第五話 彼は友達

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第五話 彼は友達

「信じてくれた?」 「本当の家は別にあるのかも」 「ははっ」  妻子や彼女はいないと言う彼を信じないでいたら、家に連れてこられた。家をくまなく案内されて、女性の存在を匂わせる物がないことを説明してくれたんだけど、そうでなくても本当にフリーなのかもと感じ始めていた。 「それより俺、大丈夫だった?」 「何が?」 「久しぶりだったから」  こっちは嘘でしょう。家に連れ込むまでと連れ込んでから、どちらも小慣れててスムーズだったから。全然ゴシップにならないのはプロ彼女とかでうまくやっているからなのだと思ってる。 (プロ彼女がどんな人かは知らないけど)  私が市野さんをいいなと思ったのはタイミングと、執着も後腐れもなさそうなところだ。なのにベッドでは激甘で体つきも好み、仕事ぶりは尊敬できるし、おまけにイケメン。ここまで理想に合う人はなかなかいない。 「あっ、ごめん。ちょっと電話出る」 「うん」 「水とか冷蔵庫から勝手に出して」 「うん。ごゆっくり」  ずっと無視していた電話だ。市野さんは携帯とタバコを持って、ベランダに出て行った。  その間に私はベッドを出て、脱ぎ散らかした服を集めてバスルームへ。服を着てボサボサになった髪とヨレたアイメイクをザックリ直した。帰るだけだし適当でいい。思っていたより遅くなってしまったから急がないと。  バッグを持ってベッドルームを覗いても、市野さんはまだ電話中だった。楽しそうに笑ってる。閉まりきっていないドアの隙間から「りなちゃん」「いつにする?」という単語が聞こえてきた。 (これだからいい。負い目を感じることなく帰れるわ)  市野さんが私に気づいて、手と口で『ごめんね』の仕草をした。だから私も首を振って『平気』と『ありがとう』を言って手を振った。 (ウインクしたいくらい)  市野さんの家はとても大きかった。独り暮らしだからか部屋数は多くないけど、リビングやダイニングといったスペースがとても広い。ここに会社のスタッフや友人を招いてパーティーをするのだそう。 (別世界だわ……)  家の内装が生活感のないIT企業のオフィスみたいなのは意外だった。家電類は全部最新でハイセンス。色も統一されていて、たぶんインテリアコーディネーターに任せたんだろうことが想像できた。 (楽しい時間をありがとう)  玄関のドアの前で、誰もいない廊下に向かってお礼を言った。実は久しぶりだったのは私の方で、今はフワフワした幸せな気分になっていたのだ。やっぱりセックスは大事。細胞が喜んでる感じがするし、しばらくこれで乗り切れる。  電話の邪魔にならないようにそっと玄関のドアを開けて、閉めた。鍵は自動だと言っていたから、このままでいいはず。照明も自動だし、いろいろハイテクな家だなぁ。一応、耳を済まして鍵がかかる音を待った。 ゴンッ。 「いった……」 「わっ、ごめん」  突然開いた扉がおでこに激突した。とっさに手を当てたけど、痛いものは痛い。市野さんはフリーズする私を玄関に引っ張り込んだ。 「見せて!切れてない?」  手を引っぺがされておでこを確認される。切れてはいないだろうけどコブができそう。 「冷やさないと」  あまりの衝撃と痛みで話について行けず、気づくと靴を脱いでリビングへ歩かされていた。できれば放っておいてもらいたいんだけど。 「(すい)ちゃんが帰ろうとするから」  悪いの私……?  ソファに座らされ、氷枕を押し付けられ、説教されている。なんで私がこんな目に。 「終電あるから。もう平気。行かないと」 「することだけして帰るなんてひどいな」  終わった直後に、甘い声で、別の女を誘ってた方が言うことですか?  でも、その時の私にはそんなことを言う勇気も元気もなくて、市野さんの気分を害さないように言われるままにした。 ■■■■■  真剣な顔で資料を読む有希の前で、ドキドキしながら待っていた。    営業のフロアにあるフリーのスペースで、例のリニューアル案件の企画書を見てもらっている。