第七話 あなたの気持ち

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第七話 あなたの気持ち

 混雑する並木道に突然現れた市野さんは、いつもよりさらにカジュアルな装いだった。Tシャツの上にアウトドアにも着ていけそうなコートを羽織っただけ。相変わらず疲れてるのか、嫌なことがあったのか、不機嫌そうな顔をしていた。以前なら、そういう時でも笑って迎えてくれたんだけどな。 「合コン?」 「うん」  人と会う日は、相手に失礼のないようにきれいめのワンピース。有希のための合コンだったことも言おうと思ったけど、そうだ、もう弁解する必要はないんだったと言葉を飲んだ。 「ちょっと乗って」 「えっ?……なんで?」 「なんでじゃなくて」  不機嫌さが態度にも表れている。笑ってくれないのもあるけど、今日の市野さんは押しが強くて、反射的に後ずさってしまった。 「嫌」 「なんで?」 「なんでって、嫌だから……」  今車に乗ったら、あんな狭い空間に二人でいたら、どんな短時間でも絶対泣く。だから嫌だ。大丈夫、市野さんは私が嫌がることはしない。だから諦めて帰ってくれる。そう思ったのに、ほぼ強制的に車に押し込まれた。  最後に会ってからまだひと月しか経っていないのに、もう物みたいな扱われ方。  胸にズキンとくるものがあったし、これから何を言われるのかを想像すると怖くて心臓がドキドキ鳴った。 「ヒャッ」  運転席に座った市野さんが私の前に覆いかぶさった。反射的に声が出たけど違う。市野さんはボケッとしてる私のシートベルトを締めただけ。自意識過剰でバカみたい。恥ずかしくて顔が赤くなってると思うけど、車内が暗くて助かった。 (市野さん、私がプレゼントした香水つけてる)  その匂いも市野さん自身の匂いも既に懐かしかった。でも、どこに行くんだろう。市野さんの家に何か忘れ物したかな。そんなの捨ててくれていいんだけど。  顔を見るのも怖くて、ずっと窓の外を見ていた。世間話をする気にもならない。だって市野さんは何も話してくれない。車内の重い沈黙が息苦しくて、呼吸を忘れてしまいそうだ。何の音もないまま、いくつもの交差点、登り坂と下り坂を過ぎる。えっ、ちょっと待って。これって……。 「どこに行くの?」  前を見つめる市野さんに聞く。 「(すい)の家」 「どうして?」 「また人がいて嫌?」 「誰もいない」 「俺は構わないけど、翠が嫌なら人払いして」  嫌だと思っても、今日の市野さんを止めるのは無理だろう。そんな感じに強引に、彼は初めて私の家に上がった。その間も言葉はなし。空気の重さに耐えかねて、私はキッチンでコーヒーを入れた。カプセルを入れてボタンを押すだけだけど。 「いいよ。お構いなく」 「私が飲みたいの。座ってて」  ソファに座る市野さん。彼が私の家にいることにとてつもない違和感があった。大柄だから、家自体が狭くなったような感じもする。コーヒーが入ったカップを市野さんに渡して、自分は少し離れたダイニングの椅子に座った。 「ヨーロッパと中国にずっといたから連絡できなかったんだ」 「相変わらず忙しいんだね」 「うん。だからなんか落ち着くな、翠の家」 「私は落ち着かない。市野さんが窮屈そうに見える」  だって、我が家のソファは市野さんの家のような大きな物でもないし。 「翠、こっちに座って」  大人しく従う。狭い。そして心地が悪い。何度も裸で繋がりあっていたのに、急にそれまでと正反対の気持ちになるのが不思議だった。コーヒーを飲んで、そんな気持ちを誤魔化す。と、市野さんがポケットから紙を取り出した。私が市野さんの家の玄関に置いた例の紙。 「こないだは聞く時間がなくてごめん」  そのことを話に来たの?もういいのに、なんて律儀な人なんだろう。 「いいの」  さらに一枚。それは何かが手書きでビッシリと書かれたメモだった。 「翠の返事を読んで、俺も考えた。上からひとつずつ説明していくね」 「えっ。いいよ、説明なんて」  反論できないように熟考しまくったあの返事に、市野さんがさらに返事をしたら……。今度はケンカになりそうな気がした。 「ダメ。お願いだから、ちゃんと見て」  でも諦めた。きっと、あと数十分こと。それが終わるまで大人しくしようと腹をくくって座り直した。 