<番外編>市野怜のまさかの恋敵

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<番外編>市野怜のまさかの恋敵

「ダメ。もう、ダメだって」  (すい)の「ダメ」は「いい」のうち。 「やっ、ちょっ、嫌って言ってるのにー」  翠の「嫌」は「もっと」の意味。だって、本人も笑ってるし。  ソファに押し倒してキスキスキスキス。俺たちは相も変わらずラブラブで仲良しで、冷めるとは無縁の日々を過ごしていた。 「後にしようよ」 「やだ」 「もうーーーー。知らないよ」  翠が諦めた。抵抗を止めて、俺にされるがまま。  そうだ、何人たりとも俺のイチャイチャタイムを妨げる奴は許さん。  パタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパターー。 「ほら、だから言ったのに」  翠が得意げに俺の顔を覗き込む。んなこと言ったって……。 「やーーーーーー!!!!」  小動物が奇声を発しながら、リビングに駆け込んでくる。 「ぱぱ、やーー!!ままーーーー!!ぱぱ、やーする!」  小さな手で翠に覆いかぶさる俺を押しのけて、彼女にギュウっと抱きつく。そして振り返り、俺をキッと睨みつけた。 「シエナ、パパやーしてないよ」 「ぱぱ、やーー!」  翠のおっぱいにしがみついて、ワンワン泣き出した。 (ちょっと……。そこは俺の居場所なんだけど)  そう、この娘は俺たちの子供だ。シエナという。  あれから翠は割とすぐに妊娠して、って、まぁすることしてるんだからそりゃそうだけど、とにかく俺を父親にしてくれた。  娘はむちゃくちゃかわいい。翠そっくりに生まれてくれたらよかったんだけど、残念ながら誰もが俺に似ているという。それでも、サラサラの髪と色白の肌とプックリしたかわいい唇は翠のもの。本当にふたりからパーツを受け継ぐなんて、遺伝というもののすさまじさを改めて認識させられている。  だけど、まさかのまさか。俺は娘に嫌われてしまった。娘は俺を“ママを奪う敵”とみなし、いつでも臨戦態勢を整えている。子供がすることだからとスルーできればいいのに、何度されても慣れなくて、今でもがっかりしてしまう。  翠はシエナをギュッと抱きしめて動けないようにすると、そんな俺に軽いキスをした。キスなんて見られたら最後。火がついたように泣き出してしまうから。 「いちご食べよう」  ダイニングテーブルに隣同士で俺たちを座らせて、いちごが入ったガラスの器をコトンと置く。また俺を睨んで、自分のお皿を引き寄せる娘。「絶対あげないから」と言われている気がした。 「シエナ。パパに嫌なんて言ったら、パパ悲しいよ」 「ぱぱきらい。ままがやなことする」 「違うよ。ママが好きだからするの。ママがしてって言ったんだよ」  翠はこうやって、猛烈に嫌われた俺のフォローに忙しい。 「ママ、あーん」 「うん、おいしい。ありがとう」  にっこり笑い合うふたりは、微笑ましい親子だ。 「じゃあ、パパにもあーんして」  一瞬にして笑顔が消え、シエナの目は俺からそらされた。 「じゃあ、パパにはママがあーんしよ」  シエナの目が、翠が俺の口にいちごを入れる様子を追っているのがわかった。もちろん“大好きなママを奪った”きっつい目で。  シエナは人見知りではない。翠の家族にも俺の両親にもなついてるし、お泊まりもできるし、ぶっちゃけそこらで会うおじさんおばさんにだってニコニコしてる。なのに、毎日一緒にいる俺にはまったくだった。  俺には思い当たる節がたくさんある。だから何も言えない。そんな俺を気遣う翠を申し訳なく思い始めていた。  翠はほんの赤ちゃんの頃からシエナに部屋を作り、俺たちとは別にひとりで寝かせていた。モニターをつけているから、もちろんいつでも駆けつけられる。彼女自身がそう育ったらしいのだけど、半分以上は俺のためだろう。日中邪険に扱われる俺を甘やかすための、ふたりきりの時間を確保してくれているのだ。 「私が『やだ』とか『やめて』とか言うからだよね。嫌じゃないのに、なんで嫌って言っちゃうんだろ。不思議」 とか、 「子供ってブームがあるでしょ。アンポンマンを繰り返し観てると思ってたら、知らぬ間にトロロばっかり観てたり。だから、シエナは今、パパ嫌いのブームなんだよ」 って。  