庭山透子

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庭山透子

【自分がどうしても自分であって私の他のものでないといふ そのことがぬらりと気味悪い】 ねずみ返しを跨ぎ超えるとしんとした冷気とひゅんとした音が濃さを増す。たぶん、高祖父の時代の空気が此処にはまだ随分と溜まっているのだ。 此処に色彩はない。あったとしても鈍い。 幼い時分、色というのは本来存在しないものなのだと母に教えられて戸惑ったことがある。あなたが今持っているその青いボールも光のもとで見るから青色に見えるだけであって、光の届かない場所では色なんか付いていないのだ、と。 驚いた私は、だったら物が色を失う瞬間を見てみようと、(くだん)の青いボールやら赤いミニカーやら色とりどりのものを持ち込み、押し入れに閉じこもって襖を開閉し実験を試みたことがある。けれど、何度やっても「色が消失する」という現象には納得いかなかった。そもそも闇のなかで色彩の識別なんか出来るはずがないのだ。乱暴な説明だったものの、母の説明の本質はそこだったのかも知れない。此処に足を踏み入れて、久方振りにそんなことを思い出した。 祖父の家の蔵である。 十四のときに両親とも亡くした私は独りで暮らしていた父方の祖父に引き取られて、十八の春までこの海沿いの家で過ごした。祖父亡き後私がこの家を引き継いで、けれど私は再び此処に戻って住むことはなかった。時折帰っては管理していたのだが、手入れの煩わしさを理由にとうとう取り壊すことに決めた。 半月ほど放置していただけなのにポストは潮風ですっかり錆びていて、開けるとき嫌な音を立てた。ああこうだった、と思い出す。 海街は好きではなかった。潮風はいつでもべとついていたし、遮るものがないこの平野地形は悪天候のときもろに害を受ける。単なる夕立でさえ海と同化するように激しいスコールとなったものだ。 祖父は偏屈な人物だった。 眉間の皺は深く、歯のない口許もまた皺苦茶(しわくちゃ)で滅多に喋らない。祖父には何を考えているのか分からない、別の生き物であるかのような空恐ろしさがあった。海街にはどちらかと言えば親しみやすく、開放的な人が多い。けれど祖父はそういうタイプではなく、私はこの家でいつもどことなく緊張して過ごしていたように思う。 (まじない)いめいた言い伝えのようなものを、祖父は信仰していた。 普段無口な祖父が一度だけ、嘘だか誠だか分からぬ奇妙な話をしてくれたことがある。彼の祖父──私の高祖父──のことである。 曰く、医者であった高祖父は人の記憶を蒐集していたらしいのだ。 私がこの蔵に入るのを祖父は嫌った。やれ危険だの暗いだのと過保護めいた理由をつけて入ることを禁じられていた。 海のような曇った水色を塗った指先も、此処では少しも分からない。携帯端末の小さなライトで豆電球のスイッチを探し当て、カチリとスライドさせるとやっと全体がほのかに見渡せるようになった。来月までに残すものと処分するものとの仕分けをせねばならない。 ざっと見回すと、大小様々の品が乱雑に置いてある。 祖父の仕事関連の道具やら、祖母の足踏み式ミシン、父が若い頃買ったらしいギター、私が幼い頃飾ってもらった雛人形までひと通りの歴史がひっそりと揃っている。 壁沿いに、独特な造りの抽斗(ひきだし)があった。私の身長よりやや低い。やけに古めかしくて物珍しいそれは、明らかに服や食器を収納するのとは異なる造りである。統一された小さなつまみがいくつも並んでいる内のひとつを引き出してみると、小さなガラス瓶がぽつねんと行儀良く収まっていた。他のつまみも次々引き出すと、同型の小瓶が同じように収納されている。一列分すべてがそうなっていた。手近なひとつを手に取ってみる。直径5センチほどのそれを光に(かざ)してみると、底1センチくらい、無色透明の液体が入っている。何の液体なのかさっぱり分からない。これは果たして処分しても構わないものなのだろうか。もう少し光に当てようと高く掲げたときに気が付いた。 中川紗雪。 瓶底に貼られた小さなラベルに、そう記してあった。 時折、麻衣のことを思い出す。随分と昔のことだし、連絡先も知らないけれど。もう色んなことがぼんやりしているのに、麻衣の存在が私の決定を左右してしまうことがある。今回のことだってそうだ。私は此処には戻らない。 