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あの日訪れたはずの古書店の店主にお礼を言うために、わたしは住所や店名を書き留めたメモ用紙を探したが、捨ててしまったのか見当たらない。諦めて記憶を頼りに行こうとすると、とたんに道がわからなくなった。アスファルトの道路の先に見えた逃げ水も、心臓破りの坂も、枝垂れ柳の木陰もすべて憶えているのに、そこまでたどり着けない。奇妙なこともあるものだった。わたしはいつか必ず、あの店主と再会してみせる。絶対、ひと夏の思い出になんか、してやらない。そう決めた。
今日は海に行く日だった。父に捧げる分と、もうひとつ。二つの花束を抱えて波打ち際を歩く。
夏の海は、弾けるくらい青い。でも秋が近づいてくると、少しずつ、青が深みを増すような気がする。夏の終わりを、父の死を悼むように。
父は夏の海も、秋の海も好きだった。だからわたしも、夏の海にばかり囚われていた自分とオサラバするのだ。
「そーれ!」
沖まで届くように遠くに狙いを定めて、花束を投げる。足元が砂浜なので体勢を保つのが難しい。うっかり転んで波に洗われないように注意して、まず、父の分。そしてわたしの分。
あえて色とりどりの花を組み合わせた花束は、海の青に呑まれて沈んでいく。そうやっていろんなものを呑み込んで、より深みを増した青、秋の海の色になっていく。
潮騒はもう聞こえない。
もうすぐ、海が目立つ夏が、終わる。
Fin.
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