マスクの青年

1/1
110人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

マスクの青年

 店には和人のほかは甘いレモネードと食事代わりになる、自家製バターと地域のブランドハムの載ったパンケーキを注文した若い男性が残った。  大きな黒い擦り切れ気味のバックパック、ファストブランドっぽいデニムに、それだけはセレクトショップで買ったような真新しい水色のチェックのシャツを着ていた。  マスクを外したところは見そびれてしまった。  いつの間にか食べ終わっていたらしくて、またピッタリ系黒マスクをした姿にもどっていた。  高校生かそれでもいいところまだ学生さんだろうなといった感じだ。  彼は庭側の席に座っていたので、紫陽花の他に美恵子さんと造園業を営む旦那さんが持ってきて植えてくれた、黄色くて雌しべが絹糸のように艶めいて長い美容柳や、水色と紫が混ざったような背の高いアガパンサス。  そして黄緑がかった白のアナベルという紫陽花が咲いた初夏の庭が、雨に濡れる様をじっと眺めて静かに座っていた。  今の時期でもこの店は17時半には締めることにしている。  一応観光名所である寺の山門は四時半にしまるから、流れてきた客がきても一時間程度は休めるからだ。  そのまま店のキッチンを使って自分の夕食のかんたんな下ごしらえもしてしまう。 今日はキーマカレーだった。  もう時間は17時25分。  追い出すのは可哀想だが、和人は席を立つと、カリモクという家具屋の出しているモスグリーンのビンテージソファーに腰を掛けた青年の食器を片付けた。  青年は会釈をする。するとぐーっとお腹の音がなったのが聞こえた。  マスク越しにもわかるほど彼が狼狽えたのがわかる。  わたわたとした動きと腕から伸びる肌のつやつや具合、それに長いまつげのけむる瞳の綺麗さに青年というより少年めいたものを感じた。 「あ、あの。カレーの匂いがあまりに美味しそうで……」  彼は消え入りそうな声でつぶやいた。  和人は笑って応じる。 「ああ。ごめん。自分用に夕飯用のキーマカレー作ってたんだ」  遠慮がちで消え入りそうな頼りない声。きっと年下なきがして随分と砕けた口調になってしまった。 「食べたい?」  彼はこくんと素直にうなずいた。 「まってて、店閉めてくるから」  看板をしまおうと踵を返す和人に、青年は声をかける。 「あの! あの…… 急なんですが今晩民泊お願いすることってできますか?  以前、先行予約してたんですが……」  ややあって、和人はある心当たりを思い出す。 「あ、ああ。もしかして君、ミント、くん?」  青年は何度もこくこくと頷き、目元がニッコリと微笑んだ。 「覚えていてくださったんですね」 「そっか、よかった。君だけ連絡が取れなくなっててそのうち連絡くれるかな?とか思っててそのままにして、ごめんなさい」  それは和人がSNS上でこのカフェや今後民泊もしていきたいといった内容を発信していたとき、民泊を希望する人がどれくらいいるのか募った中にいた名前だった。  ほとんどが大学のサークルつながりの面々がグループで数人泊まりたいという軽い予約を取り付けていく中、一人で泊まりたいと書き込んでくれたのがミントと名乗る人だった。  地方在住の学生で、例の小説に憧れていたというのでてっきり女の子なのかと思っていた。 「ところでお名前は?」 「蔵田民人です。あの…… 民に人でミント」 「ああ、あれ本名だったんだ。俺も和むに人って書いて和人。人つながりだね」 「あの、すみません、急なんですが今日泊まることはできますか?」  ミントは椅子から腰を浮かして、必死の様子で訴えてきた。 「ごめんな。結局民泊はやらないことにしたんだ。cafeも再開してまだたいしてたってないし、俺来年には試験受けて、役所勤務狙いだから俺がこのカフェするのも今だけかもしれないし」  するとマスク越しでもよくわかるほど口元が大きく動いたのがわかった。 「えっ! 俺…… ずっとここが出来上がってきてお店が開店するのずっと楽しみにしてきて…… でもあの感染症が流行って、カフェできなくなって。自粛とかもあってこれなくて……」 「そっか。やっと来てくれたのにごめんな」  うつむく柔らかそうな黒髪が、実家で買っている犬を思わせてなんだかかわいそうになってしまった。 「ミントくん。でも今日は友達として泊まっていかないか? 約束を反故したお詫びも兼ねて。もちろん無料でいいよ。冷凍しておこうと思って、カレーもたくさん作ったし。ご飯もつくよ」  こくこくこくこく。  水飲み鳥の、ように何度も何度も首を縦に振るミントの姿が可愛くなって。知らずと和人も微笑んでいた。 「じゃあ看板しまってくるから、待ってて」
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!