完璧ではないけれど、細かいところを詰める前に信頼できる人に意見を聞きたい。商談に行く営業チームの意見はとても大切なのだ。   「うんうん。いい感じにこれまでと違って、いいと思う」 「ホント?良かった〜」  有希が明るい顔で感想を言ってくれた。 「実はね、この店頭ツールの案はマーケチームは嫌がったんだけど、有り無しでいい場所に陳列してもらえる確率が変わるでしょ?だから、まだ候補に入れてある」 「マーケティングは何だって?」 「ラグジュアリー感が薄れるからいらないって。でも、今回はターゲットの年齢を下げるために取り扱う小売を広げてるでしょ。親やすさも必要だから」 「こういうのがあると、店舗の若い販売スタッフも気分がアガるんだよ。ウチの味方になってくれる」 「だよね」 「売りに行くのは営業だからさ。私たちが推せる要素が多いと助かるよ」  二人分のコーヒーを用意して、協力会社さんにいただいたお菓子を差し出す。 「おっ、フーカのクッキー!」 「うん、ガッツリ集中したから疲れちゃって」 「ねぇ。企画考える時とかさ、市野さんにアドバイスもらったりするの?」  どうしたんだろ。有希がこういうことを聞くのは珍しい。 「あまり仕事の話はしないな。“この色好き”とか“こういうデザインは自分にはできない”とかは言ってくれるけど」 「ふ〜ん。そっか」 「でもね、デザイン賞もらったウチのミニバウムクーヘンあるでしょ?あれがバッグに入ってるの見ちゃった」 「えー!翠の傑作じゃん! 「うん。ちょっとうれしかった」 「食べかけでもキレイに持ち運べるもんね。女子やスイーツ男子じゃなくて、忙しい男にもオススメか〜。なるほど」  あの商品は、ウチの会社が食品へ進出するきっかけになった思い出の品なのだ。 「で、どうなの?」 「ん?」 「市野さんと、ちゃんと付き合う気になった?」 「えっ?」 「だって順調そうだから」 「有希がそんなこと言うと思ってなかった」 「私、夫はいらないけど彼は欲しいもん」  そうだった。有希は絶賛彼氏募集中。   「実は……、結婚したいって言われました」 「おおっ!妊娠した?」 「ううん」 「返事は?」 「考えるって言っておいた」 「即断らなかったんだ」 「論理的に攻めないとダメだと思って」 「あの人、面倒そうだもんね」 「バサッとぶった切られちゃう」  あれからずっと、どうして結婚はダメなのかをリストアップして、それに対する市野さんの反論を想定していた。でもうまく収められそうになくて、彼の出張をいいことに保留状態をキープさせてもらっている。 「営業全員呼び出して、強気な熱烈プレゼンで心を鷲掴みにする翠がモジモジしてるのおもしろい」 「だって……」 「もうさ、洗いざらい話してみたら?翠もセフレだからってスルーしてたこと全部聞いて、嫌なことは嫌って言う。それでお互い良ければ一度結婚してみる」 「離婚経験者がそれ言う?」 「私とは事情が違うから。それに、翠だって市野さんのこと『思ってた人と違う』って言ってたじゃん。離婚はいろいろ面倒だけど、チャンスをあげてもいいんじゃないかなと思ったの」 「でも……」  適した言葉が出てこない。「タイミングも大事だよ〜」と有希が言う。 「私さ。結婚はしなくて良かったけど、子供はいても良かったと思ってるんだよね」 「子供がいたら面倒になりそうだったのに?」 「うん。でも私しか家事しないし、私の方が収入上だし、うちの会社の方が有名で育児体制整ってるし、きっと私が引き取れたもん」  有希の本心を聞いたのは初めてだったけど、彼女は明るく笑ってる。 「子供は期限もあるからさ」  離婚しても男性は再婚する。でも、私の周りの女性はほぼ「二度とごめんだ」と言う。男はひとりの女性では満足できないし、女は一途に相手を想う。つまり、そういうことなんだと思う。 「悪い見本のことなんか気にしないで、考えてみなよ」  有希には子供の頃からずっと心を見透かされている。私はそんなにわかりやすい女なの?とたまに考えてしまうのだ。 ■■■■■ 「お姉さん、きれいですね」  福岡出張から戻った金曜日の夕方。声をかけられて振り返ったけど、ナンパでないことはわかっていた。