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5.キスの数ほど
「よく来たな、上がれよ」
「お邪魔します」
夏休み最初の日、午前中で部活を終えた下尾は渡瀬の家に来た。
教えてもらった住所には、明らかに富裕層が住みそうな高層マンションで、入口もオートロックだった。数字キーで部屋番号を押して、渡瀬の声で返事があるまで、住所が間違っているのではないかと怪しんでいたくらいだ。
「その、なんていうか、このマンションすごいな」
「俺の母ちゃん愛人だからな。下尾んちは一軒家?」
「ああ」
普通なら反応に困るであろう家庭の事情もさらりと言ってしまうのが、なんとも渡瀬らしい。
「それにしてもお前、その格好、あまりにもラフ過ぎないか?」
「えー、家にいる時くらいいいじゃん。夏は暑いんだよ」
迷彩柄のタンクトップに、黒い短パン姿という肌の露出があまりにも多すぎる。玄関に入ってわかったが、この部屋はクーラーの効きもいい。それほど薄着になる必要はないのではないか。
渡瀬の体は細身の割りにちゃんと筋肉がついていて、痩せすぎているという印象はない。しかし気になったのは、腕にも足にも体毛が見当たらず、体育の着替えなどで同級生の体をみた時の、何も手入れしていない男の体、とは別のものに思えた。
だ から、同じ男の体となんとなく思えなくて、布地の隙間から見えなくていいものまで、うっかり見えそうで、目のやり場に困る。男同士で、そんなことを意識する必要なんてないことは頭で理解しているのに、なぜだろう。
「下尾は私服も制服もあんまし変わんねぇな」
学校が終わり、家で着替えだけ済ませてきた。白いポロシャツに黒の綿パンという姿のせいだろうか、確かにそれほど制服と違いがない。服どころか、ファッション全般に興味がなく、今はまだ母親が買ってきたものを文句も言わずに着ている。けれどたとえ自由に選べても、迷彩柄なんて自分なら絶対にセレクトしないだろうが。
「そういえば、これ母さんが持って行けって」
「え、何これ。わ、なんかヤベェいい匂いする」
「多分唐揚げじゃないか」
マジで、と顔を輝かせた渡瀬は渡した紙袋の中に入っていたタッパーを出して、早速そのふたを開けた。同時に部屋中に香ばしくて食欲をそそる、唐揚げの匂いが充満した。
「これはやばい。お前の母ちゃん、天才だな」
「前から、今日、学校終わったら、お前の家に行くこと言ってあったから、用意してたのかもしれないな。1人で食べていいぞ」
「え、お前、昼飯は? ピザでも頼むかと思ってたけど、これでもいいな。これ、どんだけあるんだよ。一つ一つがでかいし、これ二人で食べようぜ」
「ん、わかった」
玄関で随分と長い立ち話をしてしまったが、そのまま中に案内される。きちんと片付いたリビングには、大きなサイズのテレビとその前にはベージュの皮張りのソファが鎮座していた。その上、無造作に置かれたタオルケットと、すぐ前に置いてあるガラステーブルには見慣れない書店の紙製のブックカバーがかけられた文庫が置いてあった。
「麦茶もってくるから適当に座って」
「あのカバー、どこの本屋だ?」
「ん? ああ、じいちゃんが商店街の入口のところで本屋やってて、極力、本はそこで買ってる」
「そうか」
渡瀬のいう本屋は、当然下尾も知っていが、実際に本を買ったことはなかった。どうしても品揃えも多い駅前の大型書店に行きがちだ。今度、知り合いが関わってるということなら行ってみてもいいかもしれない。本屋の孫なら、渡瀬の本好きも理解できる。
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