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「い、いや、わたくしどもは別に、あの、その……」
「隠さなくっていいのよ。なんの事情があったかは知らないけれど、何時からこのお仕事を?」
「は、半年程前から……」
「以前は?」
「ちいさな建築資材メーカーの工場で在庫管理の仕事をしていたんですけど」
「けど?」
「実は、昨年リストラにあいまして」
「それはそれは。再就職、大変だったでしょう?」
「ええ、この年齢になると本当に厳しいんです。運転免許以外に資格も手に職もないし。どこへいっても書類選考で落とされて。で、半年かけてやっと見つけたのが今の仕事なんです」
「そうなの。それでお仕事は順調なの?」
「それが、お恥ずかしながら、まだ一件も契約が」
「おやまあ、それじゃあ食べていけないでしょうに」
「ええ、基本給がとても安くて。契約がたくさん取れれば、月収50万も夢じゃないって求人雑誌には大きく書かれていたのですが」
「まあ、すごいわあ」
「でも、現実は甘くないですね。営業所長に何時もどやされています。先日も『今月契約が取れなかったらクビだ!』と言い渡されまして」
「あらまあ、それは大変。で、ご自宅は?」
「ええ、家内のご両親の土地を頂きまして。そこに新築した住宅ローンがあと32年も」
「んまあ、それでご家族は?」
「はい、家内と小学生の息子が2人。今朝も『今度クビになったら離婚よ!』と言い渡されまして」
「おやおや。でも、それって愛情の裏返しだから気にしちゃだめよ」
「そうですかねぇ」
「女ってそういうものなのよ。でも、お子さんたちはきっとあなたに似て、とても真面目で優しくて可愛いんでしょうね」
「いえいえ、わんぱく盛りで困ってます」
そういいながらも、まんざらでもない様子の男。おもわず顔がほころぶ。
「あなた、まだ若いんだから。食べ盛りのお子さんたちの為にも、がんばらないと」
男に向かって、ちいさくガッツポーズをする老婆。
「はい。あ、ありがとうございます奥様」
老婆のやさしい励ましに、ツンと熱いものがこみ上げてくる。
「実は、私にもあなたと同じ年ぐらいのひとり息子がいてねえ。とてもやさしい子なんだけど、最近は仕事が忙しいとか奥さんがどうやらで、まるで寄り付きやしないの」
「そうだったんですか」
「ほんっと寂しものよ。母ひとり子ひとり、たった2人の家族だというのに。だから、あなたを最初に見たとき、なんだか息子が帰ってきたような気がして。騙されてると分かってて、ついついお話を伺っちゃったの。こんなおばあちゃんの話し相手になってくれて本当にありがとうね」
「お、奥様」
「慣れない仕事で本当に辛かったわね。けど大丈夫。あなたはとても家族想いのがんばり屋さん。いつか幸せになれる日がきっとくるわ」
男の中で何かがこぼれ落ちた。
「ごっ、ごめんなさい。ご年配の方を騙して年金をむしり取る悪徳商法と分かっていながら、こんな仕事に手を染めてしまって。本当にごめんなさい、奥様っ」
「だから、おばあちゃんでいいわよ」
「い、いえ。そういうわけにはいきません奥様」
台所はサウナのような蒸し暑さ。そんな中、油汚れと汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにする男。日焼けした首筋に汗がねっとり絡みつき、ひりひりと沁み渡る。暑い、暑すぎる。もう限界だ、耐えられないと言わんばかりに、苦悩の表情を老婆に向ける。
「あらやだ、私ったらお客様に何もお出ししてなかったわ。ちょっと待ってて」
薄汚れた小型の冷蔵庫に向かって、ゆっくりと歩き出す老婆。その中から、500mLのペットボトルを取り出した。
「ボケが始まってるのかしら。ほんと嫌ぁねえ歳を取るって。気が効かなくってごめんなさいね。さあ、これをどうぞ」
無印のパッケージの中には無色透明の液体。水だ。
「あ、ありがとうございます。実はさっきから喉がカラカラで」
むしり取るようにキャップをひねり、ぐびぐびと一気に飲み干す。その瞬間、全身が幸福の渦に包まれた。
「うまいっ!」
「んまあ、お気に召してくれて嬉しいわぁ」
「本当においしいですねぇ、このお水」
「でしょ。そのお水、1本で300円もするのよ」
「えっ! そんな貴重なものを頂いちゃって、本当によかったんですか?」
