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昔――丁度、ベスくらいの歳だったかもしれない。
体育の授業で怪我をした時、仕事場にいたお母さんがスーツ姿のまま学校へ駆けつけてきたことがあった。怪我は本当に大したものではなく、縄跳びにつま先を引っ掛けて、膝を擦りむいただけだった。
カスミのお母さんは、毎朝長い時間をかけて髪をセットする。職場でも重要な仕事を任されていて、簡単には抜けられないという話をカスミ自身幾度となく聞かされていた。
それなのに、『カスミが怪我をした』という電話を受け、一も二もなく飛んできてくれたのだ。ボサボサの頭で保健室の入口に立つお母さんを見て、カスミは泣きそうなほど嬉しかった。
『歌澄!』
『おかあさん……』
『大丈夫? 可哀想に……。どこを怪我したの』
カスミは大きめの絆創膏が貼られた膝を見せた。中央のガーゼの部分には、少し血が滲んでいる。
『……ああ、膝? 手は無事なの?』
『えっ、うん。手は何ともないよ』
『ああ、それならよかった。もう、怪我したなんて言うからビックリしたわ』
結局、お母さんは先生と一言二言交わした後、車ですぐに職場へ戻ってしまった。
この時、カスミは気付いてしまった。ハッキリそう言ったわけではないけれど、お母さんは、ピアノが弾ける程度の怪我であれば問題ないと思っているのだ。怪我の深刻度は、カスミの感じている痛みとは関係ない。カスミがピアノを弾けるかどうか。お母さんにとっての判断基準はそこにしかないのである。
それ以降、カスミはそれまで好きだったものが好きではなくなった。
胸を反らせて歌うことも。
鍵盤の上に指を走らせることも。
お母さん特製の蜂蜜キャンディも。
お花の香りがするハンドクリームも。
綺麗なビーズがあしらわれた発表会用の淡いブルーのドレスも。
――そして、〈歌澄〉という自分の名前すらも。
全部、自分を音楽に縛り付けるものだと気付いてしまった。お母さんのたった一人の娘としての〈カスミ〉ではなく、ピアノに合わせて澄んだ声で歌う〈歌澄〉のために与えられたものだったのだ。
それでも、カスミは音楽を止めなかった。音楽が好きじゃなくなったからといって、他にしたいことも特に見付からなかった。
カスミは、ピアノ教室を続けた。歌の教室にも通った。勿論、心から楽しんで演奏することなど出来っこない。
しかしながら、それに気付いて注意する人はいなかった。それどころか、『心がこもった音楽だ』と、誰もが口を揃えて褒めそやすのである。ピアノの先生も、歌の先生も、学校の先生も、コンクールの審査員も――。
お母さんすらも、『歌澄は本当に音楽が好きね』と言った。
ああ、そんなものか。
カスミは、音楽が嫌いになった。
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