一通り蔵を点検して、売れそうなもの以外全部処分してしまうことに決めた。中には値打ち物もあるのかも知れないけれど、面倒でいっぺんに処分してしまうことにした。何しろ私ひとりでは手に負えないのだ。 運転席に座ってエンジンをかけようとした手をふと止める。ポケットを探ると、出てきた。 明るい太陽光の(もと)で翳しても、小瓶の中の液体はやはり無色透明だった。ただ、それを持った私の手の爪はちゃんと繊細なニュアンスカラーの水色で、光を受けた瓶を包み込んできれいだった。 興味本位で持ってきてしまったこの瓶は医者であった高祖父の時代のものだろうか。ラベルの『中川紗雪』というのは、患者の名前か。 嫌なのに繋げて考えてしまう。祖父から聞いた妙な言い伝え。 信じていない。信じたくない。なのに、引っかかってしまう。 そう、あのとき祖父は睨んでいた。私には見えない高祖父を。 どこか弛緩した表情で言い加えた祖父の、剃り残した白い髭と一緒に、思い出す。 液体化出来るのだと祖父は言った気がする。人の記憶は液体化出来るのだと。高祖父はそうしていたのだと。 * 海は総てを受け入れる。ゆえに淋しい。 総てを受け入れることは決して優しさなどではない。何物も頓着なく受け入れるなんて、実際は何物も受け入れていないのと同じだ。  砂浜をあてもなく歩いている。 海は嫌いだ。圧倒されるから。どこへでも行けるようでいて、結局どこへも行けないから。あんな果てない様子を見せつけられて、嫌でも自分の卑小さを意識させられる。なのに帰ると毎回見たくなる。悔しい。 此処で暮らした四年間、学校帰りに飽きもせずここへ通った。私は負けず嫌いだから自分の汚いものを此処に持ち込むしかなかった。 父母の死で生活環境が急に変わって、新しい学校に馴染めなくて。私の無愛想と気の強さでは、友達も出来るはずがなかった。 海を見ると思う。祖父は、ただ孤独だったのだと。そして高祖父も。それだけのことだ。多分、人は孤独すぎると記憶がおかしくなる。変に憶えていたり、逆に憶えていなかったり、脳が勝手に情報操作している。 そんなことを考えつつ空に漂う海猫を見ていたら、突然目の前を白いものが横切った。海猫かと錯覚して、次の瞬間帽子だと認識する。手を伸ばしたら空中で捕まえる事ができた。つばの広い女性用の帽子だ。 「すみません」 後ろで聞こえた声に振り返ると、帽子の持ち主らしい女性がびっこをひきながらやって来るのが見えた。 「ありがとうございます。助かりました」 女性は人懐こい笑顔を見せた。目はすっと細く顔は小さく控えめ、肌は抜けるように白い。先程蔵で見た雛人形のようだった。 まるで筋肉なぞ存在しないかのような腕をすっと差し出して、彼女は軽く会釈しつつ帽子を受け取る。 「お怪我されてるんですか」 女性はロングスカートの裾を少しだけ捲りあげる。 「お恥ずかしいんですが、階段で転んでしまって。たまに」 階段がゲシュタルト崩壊する事があるんです──と彼女は妙なことを言う。 「同じ段を何度も踏みしめていると、そこがどこなのかよく判らなくなってくるんです」 そして踏み外す──笑っちゃいますけど、と形だけ笑ってから、 ふっと真顔になって黙った。 変な人だなと思った。けれどなぜか嫌な感じはなく、二人して黙って沖の方に目を向けて、しばらく空を漂う海猫を見ていた。彼女の、年齢不詳の浮世離れしたその様子に既視感を覚えた。 少しだけ、麻衣(まい)に似ていた。 麻衣とは東京の専門学校で出会った。掴みどころのない不思議な子で、私とは正反対なのになぜか気が合った。 上京して、孤独で何もかも上手くいかなくて、すっかり嫌になった私は彼女と逃避行したことがある。無謀で無計画なそれは当然上手くいく筈もなく、結局失敗に終わったのだけれど。 あれも夏だった。出鱈目に電車を乗り継いで、とうとう山奥の名前も分からぬ集落に来てしまった。古い神社の本殿は鍵が掛かっていなくて、そこで勝手に一晩泊まった。賽銭箱の隣、並んで腰掛けて星空を見たとき、海みたいだと感じた。麻衣は私に付き合ってくれているだけだと思っていた。今思えば、私が鈍かったのだと思う。 麻衣がふとこちらを見て、ねえ、弱音を吐いてもいい、とこぼした。いいよと応じたら、「透子さんの話がききたい」と言う。それが弱音なの、と訊いたらもう一度笑って控えめに頷く。 「話って、なに話せばいいわけ? 