思い出したくもない夏

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 久保田の話を聞いた大橋先生は、今朝の臨時職員会議で打ち合わせていた通り、校長・教頭への報告に続き、児童相談所へ通告した。一刻を争う緊急事態に、即座に警察の安全対策課の連携・介入が決定し――久保田家の寝室から、汚れたベビーベッドに放置されていた女児を救出した。栄養失調と脱水症状。あと少し発見が遅れれば、小さな命は失われていた。  昨夜、大橋先生は、久保田が絵日記に隠したメッセージに気がついた。 『風間先生、いいですか? ここ……日記の最初の一文字を繋げてみてください』 『え? えっと、毎・日・た・た・か・れ・る・た・す・け・て――これ、虐待の訴えですか?!』  大橋先生は、帰宅しかけていた教頭を引き止め、教頭は帰路についていた校長を呼び戻した。そして、一気に動き出したのだ。かけがえのない命を守るために。  久保田の父親は、観光バスの運転手だった。勤め先のバス会社は、近年伸びているインバウンド需要を見込んで、大手バス会社から独立する形で、昨年設立された。独立に際して、運転手を数名引き抜いており、久保田の父親もその中の1人だった。  設立以来、アジア地域からの観光客向けのバスツアーが好調で、業績もうなぎ上りだった。ところが、今年1月から予約のキャンセルが相次ぐ――新型コロナウィルスの感染流行が原因だった。  冬のイベントが続々と中止される中、2月半ばには日本政府が海外からの渡航・入国禁止を発表した。その頃には、会社は休業状態になっていた。そして3月。経営の先行きが見通せなくなった会社は、久保田の父親を含む運転手10人を解雇した。後に社会問題となっていく「コロナリストラ」の先駆けだった。  一家は失業保険で食いつないでいたが、再就職も決まらず、1日中家にいる父親は、将来の不安を息子にぶつけた。 『勉強しろ! 安定した仕事に就くには、もっと勉強して、いい学校に入れ!』  息子の教育にかける情熱は、いつしか歪み、与えた問題集に誤答すると手を上げるようになった。  一方の母親は、幼い妹の世話と生活苦に追い詰められ、ネグレクトになっていく。6月にパチンコ店が営業再開すると、現実逃避するかのようにのめり込んでいったそうだ。    やがて、夏休みになる。久保田に取っては、学校に逃げられない地獄のような11日間。妹を気にかけるも、父親から勉強の強要と暴力が繰り返され、何も出来ない。絵日記に書いたような家族が触れ合う思い出なんて、1つもなかった。提出物は全て父親にチェックされるから、虐待を疑われるような真実は書けなかった。彼は、懸命に考えたのだ。が助かる方法を。 『この絵日記ね、途中から妹のことが書かれなくなるでしょう? 実際、放置された妹の異変に気づいて……彼は、怖かったんでしょうね。後半、死のイメージが投影されているんですよ……』  井坂先生の心理分析的な見解は、恐らく正しいのだろう。  久保田の背中と腰には、電気コードで鞭打たれたようなミミズ腫れの痕が数多付いていた。彼は児童相談所に保護され、美羽ちゃんは医療機関に入院している。  両親は、児童虐待防止法に基づいて、加虐者治療プログラムが適用されると聞いている。刑法の傷害罪にも問われるが、恐らく執行猶予が付くだろう。  新型コロナウィルスが流行しなければ、きっとなんでもない日常、そして夏休みがやって来た筈なのに。
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