だって、これは市野さんの声。 「どうしたの?」 「迎えに来た。おかえり。て言うか、あの男誰?」 「弊社の営業です」 「仲良さそう。なんで一緒に行ったの?」 「出張だから。こないだの“りなちゃん”みたいなものだよ。彼は妻子持ちだけど」  “妻子持ち”の言葉に、市野さんはすんなり納得。私からスーツケースの持ち手を奪うと、腕を肩に回して自分に引き寄せた。  チュッ。  突然、横から頰にキスが飛んできた。驚いて市野さんを見ると……、  チュッ。  今度は唇にキス。 「どしたの?」 「なんで?」 「人に見られる」 「だから?」  市野さんはいたずらっぽい顔をする。四十歳にもなって、こういう仕草をするから無駄にモテるんだと思う。本人は気づいてないのだろうけど。 「何してるの?」  赤信号で停止中、運転席から市野さんが私の携帯を覗き込んだ。市野さんの運転は心地が良くて、携帯で調べ物をしても気持ち悪くならないし、ブレーキで頭をぶつけたりもしない。車の運転の上手さとセックスの上手さは比例するというのは正論だ。 「市野さん家の近くのランドリーを探してるの。今日行く予定じゃなかったから着替えがなくて」 「ウチですればいい」 「マンションのランドリーサービスは嫌だもん」 「洗濯機買ったから!翠が欲しがってたヤツ!」  えっ。私は自分の家のが壊れたら欲しいと言っただけなんだけど……。 「俺ももう自分で洗濯してるし!」  ああ、だからシャツがシワシワなのか。 「そんな時間あるの?」 「洗濯機がないくらいで帰られちゃ困るから」 「じゃあ、何か買って帰りたい。微妙にお腹が空いてるの」 「今日は俺が作るから」  ? 「またパーティーでもした?」 「好きな子をもてなすなんて当たり前」  最近、この“好きな子”アピールがすごくてヒヤッとしてる。洗濯のことだけでなく女の扱いの微妙さも急速に改善させてるし、こういうのを見ると市野さんが優れたビジネスマンであることを思い知らされる。ただの芸術家ではない。 (本当は、何でも私に合わせられると辛いんだけど)  「タバコも吸ってないでしょ?」  いつから、市野さんからタバコの匂いがしなくなっていた。 「止めた。翠とキスしたいから」 「私、止めてなんて言ってないよ」 「でも好きじゃないでしょ?健康的だしいいの」 (挫折せずにやり遂げてしまうところもさすがだ)  それでも私は、市野さんが特定の女性と一緒にいる姿を想像できないでいる。前はインタビュー記事で読んだ彼の結婚観からそう思っていたけど、今は違う。プロ彼女もいないらしいし、私とも毎日会っている訳じゃない。それで、この人が満足できるとは思えないのだ。 「市野さんは性欲強いのに私だけで平気なの?そんなに会ってないけど」  ズバッと聞いてみた。こういうことなら何でも聞ける。 「お互い仕事なんだから仕方ないじゃん。すごく我慢してる。でも俺、性欲強くないよ」  ひと晩にあれだけできるのに?私の眉間にはたぶんシワが寄っていたと思う。 「翠に会う前は性欲まったく無かったな。最初に言ったじゃん、久しぶりだって。その前がいつだったか思い出せないくらい」  確かにそんなことを言っていた。 「会社作って忙しかったし、性欲無くなったかと思ったこともあったな。男が好きなのかな、とか」 「プッ」 「笑うなって」 「私のおかげでムラムラできるようになったんだ」 「そうだよ」 「じゃあ、女の人に誘われると大変だね?市野さんモテるから」 「う〜ん。そういうのは違うんだよ。だけど、翠が同じことしてきたらヤバイなとかは想像してる」 「何それ。その後どうするの?」 「だから、もっとしたい。毎晩隣で寝てほしいなって」 「それで帰って来ないんでしょ。待ちぼうけは嫌です」  市野さんには私がプンスカすねているように見えたみたい。 「あーもー、マジでかわいい。好き。抱いていい?」 「今は嫌」  市野さんは私が嫌がることはしない。特にセックスの時。ちょっと乱暴にしたいとかいやらしいこととか、必ず聞いて私がOKしないとそれ以上はしてこない。もっと快楽に貪欲でいていいのに……。私はずっとそのつもりで、市野さんを大胆に攻めてしまっていたし。  