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 八月某日、午前十時過ぎ。小さな不運が重なり、浅野は今、永瀬モーターの主治医である柄本院長の前に座っている。足の位置を少しずらしただけで、スツールがぎしりと音を立てた。  柄本医院は地元に残っている小さな古い町医者で、永瀬社長が幼い頃から世話になっていたらしい。永瀬だけでなく、彼と同級生で浅野の先輩社員でもある安井も同様に。永瀬モーターでは毎年健康診断を行なっていて、柄本医院には浅野も世話になっている。ただ、それ以外でここに座るのは、浅野は今日が初めてだった。就業時間内に病院という場所にいるのは、どうにも居心地が悪い。大したことねえのに、と考えながら体勢を少し変えるだけで鳴るスツールに、余計に居心地が悪くなる。  浅野の前に座っている柄本院長は、もう高齢だった。ただ、いつも溌剌としている。白髪頭の頭髪は清潔そうに見えたし、快活に笑ってしゃんと背筋を伸ばしている姿は、年齢を感じさせなかった。年季の入った車を丁寧に大切に扱い、少しでも調子が悪くなると点検に訪れてくれた。その彼が今は、うんうんと相槌を打ちながら、浅野の様子を注意深く伺っている。  ことの発端は、滅多に起きないことが重なったことだ。まず、後輩の藤田が整備車両のエンジンオイルを交換する際に零した。やっべえすみません! 藤田のただでさえ大きな声が、輪を掛けて盛大に通り抜けた。バカ何やってんだ早く拭け、と浅野はいつも通り淡々と注意をする。彼は早々に雑巾を持ち、慌てて零れたオイルを拭く。そこに、ばたばたと足音がして、年長者の佐藤の声も響く。おいぽち走るな! ぽちと呼ばれた神田が足を緩め、振り返る。あ、はい、すみません。そこまでは良かったのだが、神田が立ち止まった瞬間、彼の足元がぐらりと揺れた。やべ、あいつ滑る、と浅野は思った。後ろには金属製の棚があり、工具類の他、ぶつかると危険なものもある。倒れる、と思った瞬間、浅野は神田を庇っていた。彼を支えた直後、頭に衝撃が走る。例の金属製の棚に、頭をぶつけたらしい。  まずった、という言葉が浮かんだ直後、浅野の意識は途切れた。  目が覚めたのは、それから五分程度後だったらしい。目が覚めた浅野は、あれ? と思った。ただ単純に、あれ? と思っただけで、何に対して違和感を感じたかは分からない。とりあえず辺りを見渡したものの、何の変化も感じなかった。ひどく心許なさそうに囲む職場の人間達に呆気に取られ、浅野は起き上がった。 「すんません、大丈夫です」  微かに頭痛がして、浅野は眉をしかめた。かっこわる、と苦笑してしまう。 「浅野さん、ごめんなさい」 「すみませんでした。オレのせいで」  次々と頭を下げる後輩達の表情の方が痛々しく見え、浅野は小動物を前にした気分になった。二人の頭を撫で、大丈夫だよ、と言うと、彼らも少し安堵した様子だった。豆柴と普段喧しい雑種が耳を下げてるみたいだ、と笑いそうになったのはさて置き、永瀬がそこで、柄本医院に行け、と言い出したのだ。大丈夫です、と手を振って示したものの、彼も引かない。 「結果大丈夫だったとしても、診てもらったら安心するだろ? おまえじゃないの、ここにいる連中がってこと。洋平になんかあったらみんなが困る。行け」  そんなことを言われたら、行かざるを得ないじゃないか。ずるいなあ、と頭を掻くと、できたコブが痛かった。  柄本院長に浅野は、金属製の棚に後頭部をぶつけたこと、五分程度意識がなかったことを告げた。目が覚めた時に感じた違和感は伏せた。説明の仕方が分からなかったからだ。浅野にも、未だに分からない。  彼は浅野の言葉に頷きながら、カルテにつらつらと書き綴る。一通り書き終えると、次は目の前でボールペンを動かし、浅野の目の動きを追った。うん、いいね、と言って彼は笑う。それから一呼吸置いて、じっと浅野の目を見つめた。じーっと見られることに慣れず、浅野は首を傾げる。すると柄本院長は、今度は浅野に生年月日を聞いた。年齢を聞いた。家族構成、交友関係、出身校、永瀬モーターに入社した年まで。質問責めにあっている浅野は、疑問に感じながらも全て答えた。 「浅野くん」 「はい」 「携帯電話は持ってるね?」  質問の真意が未だに掴めななくて、思わず、はあ、と間の抜けた返事をしてしまう。柄本院長は、ふっと笑った。 「ちょっと見てごらんなさい。メールや着信履歴、電話帳も併せてね。