気遣ってくれてうれしいけど、たぶん違う。俺は性懲りもなくまた翠を泣かせたし、不安にもさせていた。それがどうにかしてシエナにも伝わってしまったんだと思ってる。だから、ママに嫌なことをするパパ。彼女なりにママを守っているのだ。  ベッドのヘッドボードに立てかけた枕に寄りかかってシュンとする。 「もっと一緒にいて、翠がいなくても平気にならないと」 「怜は十分やってるよ」  翠だって産休後は普通に忙しい。なのに、結局俺は大半の家事と育児を任せて しまっていて、それも申し訳なくて情けなく思っていた。落ち込みは深まる。そんな俺を不憫に思ったのか、翠がスルスルっと隣に入ってきた。腕を伸ばして、俺の胸にまとわりつく。 「大丈夫。そんなに気にしないで」 「うん。でも……」 「シエナはあんなだけど、次の子は怜だけを好きかもしれないよ」  なぐさめてくれて、ありがとう。……えっ?それって。  腕にギュッと力を込めた翠が、いたずらっぽく笑って俺を見ていた。 「まだ一カ月過ぎたくらいだけど」 「本当に?」  頷く翠。シエナともうまくやれてないのに、ふたり目なんて大丈夫だろうか? 「うれしくない?」 「うれしいよ。でも……」 「大丈夫だよ。きっと、また元気に生まれてくれるから」  翠が、ブツブツつぶやく俺の髪をグチャグチャにする。 「シエナには?」 「安定してからでいいかな。でも、変な顔してたから気づいてるかも」 「そんなエスパーみたいなの?」 「らしいよ」  翠のお腹にしがみついてみた。まだぺったんこだ。 「今度は男の子な気がする」 「ノルウェーに行った時の子だと思う」 「そんなのわかるの?」  翠はケラケラ笑いながら、また抱きついてきて俺の唇をペロっと舐めた。今度は首筋をペロン。来週、また一週間家を空けるから甘えてくれてるのはうれしい。 「続きしない?」 「からだが心配」 「平気だよ。怜はしたくないの?」 「何を?」  ちょっとだけ意地悪をしたい。 「翠がしたいんでしょ。俺は別にだもん。だったら、ちゃんと言ってくれないと」  男ってバカだよな。子供の頃には好きな子をいじめるし、大人になってもいやらしいことをわざと言わせたくなったりする。 「じゃあ、いい」  さっきまでのニコニコはどこかに行って、ゴロンと横になって布団をかぶってしまった。 「いいの?俺、来週いないけど」  寝たふりをして、もう答えてくれない。でも、このままだと寝つきがいい翠は本当に寝てしまう。だから俺は急いで布団に潜り込んで、翠のパジャマのズボンを引きずり下ろした。 「やっ……、あ!」  翠が口を塞いでいた。もはや「やだ」という言葉は使用を禁止しないとならない。   だいたい煽ってきたのは翠の方。舐めてきたのは「舐めてほしい」の合図でしょ。だから顔の上にまたがらせて、秘部をたっぷりと愛撫する。頭上に見えるおっぱいをいつもより強く揉みしだいたら、翠は腰をくねらせて「もっと」とねだるように押し付けてきた。  翠を脚の上に乗せて向かい合うと、うれしそうにキスをしてきた。子供を生んでも体の崩れはまったくない。きれいでエロい体を保つために努力をしていることも知っている。俺のためだと思うと、たまらなくうれしかった。 「うぁっ……」  待てない翠は自分で挿れて、恍惚とした表情で悦に浸る。 「気持ちいい」 「俺も」  子育ては全然ダメだけど、こうして翠に求められ満足させてあげられる。今はそうやって自尊心を保っていた。  だけど、そのちっぽけな自尊心はすぐに粉々にされる。  会社帰りに髪を切りに行きたいという翠に代わって、俺がひとりでシエナと留守番をすることになったのだ。もしもの時のためにと、翠が甘くないのに美味な手作りプリンを用意しておいてくれた。これを出せば、何があっても泣き止むらしい。  だけど、全然ダメだった。  保育園に現れた俺を見ただけで笑顔が消え、渋々極まりない様子で車に乗り込んだ。先生の「今日はパパでうれしいね」という声が虚しく響く。  一緒に遊んで、ご飯を食べさせて、お風呂に入れる。そのくらいで翠が帰宅して、ちょっと遊んで寝かせる。そのタイムラインを達成すべく意気揚々としてたのに、帰宅するなり自室のドアをパタンと閉められてしまった。 (えっ?)  困った。翠にLINEしたい。けど、それはダメ。