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最初にキスをしたのは、文芸部で下尾が後輩たちの原稿のアドバイスをしてくれた日の帰りのことだった。
そのときの渡瀬はバイト代だと笑っていた。翌日、一緒に昼飯を食べたが、渡瀬はいつも通り本の話題で盛り上がっていて、まるでキスなんてなかったかのようにキスについては触れなかった。結局、下尾からも切り出すことはなかった。あれは、渡瀬にとっては、いつもの気まぐれで、わざわざ理由を聞くほどでもないかもしれない。たった一度きりなら、まあ忘れてもいいか、とその日は終わった。
次の日も渡瀬は文芸部に顔を出してくれた。当然、渡瀬が文芸部に来るのは自分の原稿をやるためではない。引き続き、後輩へのアドバイスをするため、しいては、下尾の負担を軽くするためだ。
そして二回目のキスはすぐに訪れた。それは、部活が終わって、渡瀬と一緒の帰り道のことだった。
自転車で通っている下尾は駅まで渡瀬を送りがてら帰った。何気ない会話をしながら、駅に着き、下尾が、じゃあなと別れを告げると、待ってと渡瀬に引き止められ、再び顔が近づいた。本来なら拒否してもいいところを、下尾は、咄嗟に周囲の様子を伺い、人気のないことを見計らって、渡瀬の唇を受け入れた。最初の時のように奪われるのではなく、今度は意思をもって重ねた。
人生で二回目のキスはうまくできたのかどうかなんて、そんなことを考える余裕はなかった。ただ、ひとつだけわかっていたのは、この理由のわからない行為が、自分の行動一つで、途絶えてしまうということだ。もし拒んだら、きっとこの先、二人がキスをすることはない。
それ以来、渡瀬とのキスは続いている。でもどうして自分たちはキスをする関係なのか、わからない。ただその理由はまだ聞けていない。渡瀬に、どうして、と聞いてはいけない気がしたのだ。
そして二人にとってのキスはお別れの挨拶から、二人の距離を確かめる行為に変化してきた。二人だけになると、必ず渡瀬はキスを求めた。下尾もまたそれにできる限り応じた。時には、人がいる、と一言告げる時もあった。そんな時、渡瀬はひどく残念そうな顔をする。気づけば、誰もいない、二人になれる機会を無意識に探す自分がいた。
友達同士、ましてや男同士でキスをする意味はわからない。けれど、その答えはまだはっきりさせてはいけないということだけは理解できるのだ。
「原稿、持って来たか?」
「ああ」
下尾は持っていたリュックから、大学ノートと筆箱を取り出した。
「ノート?」
「俺はノートで下書きしてから、最後にワープロで打ってる」
「それあとから、入れ替えたりすんの、面倒じゃね? 家にワープロあるから使うか?」
「大丈夫だ。時々、ノートの切れ端を貼り付けたりしてる」
「ここでやるか? 机がいいなら俺の部屋にある」
「そうだな、もし良ければ机の方が助かる」
「わかった。こいよ」
渡瀬はリビングを出て玄関に向かう途中のドアを開けた。下尾も渡瀬の後に続いて部屋に入ると、壁一面の巨大な本棚に女を奪われた。
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