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シーリングファンがくるくる回っている。
マスターが挽きたての豆で淹れてくれたブレンドコーヒーを飲みながら、わたしは父の話をした。
「漁師をしていました。……あ、海のほうです。五年前に、荒れた海のなかひとりで船を出して、そのまま帰らぬ人になりました。わたしが読んだつもりになっていた小説の一文を探し求めるようになったのは、たぶん、そのころからです」
マスターは口を挟まない。黙ってコーヒーミルを洗いながら、ときおりうなずいて、わたしの話したい欲求がおさまるまでただ聞いているだけだ。
「『もうすぐ、海が目立つ夏が来る』よくよく考えたら、なんてことない一文なんですよね。どうしてわたしは、この一文を後生大事に思っていたんだろうって。でもそれは、父のことがあったからだと思うんです。結局、その一文で終わる小説は存在するのかもしれないし、わたしが勝手につくりあげた幻想かもしれない。話の筋はちがうけれど、その一文はたしかにあるのかもしれないし、反対に筋は合っていてもその一文で終わっていないかもしれない。でも、いいんです。わたしは、その話の筋とセットだったから、その一文をとても綺麗なものだと思えたから」
父が海でいのちを落とした。でも、父が生きていた昨日と父がいない今日で、海は変わらず青くて、潮騒の音がしていた。そんな光景を、五年前のわたしは目に涙を溜めて眺めていた。
父の死は悲しかったけれど、それもすべてわたしの財産だ。
ブレンドコーヒーのカップを空にして、暑さのあまり来店直後に飲み干してしまった水のグラスと並べ、わたしは伝票を手に取った。
「お勘定お願いします」
ブレンドコーヒーは五百円だった。会計を済ませて、マスターが今日初めて口を開く。
「そういえば、新作、そろそろ発売ですよね」
わたしは笑ってうなずいた。今回は自信作なのだ。
「はい、タイトルは――」
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