人の名前をたくさん見てごらん? それで特に違和感がなければ帰っても大丈夫だよ」 「え?」 「いいから、やってみなさい」  やはり柄本院長の真意が分からない。とはいえ、診察の一つだと浅野は後ろポケットから携帯電話を取り出した。未だに二つ折りのガラケーを使っていて、かちかちと音が鳴った。まずは着信履歴だ。見た途端、浅野は瞬きをする。誰こいつ、と首を捻る。履歴の一番上に書いてある名前を、浅野は知らないのだ。一番上だけじゃない。その名前はずらりと並んでいて、時々友人の名前を見掛けるものの、一人の人物の名前でほぼ埋められていた。  メールを見てもそうだ。また同じ名前が並んでいて、内容にはもっと驚いた。今日は遅くなる、今日はメシいらない、今日は早く帰れそう、今日は生姜焼き食いたい、そのような内容が並んでいてぎょっとした。人物の名前を知らなければ受け取った覚えはもっとない。更に送信履歴も見ると、その人物に浅野は毎日返信しているのだ。大体時間は昼休憩の頃で、内容はたった一言。  了解しました。  浅野はきちんと、毎日返信している。ただ一件、「自分で作れ。俺は遅い」と書かれていた。おそらく生姜焼きの件だろう。この流れから考えて、まさか一緒に暮らしている? 浅野は顔を上げ、柄本院長を見た。 「先生」  嘘だろおい。こんなことってまじであんの? 「どうだい?」 「この、三矢巧って人……」  誰ですか? と彼に聞きかけたものの、柄本院長だっておそらく知らない。浅野は口を噤み、唾を飲み込んだ。彼は察したのか、一度頷く。 「分からないんだね」 「はい」 「随分昔ね、一部の記憶が無くなった患者さんを診察したことがあったんだよ。きみの目の動きがなんとなく、その時と似ている気がしてね」 「先生すごいですね。最初っから分かってたんですか?」  柄本院長は首を振り、柔く優しく笑みを溢す。 「すごくはない、ただの勘だ。それにうちはCTやMRIもない小さな町医者だからね、総合病院に行って詳しく診て貰った方がいい。脳の専門医が教え子なんだ。今すぐ電話しよう。紹介状を書くから行きなさい」 「これ、すぐに思い出すってことないですか?」 「そうだね、あるかもしれないしないかもしれない。昔診たその患者さんは、一ヶ月くらいだったかな? 自然と思い出したけどね。まあ、他に異常は見受けられないから脳内出血や他の問題はない。でも一度、きちんと診察してもらった方がいいよ。それは確かだ」 「何でこの人のことだけ忘れたんだろ、俺」  柄本院長はもう一度柔く笑んで、机の上にある固定電話を手に取った。浅野も携帯電話を閉じ、後ろポケットに戻す。そして三矢巧のことを考えた。とはいえ、考えようにも存在すら知らないから考えようもない。ただ、友人達の名前以上にその名前が機械の記録に残っていること、毎日連絡を取り合っていること、加えてあのやり取り。憶測にしかならないが、おそらく一緒に暮らしているのだろう。信じたくはないが、おそらく。  はっきりしたのは、目が覚めた時の違和感はこれだったということ。ぱっと目覚めた時、その違和感は、言いようのないものだった。何かを失くした予感はあるのに、形にも言葉にもならない。予感はただの、体と感情の不一致に過ぎなくなる。単に頭を打ったからだ、と。  目の前では、柄本院長が電話で話していた。二宮くん元気かい? 悪いね急に、と彼はゆったりとした口調で話している。「二宮くん」という医師が彼の言う教え子なのだろう。ざっくりと説明した彼は、じゃあよろしく頼むよ、と加えて受話器を置いた。そして、ボールペンをかちかちと鳴らして紙を取り出す。あれが紹介状ね、と柄本院長の一連の流れを追いながら浅野は的外れなことを考えた。違和感があっても人はこんなもんなんだな、なんてどこか他人事のようにも思う。 「浅野くん、落ち着いてるね」 「慌てても仕方ないですよ。忘れちまったもんはしょうがねえし」 「以前診察した患者さんはね、とても大切な一部を無くしたんだ。どうしても思い出せなくて、ただ悔いていた。でもね、思い出した時、とても幸せだったそうだよ」  きみもそうだったらいいね、柄本院長は、やはりゆったりとした口調で言った。彼は浅野に封筒を手渡し、またにこりとする。  紹介状、と記載してあるそれは、どこか素っ気なくに見えた。
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