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引っ越しました
時は平成。
姉の住む社員寮に遊びに行った時のお話です。
そこは中心街に近い便利な立地だったため、私はよく泊まりに行っていました。
その日姉は仕事のため、一人で留守番をしていると若い女性が訪ねて来ました。
「隣の部屋のA田です。引っ越し作業でご迷惑おかけしました」
A田さんは洗剤を差し出しながら言いました。
そういえば朝からトラックの音や人が出入りする気配がしていたな、と思いました。
「あいにく姉は不在で……伝えておきます」と答え、洗剤を預りました。
さて、この日姉は残業になったようでした。
帰宅後食事に行く約束だったのですが、予定時刻を大幅に過ぎています。
ようやくメール着信があり『ごめん!先に何か食べといて』と一言だけ書いてありました。
そこで道向かいのコンビニへ行くことにしました。
真夏日だったので、冷たい麺とアイスクリームでも買ってこようと思ったのです。
二人分の買い物を終えて、さあ帰ろうと社員寮のエントランスまで来た時です。
目の前にトレンチコートを着こんだ男性がやって来て、先に寮に入って行きました。
ああ、やはり今頃仕事を終えて帰宅する人もいるんだなあ……と思いました。
男性は姉の部屋の隣で止まりました。つまりA田さんの部屋です。
そのまま鍵を出す事もなく、ひょいとドアを開けて入っていきました。
A田さん、ご夫婦で入居されたのかな。それとも彼氏かな?
そう思いながら私も部屋に入りました。
やがて帰宅した姉に、A田さんの件を伝えました。挨拶に来られたこと、そして先程男性も帰ってきたこと。
「ぽん子、ここは女性専用の独身寮だよ。
お隣のA田さんは、結婚するから寮を出るって聞いてたんだけど……
入居じゃなくて、退去の挨拶に来てくれたんじゃないの?
第一、この真夏のくそ暑い日にトレンチコートはないんじゃない?」
A田さんの部屋を覗くと真っ暗で何もない空き部屋でした。人の気配などありません。
こっそりドアノブを回してみると、もちろん鍵はしっかり掛かっていました。
(『引っ越しました』・END)
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