だから、公衆の面前では嫌だけど、私の答えはたいてい「好きにして」。 女だって無茶苦茶に抱かれたい時はあるのです。 ■■■■■ 「えっ?」 「どしたの?」  ピンポーン♪と鳴ったインターホンにモニターを見ると、市野さんが映っていた。  もう十二時になろうとしている土曜の夜。お風呂も入って少しホロ酔いで、そろそろ寝ようかと思っていたところだった。  実は今、壮介がアメリカから帰ってきていて私の家に泊まっている。お互い仕事もあるし、部屋も空いてるから別にいいんだけど、市野さんが来るとは思っていなかった。それに、まだ出張中じゃなかったっけ? 「彼氏?」 「彼氏っていうか」 「つか、この人、市野怜さん?」 「最近知り合ったの。私、ちょっと行ってくる」 「翠スゲ〜」  壮介がワクワクしているのにはイラっとした。「俺ジャマ?」だって。 「市野さん!」  私が応答しなかったからか、帰ろうとしていたみたい。 「いないかと思った」 「今、人が来てて」 「ああ、連絡すれば良かったね。友達?」 「うん。日本に帰ってきてて、その間ウチに泊まってるの」 「えっ……?それって、もしかして前つきあってた人?」  市野さんに壮介のこと話したことあったかな? 「うん」 「それはダメでしょ」 「もちろん何もないよ。別の部屋使ってるし」 「いや、だって……」  市野さんはうつむいて言葉を探してる感じだった。今さら壮介とどうこうなることは皆無だから、そこまで驚くことないのに。 「だったら私、市野さんの家に行ってもいい?彼も紹介するから一緒に来て」  市野さんの手を引っ張ったけど動いてくれない。たぶんすごく怒ってる。 「ごめんなさい。市野さんウチには来ないから、言わなくていいと思ったの」 「翠は今も彼のこと好きなの?」 「友達として」 「俺、プロポーズして返事を待ってるところだよ。そんな時に一緒に住んでるなんて言われたら動揺する」  市野さんの周りにいる女性の数に比べたら、私なんて片手で数えられる程度なのに。 「返事はちゃんと考えてる。だけど、市野さんだってこれまで女の人といることたくさんあったでしょ」 「そんなの仕事だから」 「わかってる。だから私何も言わなかったの」 「嫌なら言ってほしかった」 (言ってどうなるの?)  これは声にはしなかった。 「じゃあ、ちゃんと言う。市野さんはどうして私を好きなの?」 「何、今さら」 「市野さんなら、もっとずっと素敵な人と結婚でもデートでも何でもできるでしょ。どうして私みたいなのをワザワザ選ぶの?」 「それは……」 「私わかるよ。初めて会った時、市野さんがどうして私に声をかけたか。別に私じゃなくても良かったんだよ」  今までずっとこういうことはスルーできたのに、今はイライラしてていらないことまで口にしてしまっている。 「そんなんじゃない。翠だって、俺のこと好きじゃないだろ?」 「好きだよ。いつもそう言ってる」 「“俺と寝るの”が、でしょ。そんなの辛いってわかってよ」 「だって……」 「俺の気持ちに向き合ってくれないのは理由があるんだろうと思って、焦らないでいこうと思ってた。翠に合わせてたんだよ……」 「私、嘘は言ってない」  状況がよくわからなくなって、おかしなことを言ったと思う。 「わかった。いいよ。もう翠とはしないから」  それだけ言って、市野さんは帰ってしまった。  パジャマですっぴんで、マンションのエントランスに放置された私。突然話がドンドン進むから、途中で何を言えばいいのかわからなくなってしまった。どうしたら良かったんだろう?  しょんぼりして家に戻ると、壮介が驚いた。私のベッドに潜り込んできて、「じゃあ、そろそろ腹決めて俺と結婚するか?」とか言いながらベタベタベタベタ。励ましてくれてるのはわかってる。  市野さんに同じことをされたら、きっととっくに濡れていたんだろうなとか、今思っても仕方ないことが頭に浮かんだ。もう市野さんにはセックスしないと言われたんだから、壮介でいいのに。  なのに、なぜかまったくする気にならなかった。
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