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分かってない その2-5
開いてしまったメールの差出人は、見たこともない女の人の名前だった。
雨木はるかなんて名前、聞いたことない。知らない。
心臓が、ぼこりと嫌な音を立てて大きく拍動した。
見ちゃ駄目。プライバシーに関わるから、ダメ。
でも既に視界にいくつかの単語が飛び込んできてしまっていた。
“お休みの日に急に済みません”
“ご相談したいことが”
“近く、どこかでお時間”
これは、ダメだ。
「――――――――パパ」
あ、良かった。
思ったより普通に声が出た。心臓はまだおかしなリズムを刻んでて、油断すると声は上擦りそうだったけど、でも大丈夫。
「またメール。女の人から」
「あん?」
キッチンとダイニングの境目、カウンター部分にスマホを置く。
「ごめん、広平君かと思って、勢いでメール開けちゃった。でもほとんど見てないから」
「ん」
液晶画面を覗き込んで、数秒でまたザルに揚げたうどんに視線を戻す。土曜のお昼。私とパパのお昼ごはん。
「会社の部下からだ」
何てことなさそうに簡潔にそう言った。
「? 会社の部下なら会社の携帯に連絡来るんじゃ?」
不思議に思って訊いてしまう。
「個人の携帯にも来るもんだよ。社員全員が支給されてる訳じゃないし、仕事内容によっては退社時はデスクに残して帰るしな。例えば訃報とか、台風情報とか、そういうのは係の人間から個人携帯に連絡が来る。連絡網とかあるんだぞ」
「連絡網」
それを聞いて、自分が小学生の頃とかそう言えばそんなものあったなと思い出した。大人になってもそういうのあるんだ。
「それにまぁ、私用メールだしな。会社の携帯使う方が不適切だろうよ」
「私用メールなんだ」
「たまーに来る」
「休日まで大変だね?」
言いながら、食器棚から出したどんぶり鉢を手渡す。
「あ、具材にはたまごも所望します」
「オレもそうしよう」
話は、そこで切り上げる形になった。これ以上何を詮索するものでも追及するものでもない。
でも、見えてしまったあの画面。
あれは多分、何か仕事のことで悩み事があるから相談に乗って欲しい、できればごはんでも食べながら、みたいな内容だった。
本当に、純粋に仕事の相談だろうか。
そんな考えが過ってしまう。
相談を口実にした、アプローチなんじゃなかろうか。
雨木はるかさんがどんな人なのかは知らない。いくつなのか、どういう業務を担当してるのか、どんな性格なのか。
でも異性の上司、それもそれほど年が離れていないだろう――――つまり射程圏内だろう相手に、個人的にごはんに誘った上で相談って、普通にあるもの?
…………あるのかもしれない。私はまだ社会に出てないし、会社によって風土は違うだろうし、別に普通のことなのかも。
それに、私が口出しすることじゃない。そんな権利ない。
誰がパパを好きになっても自由だし、それに私はもう成人した。子どもじゃない。大学卒業まではって話だけど、それもパパが一方的に決めて言ってるだけだし、邪魔になるようならもう出て行ける。
でも、胸が痛い。不安と焦りがわーわー声を上げて騒ぎ出す。
「どうした?」
何か顔に出てしまっていただろうか。何を悟られる訳にもいかないから、笑顔で取り繕う。
「ううん、たまごは上手に半熟にしてね」
「……善処する」
私の関知できない範囲のことをあれこれ考えても仕方がない。だから意識を無理矢理引き剥がす。
よし、お昼のおうどんのことにだけ集中しよう。
おかしいって言われるかもしれない。
普通の感覚じゃないよって。だって血が繋がってなくても、パパって思って接してきた人だよねって。
でも、私はパパのことが好きなのだ。
パパって呼んでる、この人のことが好きなのだ。
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