夏よ共に逝け

9/10

85人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
 シーリングファンがくるくる回っている。  マスターが挽きたての豆で淹れてくれたブレンドコーヒーを飲みながら、わたしは父の話をした。 「漁師をしていました。……あ、海のほうです。五年前に、荒れた海のなかひとりで船を出して、そのまま帰らぬ人になりました。わたしが読んだつもり(ヽヽヽ)になっていた小説の一文を探し求めるようになったのは、たぶん、そのころからです」  マスターは口を挟まない。黙ってコーヒーミルを洗いながら、ときおりうなずいて、わたしの話したい欲求がおさまるまでただ聞いているだけだ。 「『もうすぐ、海が目立つ夏が来る』よくよく考えたら、なんてことない一文なんですよね。どうしてわたしは、この一文を後生大事に思っていたんだろうって。でもそれは、父のことがあったからだと思うんです。結局、その一文で終わる小説は存在するのかもしれないし、わたしが勝手につくりあげた幻想かもしれない。話の筋はちがうけれど、その一文はたしかにあるのかもしれないし、反対に筋は合っていてもその一文で終わっていないかもしれない。でも、いいんです。わたしは、その話の筋とセットだったから、その一文をとても綺麗なものだと思えたから」  父が海でいのちを落とした。でも、父が生きていた昨日と父がいない今日で、海は変わらず青くて、潮騒の音がしていた。そんな光景を、五年前のわたしは目に涙を溜めて眺めていた。  父の死は悲しかったけれど、それもすべてわたしの財産だ。  ブレンドコーヒーのカップを空にして、暑さのあまり来店直後に飲み干してしまった水のグラスと並べ、わたしは伝票を手に取った。 「お勘定お願いします」  ブレンドコーヒーは五百円だった。会計を済ませて、マスターが今日初めて口を開く。 「そういえば、新作、そろそろ発売ですよね」  わたしは笑ってうなずいた。今回は自信作なのだ。 「はい、タイトルは――」
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

85人が本棚に入れています
本棚に追加