赤い星の狼王女

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「……なんで、あんたを大事に思わなきゃいけない?」 リュウがそう口にした瞬間、彼の頬には紅葉が張り付いた。じんわりと広がる痛みとも痒みともつかぬ感覚に、顔をしかめる。死んだ魚の濁った眼で自分を睨みつけて、痛む手のひらを押さえる女に、リュウは目をやった。身を切る寒さの中で、リュウとは対照的に、彼女は薄着だった。 あたしより犬のほうが大事なのね。 恋人だった彼女はそう言った。たいして好きでもなかった女だ。だからこそ、さっきのセリフが出てきた。 アルファは犬じゃない。オオカミだ。 すべての物質を凍らせる、そんな視線を女に向け、リュウは唇を引き結び、拳を握る。 その間違いから、リュウの怒りは始まっていた。決定的すぎる間違いだ。何よりも大切な女の子のこと。だからこそ、リュウは、ふだん何よりも下に見ている存在からの暴力すら受け入れる覚悟で、恋人だったそれを罵った。 恋人。だから大切。 そうとは限らないと、多くの女は知らない。それか、知っていても知らないふりを、気がつかないふりをしている。十八年生きてきて、それを、なんとなく察した。 では、好きでもないのに、なぜ付き合うのかと男に尋ねた場合。多くは、体が目的だと答えるだろう。 しかしリュウは、体が目的、というその言葉の意味が、一般的なそれと違った。 いざというとき、アルファの食事(えさ)にしよう。 そう考えていたのだ。それだけ。だから、『手も出して』いない。それどころか、指一本触れたこともない。 それでも女は、リュウを好いていた。リュウを、というよりは、リュウの体を、だろうか。 リュウは美しかった。 たいして手入れができないからしていない、しかしまっすぐに伸びた金髪。エメラルドというよりは翡翠というほうが的確な、どこか透明感の欠ける緑色の瞳。肌は白く、静脈が透けて、むしろ青かった。 切れ長の目はどちらかと言えば垂れ目と言ったほうがふさわしく、眉は吊り上がり、唇は厚い。繊細な美少年というよりも、ふてぶてしい色男、といった感じだ。背は高いとも言い切れないが、平均よりは少しばかりあるだろう。筋肉量にしても、同じことが言えた。 自分が、他の(おんな)のための肉扱いされていたとも知らずに、あるいは知っていたとしても、一心に自分を想い続けていたなんて、なんて愚かな女だろう。そう、リュウは思う。しかし自分もまた、振り向いてくれるのかわからない女性を想い続けているのだった、と、自嘲の笑みをうかべた。 だが、と、リュウはうつむく。 どんなに使い勝手の良い道具だろうと最後まで使うことなんてほとんどない、ヒトという生物より、利用できる存在は最後まで利用する他の生物のほうが、よっぽど良い。だから自分のほうがマシだ。そんなことを考える。 「……自分が大切に思われてないのが嫌なら、どっか行けよ。それとも、おれに大事に思われてる子の、飯になりたいのか?」 肩にかけた二連銃の紐を握りしめ、顔を上げると、リュウは目を細める。その視線の先には、まだ、女がいた。死んだ魚の目を通り越して、死んで腐った魚の目になっている。 十分ほど、向かい合っていただろうか。 ようやく、女はリュウに背を向けた。しかし、もう一度、振り返った。 腐った目をしていると思った。何かしらの後ろめたいことを、決意したときの。 しかしぞっとする間もなく、女は走り出した。濁った白い空気の中に、女の影が消える。意外にもあっさり引き下がった。それがなおさら、リュウの喉に、石が詰まったような、微妙な不快感を与える。おい待て、と言いたくないのに、言いたい。 古びたスノードームの中に降る雪が、リュウの唇を凍らせる。リュウは、ため息をつくことすら放棄した。 ただぼんやり、風の奏でる音楽を味わう。 ふと、愛しい狼の声を、聞いたような気がした。 ……アルファ? リュウは振り返り、心の中で彼女の名を呼んだ。 