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 柄本医院を出た浅野は、紹介された総合病院に向かう前に永瀬モーターに連絡をした。脳に異常や外傷は見られなかったものの、念の為に総合病院を紹介されたことを説明する。それを聞いた永瀬は、少しだけ訝しんでいた。が、おそらく三矢巧は浅野の個人的な知り合いだ。永瀬モーターに直接関わりはないだろうし、仕事にはなんの不都合もないはずだと浅野は予想している。よほどのことがなければ、伏せているつもりだった。  後輩達が不安や罪悪感を煽られないよう永瀬には心配ないことを念押しし、浅野は総合病院へ向かった。自然とできている運転、今日整備した車、昨日の仕事、自分の生活を省みた時、不安に感じるものは一切ない。忘れているのはおそらく、三矢巧のことだけだった。浅野はゆっくりと息を吐きながら、未だに不可解な違和感と戦っているようだと感じる。忘れているということはすなわち、今の浅野はその人間を知らないということだ。知らないということは、そもそも居ないのと同じ。  じゃあ忘れたってなに? ってこと。これが忘却の贖罪のための行動に思えて仕方がない。忘れたことさえ知らないのだから。  総合病院に着くと、やはりしばらく待った。半分眠りかけた所で名前を呼ばれる。病院から出たのは、それから二時間後のことだった。もう午後二時を回っていた。車に乗り、携帯電話を確認する。一件メールが届いていた。  三矢巧の名前が映っている。開いたメールには、返信ができなかった。  病院では、診察から始まりMRI検査、最後にまた診察をした。二宮という柄本院長の教え子の医師は、とても丁寧に浅野を診た。詳細に話を聞き、撮ったMRI写真もじっくりと見た。  柄本先生は元気ですか? から始まり、はいとても、と浅野は答える。彼はにこりと笑い、息を吸った。 「結論だけを言うと、脳に異常は全くありません。日常生活にも支障はないし、この先も心配要りません。ただ、特定の人物を忘れてる? えーっと、友達かな? ああ分かんない。そうですよね。うーん、これはね、時々見られる症状なんです。頭を打った衝撃で一時的にね、でも一時的にとはいえ、その一時的がいつまで続くかっていうのは断言出来ないんですよ。思い出すのが明日かもしれないし、一週間後かもしれない。もしかしたら一ヶ月か一年か、それも分からない。でもね、ふとしたきっかけで思い出すことが多いんですよ。本当にふとした瞬間に。もしかしたら、とても大切な人なのかな? 柄本先生から名前は聞いてないから誰かは分からないけど、もしかしたらね、そうなのかもしれませんね。この人を忘れたら自分はどうなるんだろう相手はどう思うんだろうっていう人間の深層心理っていうのかな。それがあったのかもしれませんね。え? びっくりした? はは、そうだよね、こういうことをね、すぐ言っちゃうんですよ。おかしいでしょう。まあとにかく浅野さん、大丈夫ですよ。心配しないでください。本当に大切なことなら、必ず思い出しますから」  二宮医師はまだ三十代後半のように見えたが、ひどく落ち着いていて大人びた印象を受けた。そして、患者に対して真摯で誠実だとひと目見て分かった。  大切な人、ねえ。浅野には三矢巧が大切な人かも分からない。何も知らない。赤信号で停車し、煙草に火を点ける。フロントガラスに映る空を見上げ、メールの内容を思い出す。 『部活終わってメシ食って、今から机に座ります。夏休みはこれだから。もうめんどくせえから帰りたい。早く帰ります。今日の夜何食う?』  おまえは俺にとってどんな存在なの、三矢巧さん。  帰社した頃には、事務所に社員全員がいた。ちょうど休憩中だったのかもしれない。何しろ今日は暑いし、駐車場から事務所まで歩くだけで、陽射しが痛かった。じわじわと鳴く蝉の鳴き声に釣られてか、すぐにじわりと、汗が滲む。 「ご心配おかけしました。大丈夫です」  浅野が頭を下げると、良かったなあ、と次々と声が聞こえてくる。それでも後輩達は不安げにしていたので、大丈夫だよ、と笑って見せて頭をぐしゃぐしゃに撫でると、ようやく安堵したようだった。 「洋平、おまえ今日はもう帰れ」 「え? 大丈夫ですよ」  もう本当に平気、と続けると、永瀬はそれを遮った。 「いや、おまえ代休も取ってねえし、これを機にちょっと休め。まあ、明日はいてくんねえと仕事回んねえけどな」  はは、と最後、永瀬は笑った。だよなーごめんね洋平、と安井が続ける。帰っていい、と揃って言われ、浅野は頭を掻いた。ラッキー、と思ったのも束の間、帰宅する家が分からないのだ。まずいことになった。昔住んでいた市営住宅でも、安アパートでもないことも分かる。そこまではいい、まずいのは今現在、住んでいる家が分からないことだ。まずいことになった。記憶を一つ失くした件、それは会社には無関係だと考えていたのだが、どうやら違うらしい。 「あのー……」 「ん? どうした?」  永瀬は首を傾げ、痛いのか? と聞く。浅野は首を振り、視線を逸らした。 「いや、そのー、帰る家が分かんねえっつーか、分かんねえんですよ。ははは」  取り繕って笑うと、全員がぎょっとして浅野を見る。 「じゃなくて、いや、そうなんですけど、実は俺、一個だけ記憶を失くしたみたいなんですよね」 「は? は? 何それどういう意味?」
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