夏よ共に逝け

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「痛ましい事故か何かがあったんです。その海で。そして語り手は、夏が来るたびにそのことを思い出す。そんなラストでした」 「そこまで鮮明に憶えているのに、タイトルと作者は思い出せないと」  シーリングファンが吹き抜けの天井でくるくると回っている。  カフェーの客はわたしのほかにだれもいない。マスターの正面のカウンター席を陣取り、おしぼりと水にも手をつけず、わたしは堰を切ったように話した。厭な顔ひとつ見せず聞き入ってくれたマスターは、わたしの話がひと息ついた隙を見計らって「特別だよ」とメニュウに載っていない自家製レモネードを出してくれた。  脇に避けておいた水の注がれたグラスで融けかけの氷がからんと鳴る。 「それで、どうして今になってその小説をお探しに?」  マスターは洗い上げたあとのコーヒーミルを拭きながら、さらに話の続きを促した。わたしが話し足りないことを、よくわかっている。どんなくだらない話にでも耳を傾けてくれる場所だと聞いて、この店を訪れたのは正解だった。 「……ずいぶん昔に読んだのです。ずっと忘れていたのに、この数年、夏を迎えてはふとその一文を思い出して。思い当たる節は全部探したのに、わからないままなんです」  少し迷って、水のほうに手を伸ばす。グラスの表面で結露した水滴が指先を濡らす。持ち上げたあとのテーブルにはグラスの底の形に水たまりができていた。
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