鉛が、風を切る音。そして次の瞬間、耳の端に強烈な熱を感じた。 リュウは痛みに顔を歪め、けれどなんとか銃を構える。重くなる瞼を持ち上げて、涙で滲む視界の中で、のろのろと動く、その影をとらえた。 もたもたしてると、こうなるんだぜ? リュウはその影を撃った。 耳障りな鳴き声。硝煙と、そして血液の臭い。 銃を、ゆっくりと下ろす。 油断していれば刺されるかもしれない。撃たれるかもしれない。貨幣という概念など、とうの昔に捨て去られた。だから、欲しければ奪うしかない。 そういう星に、リュウは生きていた。捨てられた人間たちが、悪あがきとして創り上げた世界。 かつては緑と水に富んだ美しい惑星だったと、母は言っていた。しかしヒトは、それを破壊した。自然というものが作り、海深く、地中深くに大切に隠していた宝物をすべて奪い、浪費した。 結果ヒトは、この星を捨てる道を選んだ。優秀な遺伝子のみを、宇宙を旅するフネに載せて。 つまり、リュウは劣等遺伝子のなれの果てなのだ。 リュウは首を振る。嫌なことを思い出した。 痛む耳に触れようとして、再び銃を構える。 ダメだ。 リュウは瞬時に判断し、地面に転がった。撃ち殺したそれのそばで蠢く、もうひとつの影に気がつけなかったのである。 銃弾が、ひらりとなびいたリュウのダウンコートのチャックの金具を破壊した。リュウは舌打ちし、体勢を立て直すと、幅のある影を撃つ。 失敗したな。太ももに当ててしまった。 リュウは体を起こすと、今度は銃を下ろすことなく、折り重なったそれらに近づく。 骨と皮ばかりの老人と、肉付きの良い老女。 男のほうはたいしてアルファの腹の足しにならないだろうし、置いて帰るか、どうしようかと悩んでいると、女のほうが、リュウを睨んでいることに気がついた。夫と、自分を傷つけたリュウに対する、憎しみのこもった瞳で。 気持ち悪い、腹が立つ、醜い、低俗。リュウはその視線がとにかく不快だった。 あんたたちだって、おれを殺そうとした。傷つけた。なのに何故、『生き残った』だけで、おれが、そんな目で見られなければならない? 背負った麻袋を地面に放り投げ、その中から鉈を取り出す。そして未だ上下している老女の首めがけて、なんのためらいもなく刃を振り下ろした。老女は呻き声ひとつもらさずに、息絶えた。 アルファ、人頭は嫌いなんだよな。 そんなことを考え、リュウはなかなか切れない首をいらいらしながら切りつけていた。 やがてリュウは首を切り離すことを諦めた。この際、食べてもらおう。最近は、ヒトも減ってきている。好き嫌いを直してやらないと、彼女が困るだろうし。 手足だけもいで、大猟の肉を麻袋に無理やり押し込んだ。血抜きなんて面倒くさいことはやらない。アルファは血液が大好物だし、そもそも、もたもたとそんなことをしていたら、こちらもまた、やってくるかもしれない第三者に殺される、そういう可能性があるからだ。 リュウは再び麻袋を背負う。 ひどい臭いだ。 誰に聞かせるでもなく、唇の動きだけで、そう呟いた。 その言葉は、汚染された大気に対してか、それとも、老いたヒトの番いに対してか。リュウは自分でもわからなかった。 歩くたび、白雪の大地の上に、リュウの耳から流れる生き血と、ヒトの番いの死した血液が、赤黒い道をつくる。 やがて、どちらからも、血が流れることはなくなり、リュウの影は、白い嵐の中に、消えた。 「ただいま、アルファ!」 声に反応して、真っ黒な毛皮をまとった女の子が、コンクリートの建物に開いた大きな穴から、飛び降りてくる。ザクロの粒のような瞳が、リュウ、ではなく、リュウの背の、麻袋に向けられていた。 「アルファ」 愛しい狼、アルファの前に、リュウは跪いた。アルファはふん、と鼻を鳴らすと、背後にまわり、リュウの担いだ麻袋のにおいを嗅ぐ。リュウが、彼女を抱きしめようと伸ばした、両腕は無視して。 リュウは、寂しそうに笑った。そっと手を下ろす。 「やれやれ」 リュウは肩をすくめ、立ち上がった。 