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5 2つの望み
「ミカ、落ち着いたか」
「父上……」
発情期が終わり離れではなく自室に戻って回復に努めていたミカのもとを、父親であるレネが訪ねてきた。
レネは枕元までやってくると、ミカが寝台から起き上がろうするのを制してベッドへッドの柔らかな明かりをつけた。
妻や娘とよく似た息子は色疲れをしたような気怠げな色気を漂わせ、薄暗がりの中こちらをじっと見つめてきた。
傾城というのだろうか。
ミカはやはりとてもアルファにはとても見えない。物憂げな色香と蠱惑的な美しさをたたえ、見るものを惑わす姿形をしている。オメガそのものだ。
日の光の精霊のようだった輝きを放った若き日の妻や娘と違い、艶かしい月の精霊の愛子のような陰りすらある。
「ミカ、もう 諦めなさい」
父はそういって一回り小さな息子の手を強く握ってやった。ミカは目を見張り言葉を失う。
「無理に嫁ぐこともないが、この家を継がなくともよい。廃爵になるのも致し方ない。それよりもお前にまでなにかあったら、アリーは今度こそ儚くなってしまうだろう。誰か信頼に足る番を見つけ、オメガとしてのまっとうな人生を歩むといい」
ミカは肩の下で切り揃えられた髪を揺らして首を横に振り、父に言い募る。
「いいえ、父上…… いいえ! 僕は、この家を守りたいのです。アルファとして……」
「お前はオメガだ!」
普段穏やかな父が大きな声でぴしゃりと言い放つ。
ミカはすくんだように動けなくなった。
「ベータですらない、自分がどのように見えるのかお前はわかっていないようだが。とてもアルファにはみえない。どんなに努力しても超えられない性差はあるのだよ。そこは履き違えてはいけない」
「父上は……。僕をお厭いですか? 運命の番の子であるのに、アルファとして生まれなかった、身体も弱い役立たずだからそんな意地悪をいうのですか」
大きな瞳に涙をたたえた麗しい息子を、レネは強く胸に抱きしめた。相変わらず細く、発情期を経てまたやつれたようだ。
「そんなことはない。海よりも深く。お前たちを愛している。だからこんなふうに身体を痛めつけて生きて欲しくは無い。身体の弱いお前にはこんな生活は長く耐えられない」
「僕がオメガとしての生き方を望まなくても? 僕のことも……。カイトと結婚させようとするの?」
姉のことが大好きだったミカには、当然あのことは辛い過ぎる記憶として刻まれている。
「エリのことは私の不徳のいたすところだ…… オメガは当然アルファと番ったほうが幸せだと、私も考え進めてしまった」
「だったら僕のことは放っておいて」
そういい、腕の中で顔を伏せた息子の両肩を掴み、その顔を覗き込むと、レネは追い打ちをかけるように糾弾する。
「それとこれとは別の問題だ。いつまでも、ふしだらに侍従との関係を続けさせることも屋敷中皆反対している。サリエルは、この家に尽くし続けてくれた次期家令、大切な跡取りだ。しかしお前次第では遠ざけることもできるのだぞ」
そう切り出され、ミカは父の腕を強く掴み返しすがる。
頬は紅潮し、興奮した様子でまくし立てた。
「いや、やめてください! サリエルは悪くない。僕のために…… 僕が弱くて一人で発情期を越えられなかったから……」
「サリエルを大切と思うならば、いい加減あのものを惑わせるのはやめなさい。オメガの誘惑から逃れられるものなど、この世には存在しない。お前はその罪深さを自覚するべきだ。もうこれは決定事項としてきなさい。お前と番える候補を何人か見繕っている。近く夜会を開き何人かと引き合わせるからそのつもりで」
「いや……」
「聞き分けなさい」
「嫌です。嫌!」
顔を覆って泣き崩れたミカを置き、レネは痛ましい息子を見ておられずに、入れ替わりに扉の前に控えていたサリエルと交代で部屋を出ていった。
サリエルは静かに主の側へ控え、年上の幼馴染としてその細い肩を抱きしめ、静かに髪を撫ぜる。
ミカは一度はその腕に甘えるようにしたあと、しかし身体を無理に離し、サリエルに向かい頭を垂れた。