」 「なんでも」 星は綺麗で空気は澄んで、私達は逃げているのに何だか酷く呑気(のんき)だった。最近あった面白い出来事とか、考えたこととか、話したいなって思ったこと何でも、と麻衣はまるで適当な話し方でそう加える。 「だって私透子さんの話聴くの好きだからさ。その人の事を知りたいって思うのは、その人がすきって事だからさ」 思わず笑った。 「すきとか言わないでよ、やだな」 薄明かりの中の麻衣の顔も笑ってちょっとゆるんだ。 すきとか言わないでよ。 だって泣きそうになるから。 ああ、あれからどうなったのだったか。憶えていない。麻衣は私の知らぬ間に何処かへ行ってしまった。みんな、居なくなってしまう。ちっぽけな私を置いて。 「私、記憶がおかしいんです」 「え? 」 「おかしいんです」 受け取った白い帽子も被らずに彼女は訥々と語る。 「家はずっと遠方にあるんです。泊まるところもない。なのに、毎日此処に通っているんです──」 ああ、この人は多分酷く淋しいのだと思った。だから記憶が曖昧で、語る言葉が支離滅裂なのだ。 「苦しい程憶えていることと、怖い程思い出せないことと、(まだら)になってる。私」 そこで彼女は涙を(こぼ)して、その涙に自身が驚いたようだった。弾みで私の方を向いて涙を拭いながら笑った。「でも、通っている理由ははっきりしているんですよ」と彼女は海に手を差し伸べた。 「ご存知ですか? 何年かに一度、此処の波が虹色に見えるという言い伝えがあるんです」 「虹色に、ですか」 聞いたこともない。 髪の濃い、小さな頭を揺らして彼女は目を細める。 「見たいんですよね。全然信憑性もないですし、本当にくだらないんですけど──見たいんです」 * 波に次ぐ波。その色は、何の変哲もない曇った水色だ。あの人のせいで、余計に麻衣のことを考えてしまう。 ねえ麻衣、人に性別なんかなきゃ良かったのにね。そう思わない? それともそう思ってしまう私がおかしいのかな。雌雄のないアメーバが羨ましいなんて、馬鹿な人間の考える、馬鹿げたことなのかな。 私は外れ者だから、すぐに苦しくなってしまう。そうだ、あの時もそんな感じで、今まで出来ていた愛想笑いとか常識的な振る舞いとか、全部どこかに落としたように出来なくなってしまったんだ。どこの枠にも収まりきらなくて、人の枠からも外れてしまって、私はもう。 ──だから全部忘れることにしたんだ。 忘れるには憶えていなければならない矛盾に混乱しながら、ああ何だっけ。 どうやってこの歳まで生きてきたのだっけか。 ポケットからもう一度ガラスの小瓶を取り出す。もし高祖父に纏わる祖父の話が本当で、この瓶の中身が中川紗雪なる人物の記憶を液体化したものなのだとしたら、こんなところで彼女も随分窮屈だろう。 私は波打ち際に(しゃが)み込み、瓶の蓋をひねり開けた。波に中の液体を全てあけて中川紗雪を解放してしまう。波の()に間に海猫の影落ちつ、溶けつ混ざりつ。少し粘度のあるその液体は海に溶けて漂い広範囲に均一に拡がって、そうこうしている内にやがて海そのものとなって全体を七色に輝かせた。 ──虹色の波。 船のオイルが海に流出すると光の屈折で虹色に見えるのと同じ理屈だ。あるいはシャボンの泡が虹色に輝くように。干渉現象というのだったか。 “何年かに一度、此処の浜辺から見る波が虹色に見えるという言い伝えがあるんです。” はっとする。 ──あの人は。 あの人は見ているだろうかと思った。これが彼女の待ち望んだ虹色の波なのかは知らないけれど。教えなければと辺りを見回して彼女を探したけれど、見当たらなかった。 虹色の波は虹色に見えるだけ。あれも多分、本当は色なんてない。ただの光の屈折が、私に幻想を見せつけて信仰させる。ボールの青や、ミニカーの赤と同じように。それでも。 彼女が自由になれればいいと思った。 虹のスペクトラム。海と空のスペクトラム。砂浜と波打ち際の、夕と夜の(あわい)の──。 淋しい。私ばかりが。 違う。 淋しいのは私ばかりじゃない。 ざざ。 ざざ。 揺蕩(ようとう)に揺蕩を連ね、波は途切れることがない。 大きな波は、その分引きも大きくて。満ちた分だけ必ず次は失ってゆく。 あの夏に会ったきり、あの人を二度と見かけない。
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