「今日は、頭も残さず食べてくれよ」 アルファは苦い顔をした。恨めしそうにこちらを見上げてくる。リュウは少しかがんで、アルファの胴を撫でた。 「そんな顔しても、ダメだ」 アルファは低く唸り、尻尾で、べちん、とリュウの手を打った。そして、さっさと歩いていってしまう。ああ、これは、絶対食べてくれないな、と、リュウはそう思った。 リュウは、木製のドアがあった場所から、建物の中に入った。そのドアは、とうの昔に暖炉の燃料にされている。おかげで寒い。 階段を上がると、ぼろぼろのペルシア絨毯が敷かれた部屋に入った。暖炉に薪を入れ、マッチをする。 そこで、リュウは、見慣れない人骨に気がついた。まだわずかに肉片が付着している、真新しい骨だった。 「……また、おれが留守の間に」 上の階の大穴から冷気が吹き込んでいるせいか、リュウの唇は震える。 男の骨だ。 リュウの心は冷えていく。奥歯を噛み締め、血濡れたコートの裾を握ると、指先に、ぴりっとした痛みが走った。 見ると、先ほど壊れた金具で、指を切ったらしい。赤い露が、そこにあった。鉄臭いにおいが、鼻腔をくすぐる。 くい、と、コートが引っ張られた。 「アルファ」 そこには、物欲しげにこちらを見つめるアルファがいた。 リュウは、彼女のガーネットに吸い込まれるようにして、跪く。 指先をそっと差し出すと、アルファはその指に舌を這わせた。 「アルファ、痛い」 リュウは訴えかけるように言った。しかし彼女はそんなことは気にせず、傷口を抉るように舐める。血液が固まりかけるたびに、それごと、赤い液体を飲み込んでしまうのだ。 生暖かくざらついた舌が、指から、手のひらにかけて撫でていく。アルファはリュウの手を甘噛みすると、前脚を上げて、リュウの肩を押した。リュウはそれに抗うことなく、床に倒れる。 リュウの上に覆いかぶさると、アルファは、リュウの首に牙を立てた。リュウは呻き声ひとつ漏らさない。慣れているからだ。 食い込む牙、肌を滑る舌、失われていく血液。十四のころから知っている感覚だ。ただの痛みではない、与えていることに対する快楽を伴った感覚。 自分の血液が、アルファの血になり、肉になる。リュウは自分の首を噛む狼の頭を撫で、黒い笑みをうかべた。自分が彼女に支配されているだけではない。自分もまた、彼女の一部を支配しているのだ。 リュウは、温かく柔らかい体を自身の首から引き離すと、食欲とも繁殖欲ともつかぬ欲望に濡れた紅い宝石を見つめた。 首の傷から、どろどろと血液が流れているのがわかる。リュウは目を伏せた。これ以上は無理だ。 リュウは、アルファの口元にそっとキスをする。 「今日は、もうおしまい」 リュウはアルファの体を押しのけると、首を押さえながら立ち上がった。アルファは不満そうに吠える。 「飯だぞ」 アルファは満足そうに吠えた。 行儀よくお座りをするアルファの前に、麻袋の中身を並べていく。 ふと、自分の手の甲に刻まれた『ω(オメガ)』の文字が目に留まった。 もう、あれから六年になるのか。 リュウは、アルファの隣に腰を下ろした。 忘れもしない。アルファを手にかけようとした母を、撃ち殺した日。眠っているアルファの爪で、リュウが、自分自身でつけたものだ。 あの日、初めて銃を取り、ヒトを殺した。しかし不思議と後悔はなく、反省もしなかった。母を、肉親を殺めた。それがどうした、と鼻で笑ったのを覚えている。 彼女を害するものは、たとえ自分を産んだ人間だとしても、許さない。彼女の口に合うものであるなら、餌にしてしまえばいい。母だって、彼女の餌になった。 そう、リュウは、母親すらも、アルファという、一匹の雌狼のために処分(ころ)したのだ。 アルファという名前は、狼の群れにおけるトップをさす、ヒトが勝手に作り出した名称から来ている。 出会った当時、彼女はいわゆる『一匹狼』というもの、しかも子供だったが、その視線は皇帝であり、その立ち姿は王だった。 