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「解けたんだわ」
――魔法が。
確かにまっさらであったはずの紙面に、青いインクで書かれた文字が所狭しと並んでいる。カスミとベスの目の前で、たった今綴られたかのように文字列が浮かび上がってきたのだ。
「水をかけたら、魔法が解けたってこと……?」
「そうみたい」
ベスは、机の上にそっとカスミを降ろした。
ノートがすべて吸い取ってしまったのか、気が付いた時には、机上の池は跡形もなくなっていた。
代わりに、今まで白紙であったすべてのページに文字が並んでいる。文字というよりは紋様のような、繊細で美しい文字だった。
その時、「パッポー」という間の抜けた音が室内に響き渡った。ベスがハッとして壁の上の方へ目を向けた。カスミもつられて首をもたげる。視線の先――左側の壁の上方に、鳩時計がかかっていた。
「いけない、戻らないと」
ベスは広げたピクニック道具もそのままに、慌てて部屋の出口まで駆け寄った。ノブに手をかけたところで、思い出したようにカスミを振り返る。
「じゃあ、また夕方ね」
「うん」
本当に、仕事に行く母親を見送るような気分だ。
自分に向けられた背中。黙って見送るのが何となく嫌で、カスミは思わず「ねえ」と呼び止めた。
「なに?」
ベスが振り向く。特に言うことを用意していなかったカスミは、少し悩んでから言った。
「……頑張ってね」
ベスは一瞬キョトンとした後、笑って言った。
「ありがとう、頑張る」
扉が閉じて、階段を下る足音が遠ざかる。中々に散らかった机の上で、カスミは見開かれたままの本を見下ろした。
「……さて、紙が乾く前に読んじゃわないと」
なんとなく、カスミは口に出して言ってみた。紙面に並んだ青い文字が、読んでくれと言わんばかりに仄かな光を発している。
全身を使ってページをめくる音が、室内で静かにこだましていた。
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