「ありがと。じゃあ、頭からいくね」  うんと頷く。 「俺の結婚観だけど、確かに俺は特定の女性とは付き合ってなかったし、インタビューで結婚願望がないと言ったこともある。だけど、それは当時の価値観で、今とは違うんだ。俺は翠とずっと一緒にいたいし、他の男が触るのは嫌だ。だから俺のものにしたいし、翠も俺だけにしてほしいと思ってる」  そうくるとは思っていなかった。だって、こないだもあんなに素っ気ない態度だったから。私と同じように、市野さんももう次を見ているものだと思っていた。 「市野さんには他にいくらでも合う人がいるから……」 「残念ながら、他にこういう気持ちになる人がいないんだ。だから、住む世界が違うっていうところにはグサッときた」  だって、本当のことだから。 「でもさ、そうやって垣根を作るわりに、俺のこと真剣に考えてくれてるよね。ウチの実家のことまで心配してくれてるのはうれしいよ。翠には言ってないけど、俺はとっくの昔に親に翠のこと話してるし、いつ会えるんだって毎週催促されてる。親にもさ、あの家電のインタビューを見られてて……。こんな男に嫁が来るはずないってとっくに諦められてるんだよね。だから、俺に結婚したい人ができたってだけで驚いてたよ」 「ご両親はそうでも、結婚はもっと多くの人を巻き込むものだから」 「そうだね。翠と違って俺は石川の田舎出身だから、昔気質の人は多い」  私は、この後の人生をそういう中で苦しみたくない。 「だけどさ、俺の母親は二人目を産めなかったんだ。周りからいろいろ言われて辛かったみたいだけど、ひとり息子の俺がこんなに人生楽しんでるのを見て、他人が言うことはどうでもよくなったって。だから翠のこともきっと理解してくれる」  市野さんは常識にとらわれない人だ。私の気持ちを本当に理解して、寄り添うつもりでいる。だけど、たぶん私がそれに耐えられない。 「次の倍返しは困る。でも、俺の女性への接し方のことはごめん。配慮が足りなすぎた。嫌なことは全部直すから翠に協力してほしいな」 「縛りたくない」 「縛るんじゃない。ほら、調整だよ。仕事で状況が変わったら調整するでしょ。それと同じ」  これから楽しいプロジェクトが始まるような、ワクワクした顔で笑っている。 「それから、俺が仕事し過ぎなこと。これは俺もまずいと思ってた。これからはもっと若いメンバーにどんどん仕事を回して、翠の側にいるようにする。後になって『もっと一緒にいれば良かった』とか後悔したくないしね」 「……」 「じゃあ次ね。う〜ん。俺は運命だと思うな。だって、名前がひらがな一文字しか違わなくなるんだよ。まぁ、それは置いておくとして、翠はご両親と仲良くしていくつもりがないんだよね?」 「えっ?」  市野さんに親の話をしたことはなかったはず。 「あっ、ごめん。有希さんに聞いた。ご両親のことはいいよ、翠に任せる。無理に話さなくていいし、会えなくても構わない。でもさ、だったら余計に俺の戸籍に入って苗字も変えた方が良くない?」 「有希に聞いたなら知ってるでしょ。私に家族は無理」 「そんなのわからない」  わかってないのは市野さんだ。 「私の父親は浮気して平気な顔してて、母親は怒って離婚したけど生活力なくて、おまけに兄まで浮気した、私の家はそんなだらしない家なの。高校卒業して以来会ってないし、これからも会う気ない。だから私は浮かれないで、ちゃんと仕事して自立していたいの」 「すごいと思うよ」  そうじゃなくて。 「こんな恥ずかしい人間とは関わらない方がいい」 「そんな風に言うもんじゃない」  『育ち』ってある。『蛙の子は蛙』もある。私は自分が家族と同じようになってしまうのが嫌で制御してるのに、どうしてわかってくれないんだろう。 「『結婚してから放置』なんて絶対しません。『おい』『嫁』『お母さん』絶対呼びません。ずっと同じベッドで寝るなんて大歓迎。あとは……、そうだ。翠とセックスするのは好きに決まってる。胸も大好き。この前ムカついて『もうしない』なんて言ったのはごめんなさい。取り消したいです」  市野さんは私の勝手な言い分に怒っていると思ってた。私が作った結婚できない理由についてダメ出しをして、私も言いたいことを言って、最後には「そう、わかった」で、私たちの関係は永遠に終わるものだと。