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ホントだったらさ…。
「ヨリちゃんまた言ってる、もう口癖だよね」
母の妹、サナコおばさんがコロッケ用のジャガイモを潰しながら笑って言った。マスクを通した声はぼわっと籠っている。
そっか、そんなに言ってるか。
揚げ物の作業は割と単純であまり頭を使わない。目の前に浮かぶハムカツの揚げ色や気泡の大きさを気にしてクルクルひっくり返してさえいればそれでいい。だから頭の隙間に考え事がすっと忍び込む。
ホントだったらさ…。
私は東京で働いてて、今頃はオリンピックの真っ最中で、ラグビー準決勝観戦で会場に行ったり、家で飲みながらライブで観たり、パブリックビューイングなんかに参加したりだったはず。
オリンピックのあとは帰省して、つい何日か前にオリンピックとディズニー目当てで遊びに来てた友達とまた会って、花火大会や同窓会で盛り上がったはず。
なのに現実の私は春先に急遽帰省したまま、ずっと実家にいる。定年退職後に父が始めた、古くて小さな商店街の片隅にあるちんまりした惣菜屋のために。父が亡くなった後は、当たり前のように母が継いで、サナコおばさんが手伝っている、この店。
事の始まりは三月半ば。新型コロナウィルスがどうこうとメディアが本格的に騒ぎ始めていても、まだそれほどに脅威を身近に感じてなかった頃だ。
勤務時間中の私の携帯が鳴った。サナコおばさんから。開店前の掃除中に、濡れた床に足をとられた母が救急搬送されたと。
「右大腿骨の骨折」「これから手術」「手術終わった」「病室に入った」「足以外元気…っていうか、興奮気味?」…etc。わかり次第取り急ぎという感じで、おばさんはこまめにメールをくれた。
翌日から有給休暇を取り帰省して、母を見舞った。
受け答えはしっかりしているけど、熱と痛みのせいかぐったりしている。昨日元気そうだったのは思いもかけない怪我でテンションが異様に上がっていたせいらしい。ぐったりしていても店のことが気になって仕方ないようで、しきりに常連の誰々さんに申し訳ないとか、業者の○屋さんから仕入れる約束がとか、繰り返し言っていた。
母は店を休まないでほしい、けれどおばさんは一人では続けられない、ということだ。
両方の意見を合わせると…。
正式な入院の手続きなど一通りを済ませたのちに、上司に状況を説明し、このまま在宅勤務に移れないかとかけあった。社がテレワーク社員を増やす方針を掲げていることもあり、すんなりと了承された。
私は惣菜屋と本業のダブルワーカーになった。
とは言うものの、仕入れの量やタイミング、仕込みの手順などどれから手をつけていいかさっぱりわからず、おばさんに頼り切りだ。野菜の皮むきさえ手が遅い。とりあえず役に立つのは、重い物を運んだり高い所にある物を取るときくらいだ。
おばさんは私があまり役立ってないことなどあまり気にしてない様子だった。一人で店を開けること自体が不安なだけで、誰かが一緒なら大丈夫なのよ、と言ってた。
そんな中、緊急事態宣言が発出された。世の中の空気ががらりと変わった。商店街だけでなく、すべてが不気味に静かでギスギスしているように感じられる。皆が、目に見えない厄介者を恐れた。
「コロナ禍」と言われ始めたのもこの頃のような気がする。
月イチ程度の出社も、病院へ母に会いに行くのも、当面の間禁じられた。
それからは、人と会うのは殆どがパソコンの画面上。リモートワーク、リモートミーティング、リモート飲み会の連続だ。
例外はサナコおばさんやお客さん達。以前は母やおばさんと注文かたがた世間話に花も咲かせただろうに、今は最低限のやり取りを、アクリルのパーテーションとマスク越しにするだけになってしまった。
パソコン画面で馴染みのある顔を見て話すのは、最初のうちは目新しいしワクワクもした。けど、人はそんな環境にもすぐに慣れる。
そして「やっぱりリアルに会えないのはつまんないね」となり、「『しゅうそく』したらあれしよう」「あそこに行こう」と、約束事が増えていく。先の楽しみがあれば、ちょっとくらいしんどくても耐えられる気がする。
「しゅうそく=終息」だと、初めのうちは思ってた。きっとあの疫病をやりこめる日がくると。
「しゅうそく=収束」だと、自分の気持ちの中に落とし込めたのは、緊急事態宣言が解除され季節が変わってもまだ、出社や面会の許可が出ないからかもしれない。
惣菜屋は母のためだけでなく、料理をしないあるいは料理ができないお客さんのため、それから仕入れた食材の廃棄をできるだけ避けるため、細々と営業した。
店を続けてくれて助かると言われると、正直嬉しい。一瞬でも心が晴れる。
そんなお客さんの姿の写真を、会えない母へ時々メールで送る。マスクで表情が見えにくいから、目じりに思いっきり皺が寄るほどの笑顔を作って。
携帯電話が苦手な母も、看護師さんに助けてもらってリハビリの様子や病院食の写真を送ってくれる。
サナコおばさんは、玉ねぎをみじんに切り始めた。
「まあね、世界中の人が思ってるよ、ホントだったらとか、普通ならとか。私だって夏にはダイゴがカナタと帰ってくるからプールやキャンプに連れて行くんだって思ってたもん」
ダイゴはおばさんの長男、つまり私のいとこ、カナタは彼の子供だ。
いつもより包丁の音が高い気がする。おばさん、涙ぐんでる。
ごめんね、玉ねぎのせいにしておくね。
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