自分でなんとかしないとだ。一緒になんて遊ばないし、ご飯も食べない。寝たのかな……。泣かれると思うと怖いけど、お腹も空いてるだろう。意を決してドアをノックした。 「シエナ……、入るよ」  園服のまま小さな机に座って、絵を描いているみたいだった。近寄って見ると、翠の実家の犬ともちろんママ。 「お腹空いたでしょ。ご飯食べよう」 「ままは?」  ふくれっ面で聞いてきた。 「髪の毛切りに行った。すぐ帰ってくるから、それまではパパといよう」 「ままがいい」 「プリンもあるよ」  無言で首を降る。  大好きなママのプリンを無視するとは……。俺のことは本当に嫌いなんだろうけど、半分くらいは意地になっているのがわかる。だって、こういう頑固なところは翠にそっくり。  俺は覚悟を決めた。相手を子供だとは思わずに、ひとりの人間として腹を割って話すのだ。シエナも俺も、所詮同じように翠が好きなだけ。きっと分かり合える。俺は根拠のない希望に満ち溢れていた。 「パパね、ママが嫌がることしてないよ。だって、ママが大好きだもん」  画用紙に色を塗り続ける。こういう一生懸命さは俺たちのどちらにも似てる気がした。 「世界にはいーーーーーっぱい女の人がいるよね。でも、パパはママがいいと思ったんだよ。だから、ママが一番大好きで一番大事。シエナが生まれたのだって、パパがママを好きで、ママもパパが好きだからだよ」  小さくてもわかるように、丁寧に説明したつもりだ。俺は敵ではないし、いじめてるのでもないことをわかってほしい。でもそう簡単に伝わるものではないらしい。 「しえな、おそらのうえで ままがきれーでやさしそーだから、ままのところにきたの!ぱぱはしらないもん!」  顔を真っ赤にして言いたいことだけ言い、ベッドに飛び込んで布団をすっぽりかぶってしまった。翠に似てる。それと、あーあー、服がシワになる。今は泣いてはいない。怒りすぎて涙が出ないのか、泣くのは翠に甘えるためなのか。ビクともしない小さい山に手を置いて、ポンポンと軽く叩いた。  喧嘩した。どうしよう。恥ずかしくて翠になんて言ったらいいかわからない。 「ただいまー」  どれくらい経ったか、俺はシエナのベッドで寝てしまっていた。玄関から翠の声がすると、小山が動く。それで目が覚めた。シエナはものすごい速さで布団を出て、翠のところへダッシュしていった。 「パパと何して遊んだの?」  何もしていません。 「プリン食べた?」  冷蔵庫に入ってます。  トボトボと歩いて玄関に行き、シエナに抱きつかれながら荷物を持つ翠を助けた。 「パパとお留守番楽しかったね〜」  翠が笑いかけると、胸に頭を埋めて顔を隠す。 「早かったね」 「早く終わったの」  シエナの様子から悟ったのか、俺の腰に空いた手を回して労をねぎらってくれた。「ありがとう」と「お腹空いた」。  翠がいれば、自分でちゃんと着替えてご飯を食べる。ニコニコニコニコ。翠が俺が作った夕ご飯を褒める。ニコニコニコニコ。シエナの機嫌はこんなに簡単に直るのか。風呂の時間になると、自分で入りに行って、すぐにふたりの楽しそうな声が聞こえてきた。 「まますきー♡ ままきれー♡ ままかわいー♡」 「ママもシエナ好き♡ シエナかわいい♡ シエナいい子♡」  バシャバシャバシャバシャ。 「ママはパパもだーいすき♡ パパってかっこいいよねー♡」 「……」  汗が出た。 「ごめん。子供と喧嘩するなんて情けない」 「たぶん、もう忘れてるよ」  先にベッドに入っていた翠の隣に潜り込む。  徹底的に嫌われた後、ションボリ感が抜けない俺を腕に抱いてくれた。いい匂いに包まれてホッとする。 「翠は怒らないのにな……」 「新人の頃に会社でね、女の先輩が『男は5歳児だと思って対応すればかわいいもの』って言ってたの。男尊女卑も理不尽なことも多いし。その時、有希が『自分の子じゃないのにかわいくないわ』って言って爆笑したんだけど、そういうのに比べたら自分の子なんて何されてもかわいくて」 「わかってはいるんだけど」 「絵理香のところも、パパが出張から帰って家にいるとギャン泣きだったって」  優しい。 「翠を空の上から見てたんだって」 「えっ!シエナが言ったの?」 「うん」 「すごい!そういうことを言う子もいるって聞いたけど」 「俺はいなかったから知らないって」 「……先は長いよ。