リュウは一瞬で彼女に心奪われた。そして、山に帰っていこうとする彼女を、必死で引きとめた。ようやく家に来てもらえた日が、人生で一番幸福だった。母は苦い顔をしたが、リュウは、いざとなったらさばいて食えば良いだろう、と、そそのかし、母に彼女との共生を認めさせた。十割嘘だった。むしろ、自分が食われるとは、母も思っていなかっただろう。 リュウは自分より、アルファが大事なのだ。それを理解したあの日、だから、オメガの文字を刻んだ。奴隷でいいのだ。彼女のそばにいられるのなら。 ──おれは、骨の髄まで、彼女のしもべでありたい。 ……でも。 自分の狩ってきた人間を貪るアルファ、その横に転がる男の人骨を見て、リュウは舌打ちする。 リュウも、以前は、アルファに番いを見つけてやろうと、生け捕りにした雄狼を家につれてきたりしていた。しかしそうするとアルファは怒り狂ってその雄狼を食い殺すし、リュウ自身もあまりいい気持ちはしない行いだったので、やめた。 しかし最近、リュウが留守にしている間に、家に男が上がりこんでくるのである。もちろんアルファが連れ込んでいるわけではないし、たかが盗賊に引けを取るようなアルファではないのだが、考えてもみてほしい。 自分以外の男を、雄を、見ないように家に押し込めているお姫さまが、泥臭い他の男の視線にさらされるのである。不愉快極まりない。 「アルファ」 リュウが呼ぶと、アルファは食事を中断し、リュウの膝に頭を預けた。基本的に気まぐれでわがままなこのお姫さまだが、リュウが本当にそばにいてほしいときだけは、こうして、そばに来てくれる。 「アルファ」 リュウは、アルファにそっと口付けた。赤い舌で彼女の歯列を割り、口内に侵入する。人間の生臭い味がした。それでも、アルファの舌は柔らかく甘かった。 唇を離すと、白銀の糸が引く。 リュウは、官能的なため息をついた。 「好きだよ、アルファ」 この思いが、どこへいこうと構わない。ただ、リュウは、彼女に知っていてほしかった。 自分は、アルファを愛しているのだ、と。 「アルファ? どうしたんだ」 いつも通り狩りに向かおうとしたリュウのコートを、アルファが噛んで引っ張った。その瞳にあるのは、寂しさではなく、もっと悲痛な何かだった。 行かないで、ではない。行くな、と言っていた。 「本当にどうしたんだ。一緒に来るか?」 アルファの瞳は、その言葉に、絶望に近いものを示した。まるで、声を失った人魚姫のよう。ただ、コートの裾を引き続けた。 リュウは、彼女の行動に、不安がつのっていった。いつもは、出かけてくる、ふーん、そう、ぐらいの反応しか示さない彼女が、なぜ。 「……行ってほしくないのか。でも……」 家の中にある食料は、ミルクと干し林檎ぐらいのものだ。アルファが飢えてしまうことになる。自分が飢えるのは構わないが、アルファに空腹感を感じてほしくなかった。 「お前の食事がない。調達してこないと」 アルファはなおもコートを引っ張った。そんなことはどうでもいい、と訴えている。 リュウは、一瞬考えた。 そして、銃と、麻袋を床に落とした。 「わかった。その代わり、腹減っても文句言うなよ?」 アルファの目が輝いた。リュウはその場に腰を下ろすと、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。 アルファは、喜びあまってリュウに頭突きをくらわせた。リュウはそのまま、絨毯の上に倒れ込む。 アルファを抱きしめると、緑の香りがする毛皮に顔をうずめ、目を閉じた。 「このまま、昼寝でもしようか」 アルファはしばらくもぞもぞと動いていたが、やがて自分も眠たくなったらしく、穏やかな寝息を立て始めた。 日が落ちた。もう夜だな。リュウは、コンクリートの隙間から入り込んでくる空気の冷たさを感じ、思った。 すやすやと眠るアルファから身を離し、リュウは銃を拾い上げる。 この様子だと、アルファは一時間くらい起きない。目覚める前に狩って、帰ってくれば良いだろう。