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分かってない その3-3
玄関のドアが音を鳴らしたのは、十一時を過ぎた頃だった。集中できなかったマンガはとっくに本棚に返して、もう寝ててもいい時間だったけど今度は見るともなしにお笑い番組を見てた。
「おかえりー」
「ただいま、まだ起きてたのか」
「テレビ見てた」
リビングに入って来た背広姿に内心きゅんとしてるのは秘密で。
私は普通を意識して声を出す。
「これ、土産」
そう言うパパの手には、何やら袋。受け取って中を覗けば白い箱ーーーーケーキだ。
「タルト、明日までいけるらしいから」
「やったー」
美味しそう、と思って、お土産がうれしくて心が弾んだ。
でも。
「何か、最近人気のとこなんだと」
続いた言葉に、一転心は萎む。
誰かの気配を感じさせる発言だった。
人気のケーキ店なんて、パパの引き出しにはないはず。その情報は、誰からもらったの。
雨木はるか、という名前がまた頭を過って、胸を滅茶苦茶に掻き回す。
会ってたかどうかなんて分からない。証拠なんてない。ただの私の妄想だ。
でもこういう時、残念ながら女の勘は残酷なくらい当たる。
ふと脱がれた背広から漂ってきた匂いに、心がまた反応した。
「……甘い匂いがする」
「タルトが?」
「違う」
背広から、ふわりと香る匂い。そんなにキツくはない。でも明らかに女物と分かる甘く柔らかい匂い。
「香凛?」
匂いなんてどこでもつく。電車で隣になった人の香水がキツかったとかでも、背広に移るだろう。
「そういえばお前、もうすぐ誕生日だろ。そろそろ欲しいもの考えとけよ」
一瞬不思議そうな顔をしながらも、パパは話題を変えた。
あと半月しない内に、そう、私の誕生日が来る。
二十一の、誕生日。
「…………もう二十歳超えたよ。子どもじゃないからいいよ」
言ったら、パパは軽く笑って返してきた。
「何言ってんだ。十九も二十も二十一も大差ない。それに家族だろーが」
痛い。
パパにとっては十九も二十も関係ない。そもそもいくつになろうが関係ない。私はずっとこのポジションから抜け出せない。
例え首筋から甘い香りを漂わすようになったって、私は子どもだ。そういう対象にはならない。
痛くて、悔しい。好きって気持ちを持っちゃった自分が恨めしい。
「何でもいいはやめてくれよ。今時の女の子が欲しがるものなんててんで分からん」
女の子。
私は"女性"にはなれない。レディにはなれない。
いつもは抑え込める気持ちが、今夜に限っては吹き零れてしまいそうだった。
「香凛はあんま物欲しがんないだろ、二言目にはなくても大丈夫っつーだろ」
「そんなことないよ」
私には欲しいものがある。もうずっとずっと欲しくて欲しくて堪らないものが。
口に出さないだけだ。お腹の内は欲望でどろどろしてる。
パパはそれを知らないだけ。
「あるよ、精々アイス買うならハーベンにして~とかその程度しか言わん」
優しい笑顔が辛い。保護者の顔しか見せないパパが憎い。ほのぼのした空気しか流れない現実が、とても大事なものなはずなのに、壊してしまいたくて仕方がない。
「誕生日」
「うん」
「欲しいのある」
やめておけ、と頭の中で警鐘は鳴り響いていた。
そうだ、やめておくべきだ。
いつかは、ここを出て行くまでには言ってしまうつもりだったけど、でもそれが今じゃないってことははっきり分かってる。
でも。頭っていうのは、心をきちん躾られない。鎖に繋いで厳重に管理することなんてできない。
私の唇から、遂にその言葉は滑り落ちてしまった。
「パパが欲しい」
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