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「ゴホッ……なぁ、いつまで居るんだ?」
夏美が家に来てから、もう既に2時間は経過していた。最初の30分は部活の話をして、次の30分は、ほとんど昔話。
そして残りの1時間はただただ無言。何も話すことが無いのか、彼女は俺の勉強机で夏休みの宿題をしている。
見舞いが済んだのなら早く帰ったほうが良い、と言う意味も込めて俺は言ったのだが、夏美は気にも止めずに「お構いなく。寝てていいわよ」と言っていた。
やはり彼女には、『夏』という名前は似合わない。感情の振り幅を常人の数値で10と表したら、彼女は1だろう。笑う時も小さく、怒る時も小さい。感情が無いわけではないのだが、その振り幅が小さすぎて掴みにくい。
今も何かを考えているのだろうが、それが何なのかわからない。
俺はきっぱりと言うつもりで声を出そうとするが、彼女に先制を取られてしまった。
「うん。やっぱり、私決めたわ。風斗、少し待ってて頂戴」
彼女はいつもとほぼ変わらない表情のまま、立ち上がると部屋を後にする。
何をしているのか、それすらも想像が付かない俺は、ジッと彼女の帰りを待っていた。
20分程経過して、外の景色も相変わらず暑そうだった。アスファルトは太陽によって熱せられて、空気を歪ませる。時刻は15時を少し回った頃。夏美は汗をかきながら袋を持って帰ってきた。
近場のコンビニに行っただけでそこまで汗をかくのか、と外の熱に恐怖を覚えた。
「ただいま」
彼女は少しだけ耳を赤くして、そう言うと無言でこちらを見つめながら、床に座り込んだ。
「おかえり」
俺はそれだけ言うと、彼女の視線に気がついてそれに合わせた。
おかしい……
沈黙が続いたが、動きがないわけでは無かった。彼女はもじもじと足を少しづつ動かしながら、布の擦れる音を起こして、俺の居るベッドへと近づいていく。
それも視線を外さないで近づいてくるので、下手なホラーより怖いものがあった。少しづつ、少しづつ、夏美はその身体を近づけてきて、何分が経っただろう。
彼女は俺のすぐ横まで来ると、そこでピタッと静止した。
彼女の不可解な行動で、言葉が出なかった。何をするつもりなのだろうと。そんな疑問を俺が感じているとは知らずに、彼女は袋をガサゴソと漁り始め、一つのペットボトルを俺の目の前に出した。
もしかして、それを俺にくれるのか? お見舞いの品とかなのか? と疑っていると、彼女はキャップを開けてゴクゴクと自分で飲み出し始めた。
3分の1程飲むと夏美は口を拭って、再び袋を漁り始める。次に取り出したのはウチのバフリンで、説明文を丁寧に読んでいくと、彼女は2錠取り出し口を開いた。
「さて、風斗始めるわよ」
彼女とは10年ほどの付き合いだったが、「始めるわよ」と言われて連想できるものが何一つとしてない。逆に何を言っているんだ? という蔑むような目を向けてしまう。
「何を?」
俺は回りくどく聞かず、ド直球でその言葉の真意を問いかけた。夏美は小さく深呼吸をしてからこういった。
「口移しよ」
ん? クチウツシ?
勉学は得意ではない。そんな俺の頭には疑問符しか残らず、彼女の行動を観察することしか出来なかった。
まずクスリを俺に渡してくる。それを俺が何も抵抗しないで口の中に放り込んだ。そのままにしていると、今度は彼女がスポーツドリンクを口に少量含む。何をしているんだ? と思っていると、彼女はその水分で煌めく唇を俺の顔に近づけていった。
俺は自分の唇に夏美の唇が触れる直前、分かってしまった。口移しとはキスのことだと。
水分無しで俺はクスリを飲み込むと、彼女を押しのけようとする。俺の頬は明らかに、熱のせいではない何か熱いモノが巡っていた。
「夏美。こういうのは、好きなやつと―」
俺の声は彼女の唇で塞がれてしまった。熱というのは、本当に厄介だ。押しのけていたはずだが、簡単にそれも押し返されてしまった。
甘く少しぬるいスポーツドリンクは俺の咥内を通って、喉で支えてたクスリをちゃんと奥まで流し込んだ。
ぷはっ……と夏美の小さな息が聞こえて俺らの唇は離れていく。その際、細い透明な線が俺と彼女を繋いで切れていく。感じる甘酸っぱさは、スポーツドリンクの味付けではないと知っていた。俺は恥ずかしくなって、その線を拭いながら彼女を見た。
「なに、イヤだった?」
彼女は目を右往左往させながら俺に視線を合わすまいとする。そしてその耳の色は、先ほど見たときより赤が大きい。
「ゴホッゴホッ。いやじゃない……あ、お、お前は好きなやつにしなくて良いのかよ!」
「い! 今のがコタエヨ!」
夏美はついに頬まで真っ赤にさせて、睨むように俺を見ながらそういった。その口調は、カタコトが入り混じってロボットのようにも聞こえてしまう。
「ああ! もう! 貴方がもっと弱ってると思って狙ってきたのに! 口移しなんて初めてでやり方合ってるか分からないから不安だったのに!」
初めて聞く彼女の怒鳴り声。初めて見る彼女の感情的な姿。10年程一緒に居たのに、初めて会うような爽やかで、鮮やかな風を俺の心の中に吹かせた。
「ありがと」
俺はなんと言えば良いのかわからないし、そもそも告白されたのかも分からないので、感謝しか言えなかった。
その後彼女は、その紅い頬のまま俺の部屋から出ていった。
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2日後には熱も下がって、俺は部活に顔を出すことが出来た。
「おら! セッターは一番考えて一番動くポジションだぞ! そんなノロノロ走ってたらボールに置いてかれるぞ!」
俺は部活に参加して汗を流していた。監督は生き生きと俺に地獄を見せてくる。それに耐えながら俺は笑顔を見せていた。
「もう一本!」
ふと、俺は視線を夏美に向けると、甘酸っぱいあの味を思い出してしまって、視線がそれてしまう。
「ほら! ちゃんとボール見やがれ!!」
そんな俺を楽しそうに叱りながら、監督は何度も何度もボールを投げていく。
この厳しさは俺への期待が籠もっていると実感しながら、俺はボールに向かって走っていった。
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練習も終わり、汗を拭いながら外を見ると既に日も落ちて暗い。
部活のメンバーがそれぞれ帰り、最後に残ったのは夏美と俺だけだった。
この前のこともあって少し気まずいし、心の中で風が吹いていて騒がしく、身体が熱い。
だからこそ俺は彼女に声をかけた。
「一緒に帰ろうぜ」
彼女は無言で頷いて、俺の手を掴んでくる。そのしおらしさが、再び俺の心を躍動させ、汗を噴き出させた。
どうやら俺のナツカゼはまだ止んでないらしい。
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