夜、夕方は危険だが、アルファに空腹を味合わせるよりはマシだ。 リュウはそっと階段を下り、外に出た。 外はやはり寒く、指先から凍ってゆきそうだった。銃の紐を肩にかけると、いつもの狩場まで走る。 途中で、ふと、アルファのあの、不安げな瞳が脳裏をよぎった。視線を感じる。妙な悪寒が背筋をはしり、リュウは立ち止まった。 水流の音が聞こえる。気がつくと、一歩後ずされば川に落ちる。そういうところに立っていた。 満月の夜だというのに、足元がおぼつかない。リュウは肩の銃を構えようとした。 しかし、その瞬間、リュウの脇腹を、銃弾がかすめた。 「っ……!」 ほんのかすり傷だった。それでも、誰かに傷つけられたことに変わりはない。リュウは自分を撃った人間の気配を探るため、瞼を閉じた。 狼の声がした。アルファの遠吠えだった。 「っ、起きたのか⁉」 リュウが目を見開き叫んだとともに、女の悲鳴が、夜の静寂を切り裂いた。 そして木と、木のから、片腕をもぎ取られた女が走り出てくる。その瞳は、執念に燃え、リュウを見つめていた。 あの女だ。数日前に別れを告げたはずの。 もう名前も覚えていないその女は、ぼたり、ぐちゃり、と血を流す片腕をかえりみることなく、まだ残っているほうの手で握ったナイフを振りかざし、リュウへ向かって駆けてきた。 リュウは脇腹の痛みをこらえ、銃を構える。しかし一歩遅かった。 女の刃はリュウの右胸から腹にかけてを切りつけ、そして、ふたりの体は、そのまま川に落ちた。 身を切るような冷たさとは、こういうことか。 リュウはぼんやりと考える。川は思っていたよりも深く、このまま沈んでしまうのではないかと思った。 首を振った。水の底で、人間の女と死ぬなんて、嫌だ。死ぬならば、せめて、愛する狼のそばで。 リュウは傷口から体が裂けていきそうな痛みを振り払い、水をかいた。 「っはあ……!」 水面から顔を上げると、アルファが心配そうにこちらを見つめている。 リュウは岸に上がると、シャツのボタンをはずし、傷の状態を確認した。深くはないが、浅くもない。そして、川に落ちて体力を消耗している。そして、多くの血液が、水によってさらわれていった後だった。 本気で、これは下手をすると死ぬ。 リュウにはそれがわかった。だからこそ、歩かなければならない。家に帰り、暖炉の前に身を横たえなければならない、と。 「……帰るぞ、アルファ」 リュウは、震える唇で彼女に告げた。 金色の月光の下で、ヒカリゴケが金緑に輝き、暗い夜の森を彩っていた。 よろよろと歩くリュウを先導するように、アルファは歩いていく。まるで、黄泉の道を、女妖に導かれているような心地だった。脚は確実に動いているし、まだ視力だってはたらいているのに、自分の体に魂がある感覚がない。 そして、歩いていたと思ったら、地面に倒れていた。呼吸するたびに土が鼻に入るのが気持ち悪くて、リュウは体を起こし、そばの木の幹にもたれた。 寒い。寒い、冷たい、寒い。 リュウは、手を伸ばした。そこには、冷たい空気があるだけだった。 血に濡れた胸が、ふわりと温かくなる。 そこにいたのはアルファだった。リュウは、力の入らない腕で、彼女を抱きしめる。 温かい。もう、寒くない。 そう思えた。 重い瞼を持ち上げ、アルファの瞳を見つめる。愛しい、あの柘榴石を。 『だから、わたくしは忠告した。行くな、と』 女王、女帝。そういった類の声ではなく、可憐な妖精と言ったほうがふさわしい声だった。リュウはこれを、夢だとか、幻だとか、そういうことは思わなかった。アルファが、自分に語りかけているのだと、理解した。 あんたの、本当の名前は? リュウは、もう、自らの唇で問いかけるだけの体力もなかった。しかしアルファは、かつてのリュウと同じように、瞳に宿る光の色で、意思をくみ取った。 『わたくしの名は、アルフライラ』 アルファは、アルフライラは、質問に答えるのみでなく、自らの出生、そして、人生の目的について、語り始めた。