「僕は、無力だ……。誰の役にも立たない。無力で、愚かで……。生きている意味なんてないのかもしれない。サリエルにも辛いことばかりさせてきた。本当にごめんなさい」
そんな苦しい告白に、サリエルはたまらない気持ちになり、この腕に主を抱きしめて愛を告げ、どこかに遠くへ攫ってしまいたかった。
しかしこの一年、ベータである自分がミカを真の意味で救えたことはあっただろうか。
発情期の苦しみからも救えず、夢に向かって応援をしてやることもできない。
今サリエルにできることは、ミカの背中を押してやることぐらいだ。
「そんなことはありません。幼い頃から同じ年頃の子どもと同じようには動けない身体で、体調が悪くともいつも少しでも多く学ぼうと学校に通っていました。これからの国に必要な法律を整備するため、大学で学びたいということも知っていますよ。屋敷の皆にも優しくて、お母様思いで。私は私の主があなたで良かった。あなたを誇りに思っています。そしてあの男にとっても。あなたは二人といない存在だ」
サリエルは離れに置き去りにしてしまっていた、バルクのくれた鍵と石のついたペンダントを持ってきてくれていた。
その石を見て、ミカは涙をポロポロとこぼした。
「この石は……。生きる希望を与えてくれるんだって……」
キラキラと輝く石はミカの瞳そのものだと思った。もう一度その光を取り戻してあげたくて、サリエルは自身の恋情と決別するため、こうきりだした。
「あの男に会って、ミカ様の希望を伝えてみたらいかがですか? 番を持って、そして議員にもなりたいと」
「そんな虫のいい話、聞いてくれると思えない…… それに……」
あれからだいぶ経ってからミカはこの鍵を握り締めてこっそり時計塔に行ってみたこともあった。
一階の出入り口は開いたのだが、部屋の鍵はあの日サリエルがドアノブを破壊してしまったので変えられてしまっていた。
中に入れずそれが拒絶のように感じ、とても悲しかった。
学校内でバルクをみかけたこともあった。
月日は経っていたが、姿を見かけただけでミカの胸の鼓動は高鳴った。
それでわかった。あの日幼いミカがバルクに会いたくて時計塔に行ったのは、バルクに恋をしていたからなのだと。
2年たった今、バルクはさらに魅力的で素敵な男性に変化していた。
金髪の輝く巻毛に華やかでありながら男としての自信と力強さも兼ね備えた端正な顔立ち。仕立ての良い洒落たスーツ姿で、沢山の美しい大人の女性たちに囲まれていた。
別の日も多勢の人々の中心にいてまさにアルファらしい堂々たる風格で近寄ることなどとてもできなかった。
事故に巻き込まれて一度だけ抱いた子どものことなどもう、覚えてもいないかもしれないし、拒絶されたら生きていけないと思った。
なんどもバルクからお前など知らないと手酷く拒まれる悪夢を見ては泣き濡れ、恐怖と絶望から再会を諦めていた。
発情期には抱かれる幻想を見て、あの日の罪深い経験を反芻する自分を汚らしく思った。
フェロモンで欲しい相手を絡めとる、汚らわしいオメガだと。
「もしも、ミカ様が再びあの男に会いたいと思うのならば、自分たちをまた会わせて欲しいと。別れ際あの男は私にそういいました。心変わりがなければ」
この後に及んで嫉妬からそんな意地悪な言い方をしてしまう自分の醜さに、サリエルは心底嫌気がさしていた。一度その身を手に入れ、味わってしまったものの恋慕は、簡単に失えるものではないのだと苦々しく痛感した。
しかしサリエルの話を聞いても、ミカは首を振って否定し、白い両手で大切な、しかしもう用をたすことのできない鍵を握りしめた。
「もういいんだ……。父上から爵位を継ぐことも望まれていない。父上のおっしゃるとおりに、決められた相手と番って静かに、誰の邪魔にもならないように僕は暮らしていくよ。母様のことは、心穏やかに暮らせるようになにか考えてみるから……。だから今は少し一人にして」
誰かと番わされるのならばその前に、もう一度だけ、バルクに会いたい。
それくらいは許されるだろうか。
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