったらシャワーでしようか?」
こんなこともあろうかと思って、俺たちのベッドルームはシャワー付きにした。
「もっとダメ」
「大丈夫だよ。母さん、俺たちが仲良いこと知ってるし」
「ダメ」
「実家でしたのも絶対バレてるよ」
突然、翠が立ち上がって、俺はパジャマの外に出された。
「あの時だって嫌って言ったのに」
これを言われると俺は何もできなくなる。母さんの手前もあるし。「翠が俺の実家にいるのに興奮した」なんて間違っても言っちゃダメだ。
だから、大人しく翠にパジャマを着せられ、ベッドに押し込まれた。なのに抱き寄せたら張り付いてくる。なんだ、いいの?自分でパジャマのボタンを外して、はだけさせてるし。
「今日はおっぱい触りながら寝ていいから我慢して」
横向きで向かい合った翠のおっぱいは、目の前でゴージャスな谷間を作ってた。俺は知っている。これはダメなようでOKの合図だ。だって、俺は寝ている翠を愛しまくる常習犯。翠が寝ていれば“これ以上”が始まってしまっても仕方ないということだから。
マシュマロみたいな柔らかさと弾力を両頬に受けて、ひとまず眠りにつくことにした。
■■■■■
そして俺は、俺を甘やかしてくれる人を手に入れた。
翠の予言(?)どおり、翌日は仕事に行くことになった。爽やかに送り出されたのが寂しい。さっきまで、あんなこともこんなこともしたのに。
(仲間外れにされてる気分)
だから、鍵坂に着いた時も少し拗ねていた。しかも母さんの荷物運び。どうせ、またハマってるらしい茶道用の着物か小物でも買ったんだろう。翠も偉いよ。嫌な顔ひとつせず、義理の母親に付き合うなんて。
店に入ってすぐの座敷に姿が見えないので、店員に声をかけた。彼の後について、ふたりがいるという奥の個室に向かった。
「おまたせ〜」
いかにも面倒くさそうに声をかける。
でも、顔を上げて目の前の光景を見た瞬間に、俺は固まった。翠がとても美しい着物を羽織り、帯を締められている最中だったからだ。
「怜、お義母さんが……」
いつもみたいに「おかえり」とか「お疲れ」を言うのを忘れて、翠は困惑を目で訴えていた。帯を整え終わったお店の人は母さんの横に並び、ふたりで遠くから翠を眺める。
「ぴったりの色でしたね」
「ホント、色が白いからよく似合うわ」
翠の姿に惚れ惚れし、さて次は小物をと前に並べられた髪飾りや履物を物色し始めた。
翠はその場でタジタジしたまま。ドレスのモデルではあんなに堂々としていたのに、今は見る影もない。隣に行くなり手を握られた。
「似合うよ。すごくきれいだ」
心の底からそう思った。鶯色をメインに渋目の赤や金でいくつもの花が刺繍された、美しい色打掛だった。歳だからと嫌がっていたけど、そんなことは色や柄の選び方でいくらでもカバーできることを自ら証明している。
「ありがとう。でも……」
「母さんが無理に着せたんでしょ。買わせちゃえばいいよ」
「でも」
「娘ができると思ってなかったから、うれしいんだって。へそくり貯めてるから大丈夫」
翠は人に物をねだらない。だからこうして突然、決して断れなさそうな人から贈り物をされると困ってしまう。俺の袖を引っ張って落ち着きがない翠。安心させたくて額に軽くキスをした。
「これ、ヘソクリじゃ買えないと思うよ」
「そうなの?気にしなくていいんじゃない?そんなことより、俺は嫉妬してるよ」
「お義母さんに?」
「俺がいくら言っても、服なんて買わせてくれないのに」
それを聞くと翠はうつむいてしまった。でも、何か言いたそう?
「あのね、さっき御厨さんに電話したの」
「御厨さん?」
「うん。そしたら『喜んで』って」
「それって……」
「結婚式。お義母さんもしてほしいって。友達だけのでいいからって」
俺があんなに言ってもダメだったのに。でも母さんグッジョブだ。この着物で、髪も化粧も整えた翠はどれだけ美しいことだろう?妄想するとぶっ倒れそうになる。
「母さん、俺のは?」
いくつもの簪を手にしていた母に声をかけた。これに見合う姿で、翠の隣に立ちたい。
「はぁ?あなたのなんてないわよ」
自分で買えってこと?まったくもう……全然構わない。母と女子会がごとく話していたお店の人に、男物を見繕ってもらうようお願いした。俺の分は翠に選んでもらう。
結局こうやって、翠はいつも俺を甘やかしてくれる。彼女の方がたくさんの新しい物を手に入れて、古い物を手放すのに、いつでも俺を第一に考えてくれるのだ。俺は彼女に同じことができているだろうか?
「あなたにひとつ借りね……」
背後から悪魔の声がした。
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