森の中から

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自分のクラスの担当ではなかったが、部のメンバーの担任だった英語の教師は私たちの間で特に人気だった。友人がうれしそうに今日はあんな仕草をした、こんなことを言ったと報告してみんなで「かわいいい~~~」と騒ぐ。なお、頬の垂れた中年男性である。寡黙で他の教師達と馴れ合っているのは見たことがなかった。授業内容も雑談が面白いわけでもなく、親切であったが淡々としていたらしい。 友人の報告では「蝶が大好きで蝶の研究をずっと続けている。論文を読むのでも英語は必要だし、採集や学会でよく他国に行く事もあるので英語が得意になった。休みも比較的取りやすいので高校の英語教師になった」「先生が発見した蝶がいるらしい」というのだ。その話をしていた彼女の悶絶も、聞いた私たちの興奮も今でもその感覚が残っている。 好きな事があって、それをずっと続けていくエネルギーがあることはなんて素晴らしいことかと思ったのだった。その為なら仕事も道具のように選択してもいいのだ、と実証する彼の存在が私たちの心を打った。 その頃、私たちは悩みを持っていた。仲間内で噂話や他愛ない話をしていても、自分のやりたい事って何だろうとか、希望の大学に行くには学力が足りないだとか、就職するしか道が無いけど自分に仕事なんてできるのか、とか。ともかく時間があまり残されていないと感じていたし、その恐れから逃げるように毎日の些細な、何か「楽しいこと」にすがっていたように思う。 でも、先生の姿をみて、本当に好きなことならばいつだっていつまでだってやっていい、仕事は何だっていいのだ、と思えた。私にとっては、目の前の霧がほんの少し晴れて自分の手や足が見えたような気さえした。 名前はもう覚えていないけれども、緑の濃いジャングルで虫取り網を持ったあの先生の姿は何十年も私の心の中にある。 先生は真剣な顔で蝶を追っている。いつまでも。
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