過去になるものに向き合うのはつらい。だから、こんなことしなくていいと言おうと思ってたのに。 (だけど違う。市野さんは私とのことを終わらせに来たんじゃない) 「でさ、思ったんだ。若くないから結婚しないってところ。やり直す時間がないって言うけど、翠は得意じゃん。仕事でダメなところを改善してより良い商品にするとか。時間も全然かけないし。それを俺たちの関係でもしようよ。好き勝手にやってきた俺よりずっと上手にリードできると思う」  市野さんはうまい。仕事に置き換えれば、私が素直に理解することを心得てる。 「俺が異常にこだわってるのはわかってる。だけど結婚してる事実がほしいし、指輪もしたいし、一緒に行きたい場所やしたいこともたくさんあるし、紹介したい人もたくさんいる。でも、翠がいつか冷めるって言うのもわかるんだ。離婚だって三組に一組みはしてるしね。俺には冷めない自信があるけど、翠が信じられないなら何かしないとと思って考えてきた」  市野さんが、今度は反対のポケットから別の紙を出した。  手渡されて読むと、それは市野さんの署名がなされた誓約書だった。中には、市野さんが不貞を働いた場合、彼の財産、所有物、会社までのすべてが私のものになると書かれている。 「こんなのOKできない」 「翠がする必要ない」  確かに。でも誓約書には法的な効力もないのも事実。 「法務と弁護士に提出してある」  考えを読まれてる。男女の関係をビジネスとしてとらえるなんてずるい。私が反対をする理由を奪うだけでなく、彼の決意と誠意すら感じさせるように導いてるんだから。 「大丈夫だからそんな顔しないで。俺だって自分の会社は大切だし、容易にそれを失う行動はしないから」  だけど、そこまでして私は手に入れる価値がある人間なのだろうか。 「俺が相当ダメ人間なのはわかってるし嫌な思いをいっぱいさせちゃったけど、直していくから。そうだ!俺がやらかしたことココにダーッて書いて冷蔵庫に貼るのはどう?で、俺はひとつひとつ直して、二度としない」  市野さんの家の、中が透けたかっこいい冷蔵庫にベタベタと紙が貼られた様子を想像する。美意識が高い彼が、絶対にそんなことをするはずがない。 「ねぇ、翠。俺のことが好きなのは本当なんだよね?」 「……」 「体だけじゃなくて」 「……」 「だったら、翠も俺のためにちょっとルールを変えて、一緒にがんばってみようなんて気にはならない?」  自分が意地になってるのはわかってる。でも、ずっと貫いてきたことをすぐに変えるのは難しい。 「う〜ん。そんな簡単じゃないよな。じゃあ、シンプルに考えよう!」 「……」 「俺のことが好きならOK。嫌いなら俺は諦める。無理だけど」  市野さんはひとりで「ははは」と笑って、私の手を取った。素直になることができなくて、ちょっと泣いてしまいそうだった。 「翠。俺のこと好き?」 「でも……」 「でもはダメ。イエスかノーで答えて」  私が市野さんの習性を把握しているように、市野さんもまた私の扱い方をわかってきてる。シンプルに考えるは私のやり方で、いつでも一番大切にしていることだ。  市野さんの手が私の後頭部に触れる。泣きそうなのがバレた?優しくしてくれるの?としんみりしていたら、急に頭をガクンと前に倒された。 「ウン。イチノサン ガ スキ」 「……」  何それ。  なんで今、腹話術。    私がグズグズしてたから、気持ちを代弁されてしまった。市野さんが私の顔を覗き込んでくる。 「正解だよね?」  市野さんは笑ってる。そして、答えを待たずに私を膝に乗せ、ギュウギュウに抱きしめた。 「大事にするから、俺のことも大事にしてほしいなぁ」  市野さんの体も匂いも久しぶりで懐かしくて、思わず私も腕を回してしまう。それに応えてくれる市野さん。  あー、心地がいい。  なんかもう、なんでもいいかも。  だって、市野さんはすごく論理的で合理的で、強引でしつこい。  あの恐るべき天然さと天真爛漫さに引っ張られてみようか。  理由をはっきり言えないけれど、私はなぜかそういう気分だった。そして、気づくと私から唇を求めていた。
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