一緒にがんばろう」  さっきシエナがしてたみたいに翠の胸に頭を埋める。何度も言うけど、ここは俺の場所なんだから。 「ありがと。翠で良かった」 「うん。私も」 「でも俺、ダメな親だ」 「そんなことないよ」  俺の髪に指を入れて撫でてくれる。 「シエナはかわいいし、生まれてくる子も大事だけど、やっぱり変われないよ」 「ん?」 「俺、また同じこと言う。もし、翠に何かあって、俺が翠か子供かどちらか決めなきゃならなくなったら、俺は翠を選ぶ。ごめん。最低だけど理解してほしい」  シエナが生まれる時にも言ったこと。あの時は軽蔑されるんじゃないかとビクビクしてて、それは今も変わらなかった。でも仕方がない。何度真剣に考えても、俺の考えは変わらない。翠がため息をついて、胸が沈む。 「わかった。尊重する」 「ごめん、ありがとう」 「ううん。でも、私もお願いしていい?」 「うん、いいよ」 「ずっと先のことだけど、いつか私たちも寿命で死ぬじゃない?その時は怜が先に死んでね」  『先に死ね』と言われてドキッとした。 「だって、怜は私がいないと生きていけないでしょ?」  それは絶対に本当だ。 「会えなくなって寂しいのは私ががんばって、しなくちゃいけないことを片付けて、シエナたちにもお別れをちゃんとする。その後で怜のところにいくから、待っててほしいの」  気づいたら、翠がポロポロと涙を流していた。  ぬぐってあげるうちに俺も泣けてきた。 「泣くなって」 「ホルモンバランスが崩れてるから仕方ないの」  ティッシュをつかんで涙をぬぐいながら、『男にはホルモンバランスなんてないのに、なんで怜まで泣くの』と文句を言っている。いや、あるでしょ。 「わかった。その時が来たら、絶対にそうする」 「ありがとう。会えてよかったね」  翠にしがみついて涙をこらえながら、何度もうなずいた。  なかなかうまくいかないけれど、翠が言うとおり長期戦を覚悟している。これから出張で家を空けるから、翠ともっと仲良くなってしまいそうなのは悲しいけど。 「気をつけて」 「電話する」 「うん」  出張に出かける朝の玄関で、翠とイチャイチャする。抱きしめあってキスをして。だから気づかなかった。シエナが影から覗いていることを。 (しまった……。また嫌われる) 「ん?ああ、シエナ。早くおいで。パパおでかけだよ」  翠に呼ばれても渋っているから、「いいよ」と諦めを声にした。長期戦、長期戦。だって、こんなに嫌そうにトボトボと歩いてくるから……。 「はい」  小さな手に箱を持っている。かがんで見るとキレイにラッピングがされていた。リボンを留めているのは、うさぎのセイラーちゃんのシール。これはシエナの大好きなキャラクターで宝物のはず。 (えっ、セイラーちゃんもらっていいの?)  助けを求めて翠を見たけど、笑うだけで何も教えてくれない。 「ぱぱ ごめんなさい。おしごとがんばって」 「これ……」 「ままとつくった」 「ありがとう。うれしいよ」  そして、トコトコっと歩み寄って、頬にキスをしてくれた。  ビックリ。  後ろに転がりそうになったくらい。  シエナはすぐに翠の側に行き、抱っこしてもらって満足してる。翠の手が伸びて立ち上がらせてもらったら、今度は翠からキス。 (シエナが怒るからしなくていいのに)  と思ったけど平気だった。 「パパ泣いてる」 「うれしくて」  ふたりに嫌がられるほどキスをして、たくさん笑って、見送られた。  ひとりになった後、早く箱を開けたくて気が急いた。何かあっては困るから、移動の途中には開けられない。空港のラウンジに着いて、とうとう箱を開けた。中に詰まっていたのは、顔が描かれたクッキー。 (翠とシエナと俺。この小さいのは赤ちゃんだな)  ハート型のクッキーもたくさんあった。どうしよ。こんなすごいの食べられない。  ピロン♪ 『残したら泣くよ』 『嫌われる』  翠から心を見透かしたようなLINEが来る。  やばい、また涙が出てきた。本当にホルモンバランスがおかしいのかもしれない。  でもいいや。こんな涙ならいくらだって流したい。とりあえず、早く家に帰れるように今回の出張をがんばってくる。
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