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ご自宅でできる簡単なお仕事です。
ため息混じりに何度もそう復唱しながら、男は震える指でインターフォンを押した。
「はぁい、どなた」
女性の声が建て付けの悪そうなドア越しに聞こえてくる。
「あ、あの、わたくし、先日電話でお話させて頂いた清掃局の方から来たサービス・スタッフのものですが」
男がこの仕事に就いて半年。未だ慣れることのない第一声の瞬間だ。
みんみんと茹だるような蝉時雨。焼け付くような陽射しがひりひりと首筋を刺す。薄手の青い作業服の背中に汗がじっとり染み渡るのは、きっと暑さのせいだけではないのだろう。
「んまぁ、例のお掃除屋さんね」
軋んだ音と共にドアが開く。そこには初老の女性の姿が。あざみ色をした薄手の部屋着。パーマがかった白髪。30度ばかり曲がった腰。鼈甲柄の老眼鏡の奥には少し重そうなまぶたでしょばしょばと瞬きをしている。
「おやまあ、お若いおにいさんだこと」
と言われて、まんざらでもない様子の男。おもわず照れ笑い。しかし40過ぎの男を掴まえておにいさんはないだろうと、一人突っ込み。
男はホッと胸をなでおろした。重黒いショルダーバッグが肩に食い込む。よし、今日こそは契約が取れるかもしれない。
「では奥様、失礼させて頂きます」
どんなヨボヨボばあさんでも女性客はすべて奥様。営業所長にそう厳しく教育されている。
「あらやだ奥様だなんて。主人には7年前に先立たれましてね。今は寂しい独り身なのよ。おばあちゃんでいいわよ」
「い、いえ。そういうわけにはいきません奥様」
「それにしても最近のお掃除屋さんって親切なのねぇ。最新の機械とやらでタダで台所の油汚れをピカピカにしてくれるっていうんだから。無料サービスの特別キャンペーンに当選しただなんて、ほんと幸せ」
「ええ、奥様は本当についていらっしゃいます」
「でもおかしいわねぇ。そんなキャンペーンなんて応募した覚えないんだけど」
「コ、コホン。そ、それは」
思わぬ切り替えしに狼狽する男。機転も効かない。
「嫌だわぁ、最近すっかり忘れっぽくなっちゃって」
こつんと自分の頭を軽く叩く老婆。
「まあいいわ。だってあなた、清掃局の方から来たんですものね。だったら安心だわ」
罪悪感がチクリと胸を刺す。
「じゃあ上がってちょうだい。散らかってて恥ずかしいんだけど」
靴を脱ぎ、差し出されたスリッパを履く男。むわんとした重苦しい熱気が部屋中に立ち込めている。
「暑いでしょ。実はエアコン壊れててね。年金暮らしだから、修理するお金がないの。ごめんなさいね」
「いえいえ、お気を使って頂かなくて結構です」
老婆に掌を向け、大げさに両手を振る男。おもわず苦笑い。
「奥様、さっそく始めさせて頂きます。えっと、お台所は?」
「おやおや。見ての通りここですよ」
自分の足元を指差す老婆。玄関と一体化している台所だ。
「そ、そうですよね。すみません奥様っ」
「いいのよ気にしないで。こちらこそごめんなさいね、狭くて汚いところで」
障子の向こうはおそらく一間。典型的な単身者向けの古い木造アパートだ。
踏むたびにミシリと鳴る床板。薄汚れた小型の冷蔵庫に、立て付けの悪そうな古い食器棚。その奥には油汚れのネットリ染み付いたベタベタのガスコンロが。そんな中で高額そうな据え置き式の浄水器が、流しの横にデンと鎮座しているのが一際目立つ。
ははぁ、人のよさそうなおばあさんのことだ。おおかた自分と同業者の口車に踊らされて、法外な高額ローンを組まされたのだろうと察する男。
よし、今日はついてると心の中でほくそえんだ。
重黒いショルダーバッグを床の上に置く男。ジッパーを明け、中から機材を取り出す。
「これが、わが社自慢の最新機械『ヨゴレトレイル』です」
どうやらスチーム式のクリーナーのようだ。ホームセンターに行けば税別2980円で売っていそうな代物である。
「んまぁ、モダンな名前だこと」
「実は、NASAで極秘開発された最新式のクリーナーなんです」
「おやまあ、NASAですって。すごいわぁ」
「ええ、スペースシャトルの中の台所の、しつこい油汚れもこれでスッキリ」
営業マニュアルに書かれていたつかみの台詞を棒読みしながらヨゴレトレイルを手際よくセット――とはお世辞にもいえない不器用な手付き。契約へと逸る気持ちからか、何時も以上にぎこちない。
震える指先、ぽたぽたと床板に流れ落ちる汗。作業服の袖を捲り上げた腕で無造作に額をぬぐいながら、男は清掃作業に取り掛かった。
「んまぁ、すごいわぁ。ホントにピカピカになったわねえ」
「お気に召して頂けてなによりです。通販とかで購入すると20万円以上する高級品ですよ」
「あらまあ、お高いのねぇ。そりゃそうよね、NASAさんの舶来品ですもの。やっぱり年金暮らしのおばあちゃんには高嶺の花だわねぇ」
「それがですね奥様、実はここだけの話。この度、特別キャンペーンとして、この『ヨゴレトレイル』を半額以下でご提供できる耳寄りな情報があるのですが」
「まあ、半額以下で。それでそれで、その内容は?」
「奥様には、クリーン・スタッフとしてわが社に入会して頂きます」
「クリーン・スタッフぅ? なんだかハイカラで清潔そうな名前だねえ」
ここからが勝負と言わんばかりに、男は身を引き締めた。
「ええ、ご自宅でできる簡単なお仕事です」
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