リュウは、それに黙って耳を傾ける。彼女のすべてを、自分の知らない彼女を知りたかった。 『わたくしの母は、お前たち地球(イアルス)人が火星と呼ぶ星、我々がマズルスと呼ぶ惑星、そのチャリトゥム山脈の吸血狼たちを束ねる、女王であった。しかし母は野蛮な人間の手にかかり、イアルスの、アルコール臭い実験室に、王配たる我が父と共に囚われたのである。 人間どもは、交配実験などと称し、我が母が、下賤な地球の雄狼どもに犯されている状況を、無礼にも、好奇心を伴って眺めていたという。母が受けた屈辱は、どれほどのものであっただろうか。父は、どれほどの悲しみを、その胸につのらせていったのだろうか。想像に難くない。 人間の気まぐれによって、実験室内で、母と父は結ばれた。それによって生まれたのがわたくしである。 ちょうどわたくしが生まれたころに、『優秀』と判断された人間は、地球を離れた。その中に、あの下劣な研究者どもも含まれていた。 しかしそれが、母の心に安寧をもたらしたことは間違いない。このことは言うまでもないだろう。母と父は、わたくしと、わたくしの兄や姉を連れて、野山に身を移した。 わたくしも幼いころは、まさか自分のきょうだいが、辱めによって生まれたなどと思いもしなかった。だが、それを知ってしまったとき、わたくしは、彼らを生かしておく必要など、無いと思った。 だから、食い殺した。 父も母もわたくしを叱った。それでも、ふたりは、どこか安らいだような光を、その瞳に宿していたのを覚えている。 わたくしには、その日、ひとつの目的ができた。 この星にいる、すべての生物を食らい、殺すこと。それが、わたくしなりの復讐だと思ったのだ。母を辱めた、この星に対する。 わたくしたち、マズルスの民は知っている。わたくしたちは、宇宙(せかい)の、多くの星を見てきた。いずれイアルスの民も、この惑星への帰還を願うときがくる、と。そのときのために、彼らが壊したものを、もう一度壊し、崩し、二度と帰らぬ姿に変えてやりたいのだ。 しかし、わたくしひとりの腹では足りぬ。時間も、なにもかも。 だから……』 アルフライラは、リュウの脚の間に、前脚を置いた。その瞳には、決意の炎と、怯えの雫が見て取れた。しかし彼女はやはり、王族の娘だった。誇り高き王女であった。その意志は、この地球のどのような鉱石よりも固いように思えた。 『わたくしの子にまで、孫にまで、あるいは、そのさらに先まで、この責務を引き継ぐ。 リュウ、わたくしの、しもべ。わたくしの子の、父になれ。わたくしの胎に、子の種をまけ』 めちゃくちゃじゃないか。おれは、あんたの嫌いな地球生物だぞ。それに、生物学的に無理だろ、そりゃ。 リュウの思考に対し、アルフライラは怒りをあらわにする。彼女は低く唸った。 『わたくしに、下等な地球生物の法則を当てはめるな』 ああそうかい。 『ふんっ……』 そこで、リュウはひとつ、大切なことに気がつく。 待て、大事なことに答えてない。『おれは、あんたの嫌いな、地球生物だぞ』。 リュウの意地の悪い問いに、アルフライラは恥じらう乙女のような声色で答えた。 『……お前は、別だ。お前は、わたくしを大事にしてくれた。人間は、人間以外、どうでもいいのだと思っていた。だがお前は、わたくしを、人間よりも、大切に扱ってくれた。だから、お前との子なら、産んでもいい』 リュウはもう、考えるのをやめた。脳まで凍ってしまいそうな寒さが、どこかへ吹き飛んでいた。 少ない体力を振り絞り、アルフライラに口付ける。 「……おいで、アルフライラ」 リュウは服をくつろげると、彼女を抱き寄せた。彼女は、処女(おとめ)らしいためらいと共に、その抱擁に応える。 凍えた体のなかで、そこだけが唯一熱を持っていた。いつも以上にぬくもりを孕んだアルフライラの体が、リュウの(つるぎ)の攻撃を受け、苦痛と快感に踊らされる。それはまるで、神楽のようだった。