「いいのよ。だってあなた、とてもいい人だから。これぐらい安いものよ」
やさしく微笑む老婆。老眼鏡の重いまぶたの細い目が更に細くなる。
「実はね、これは『幸福の水』っていうの。これを飲んだら、過去のどんな苦労も報われて、誰もが幸せになれるんですって」
「へー、そうなんですか」
「このお水に出会ってからというもの、毎日のように幸福がこの家に転がり込んでくるようになったの」
「それって本当の話なんですか?」
「ええ、嘘じゃないわ本当よ。くどいようだけど、毎日のように幸福がこの家に転がり込んでくるの。だから心に余裕ができて、他人にもやさしくなれるようになったのよ」
そうか。だからこのおばあさん、こんなにいい人なんだと納得の表情を浮かべる男。
「健康と幸福のためには一日に2Lのお水を飲むのがいいんですって。だから私、毎日4本飲んでるの」
「なるほど。でも、1本300円はちょっと……」
300×4で1日1200円ということは、ひと月3万6千円。と、すばやく暗算する男。在庫管理をやってただけに、実は数字には少々うるさい。
「たしかに魅力的ですけど、ひと月3万6千円はちょっと……」
お得な2Lボトルとかないのだろうかと、内心期待しながら問いかける。
「んまあ、暗算が早いのね。賢いわぁ」
「いやいや、それほどでも」
「ほんと、いいものと分かっていながら年金暮らしの私にはとてもキツいわぁ。でもね、ここだけの話し」
皺々の人差し指を立て、シーッと口元にあてる老婆。そしてゆっくりと、コンロの横に鎮座した例の高価そうな浄水器を指差した。
「この機械は『幸福の泉』といってね、これを使うと、たったの月々1万8千円で、『幸福の水』が飲み放題になるの」
「えっ、半額でしかも飲み放題。それは安い」
「しかもうれしい事に、終身契約が条件なの。幸福を一生涯保証されたのと同然ね」
「なんと保証は一生涯!」
「そう、32年後の家のローンが終わっても、あなたの幸福は一生続くの。素敵なお話でしょ」
「はい、奥様」
「月々たったのこれだけで、死ぬまで安心して『幸福の水』が飲めるなんて、ほんと夢のようだわ」
「たしかに。お得な2Lボトルどころの騒ぎじゃないですね」
「さあ、『幸福の水』単品買いと『幸福の泉』のどちらがお徳? 在庫管理なんて難しい仕事をこなしていた賢いあなたなら、ちょっと考えればすぐ答えは出る筈よ」
「考えるまでもないですよ。500mLボトル1本300円の『幸福の水』が『幸福の泉』によって半額になるのだから1本150円。コンビニのミネラルウォーターが1本120円前後と考えれば充分常識的な金額ですね」
「旦那様想いの素敵な奥様や、かわいいぼうやたち。一度ぜひお目にかかってみたいわぁ」
「あ、そうですね。しかも、飲み放題ということは、毎日4本分2Lの分量をひとりで飲んでも家族全員で飲んでも値段は同じ。ウチは4人家族だから150÷4で1本37.5円」
「土地を提供してくださった奥様のご両親はわたしと同年代かしら? いつまでも元気で長生きして頂かないと」
「あ、そうですよね。近所に住む家内の両親にもこの幸福を分け与えれば、150÷6でなんと1本25円! コンビニのミネラルウォーターの約1/5の値段。安い、安すぎる。なんて良心的な価格なんだ」
「まあ、すごいわぁ。こんなにスラスラと暗算ができるなんて。それに、ちゃんとご家族のことも考えられて。本当に優しくて賢くて思いやりがある人だこと」
「いえいえ、それほどでも」
まんざらでもない様子の男。おもわず顔がほころぶ。
「そうだわ、あなたにもこの幸福をおすそ分けしてあげる」
満面の笑みを浮かべる老婆。
「えっ、本当にいいんですか」
爛々と目を輝かせる男。
「もちろんよ。だってあなた、とてもいい人なんだもの」
「ありがとう奥さ、いや、おばあちゃんっ!」
「うふふ、やっとおばあちゃんって呼んでくれたわね。ちょっとまってて」
立て付けの悪そうな古い食器棚の引き出しから、一枚の紙切れを抜き出す。
「んまあ! ほら、ちょっとここ見てごらんなさいな。今なら更に月々たったの1万5千円ですって。しかも契約期間は一生涯。こんなチャンスは二度とないわ。あなた本当についてるわぁ」
契約書にでかでかと印刷された『キャンペーン価格』の文字を指差しながら、契約書とペンを男に手渡した。
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