夏よ共に逝け

7/10

85人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
 店主は口調をがらりと変えた。愛想も遠慮もなくなって、乱暴な言葉遣いがわたしに突き刺さる。 「そりゃあ、あんたが言うような筋の話はこの世にごまんとあろうさ。探せばよく似たモンは見つかるかもしれん。だが、あんたが欲しいのは話の筋じゃない。文章だ。あんたを虜にしたように、人を虜にするたったの一文を、求めているんじゃないのかい」  わたしは反論しようとして、何も言えなかった。わたしが探していたものは、あの一文で締めくくられた小説だったのか、それとも同じくらい心揺さぶられる文章なのか、人を魅了する文章をみずから生み出す文章力なのか、わからなくなってしまった。 「あんたが欲しい文章は、あんたのここにしかない」  店主が拳をつくって自分の胸を叩く。わたしも真似をして、自分の胸に手を当てた。瞼を閉じれば、今も眼裏に浮かぶ。海の青。潮騒の音。  もうすぐ、海が目立つ夏が来る。シンプルで、だからこそ美しい文章で締めくくるに相応しい小説を、書けるだろうか。このわたしが。  でも、書きたいと思ってしまったのだ。そう認めたら、気持ちが楽になった。 「さあ、もうお家に帰んなさい。もう二度と、こっち側に来ちゃいけないよ」  優しく頭を撫でられた感触は、父の手を思い出させた。ごつごつしていて、わたしの手を包み込んでしまうくらい大きくて、いつも潮の匂いがしていた。  ようやくわたしは気がついた。ぼさぼさの髪を整え丸眼鏡を外した古書店の店主を想像すれば、五年前に海に呑まれた父とそっくり同じ顔をしていた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

85人が本棚に入れています
本棚に追加