神に捧げる舞を舞う巫女のような神々しい姿は、どんなに飢えた獣であろうとも近づくことを許さない。獣たちはみな、夜の暗がりの中で、その舞踏を鑑賞していた。 白濁した種が、アルフライラの胎に植え付けられた。何度も、何度も。その度に、アルフライラは、恍惚と息を吐く。吐息が、愛を物語っていた。 リュウはもう、生きながらえることを諦めた。 この一夜で命が尽きようと構わない。それが、彼女の望みを叶えることにつながるのなら。この体液の一滴まで、おれは彼女のものだ。 アルファ。アルフライラ。リュウは彼女に呼びかける。 『なんだ』 おれが死んだら、おれを、食べてくれ。 『頭まで残さずか?』 そうだ。 『わたくしが、人頭を好まぬことを知って言っているのか?』 ああ、もちろん。まあ、他の肉も、凍ってて硬くてまずいだろうが。 リュウはふと笑った。 おれは、あんたの、あんたとおれの子の、一部になりたい。どうせ死ぬなら、最期まであんたの役に立ちたいんだ。 そう、おれは、あんたに、使い捨てられるのが望みだった。おれが死んだら、また新しい生き方を探すんだと思ってた。あんたは、おれを自動餌やり機ぐらいにしか思ってないと思ってたから。 ……でも、違うんだろう? もしあんたがおれを想ってくれてるなら、おれが死んでも、終わりじゃないはずだ。 おれを、あんたの中で、生かし続けてくれ。それがおれの、あんたに対する、唯一のわがままだ。 アルフライラは、リュウの凍結されかけた思考によって紡がれる、まとまりのない思いを、まるで手のひらで清水をすくうように、静かに聞いていた。 その瞳には、喜びと、それを塗りつぶすような悲哀の色が浮かんでいる。 ああ、このひとは、悲しんでくれるのか。おれが、いなくなることを。 リュウは思った。しかし、アルフライラは、それに答えることはない。 『……仕方あるまい。お前だけだ。わたくしが頭を残さず食べる人間は』 アルフライラは、困った子供の相手でもするように答えた。 一瞬、彼女に、表情が見えた気がした。悲しいのに、無理に笑おうとする、ヒト特有の、あの笑顔が。 リュウはそれを、錯覚か、と思う。 ありがとう、アルフライラ。リュウは、彼女の手の甲への口付けと共に、そう告げた。 『最期に、文句を言っても良いか?』 なんだ。 『お前が、昔、わたくしに、地球の雄狼を娶せようとした……あれは、なかなかにつらかった。だから、お前が、もう、今夜限りの命だというのなら』 ――わたくしに、もう一度口付けて。 リュウは、一度とは言わず、何度でも口付けた。凍り付いた指で彼女の温かい頬をなぞり、冷たい腕で、彼女を抱きしめ続けた。 目が霞んでいることにも気がつかなかった。脚の感覚がないことにも気がつかなかった。それでも、寒いと思うことは忘れていられた。心だけはこんなにも熱い。心臓だけは、燃えているのではないかと、そう錯覚しそうになった。 「愛してる。ありがとう」 それだけ、ようやく口にできた。 最期に名前を呼ぼうとしたのに、もう、冷たい唇が、動くことはなかった。抱きしめたくても、もう手が動かない。いや、抱きしめているのかもしれない。それすらも、もうわからなかった。 リュウの左目から、一すじの涙が流れた。 それを、生暖かいものが拭う。 『わたくしもだ、リュウ。お前を愛している。それを過去にはさせん。わたくしの中で、お前を生かし続けると誓う』 ぐに、と、唇がつぶれた。 目も見えない。感覚も、ほとんどない。 それでも、それが、アルフライラの口付けだとわかった。 わかった。 そう、ただ、それだけだった。 春。 イアルスの言葉において千の夜を意味する名をもつ狼は、母になった。 彼女が愛した男の血は、繋がれたのだ。 汚れた三番目の惑星、その森の奥、とある木の下には、男の骨が埋まっているという。 千の夜を意味する名をもつ王女に愛されし男の、最期の献身の証が。 終
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