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キリコが敬語を使いだしたのはいつからだったかな、とふと思う。
少なくとも小学生の頃は、キリコは普通にタメ口だった。それが中学に入ってから突然敬語を使うようになった。
特段ぼくたちの関係に変化があったわけではない。むしろ変わったのは周囲の方だ。
小学生の頃は許されたぼくらの距離感が、成長にしたがって特異なものとして捉えられるようになってきたのだ。カップルと揶揄されるのは昔からだけど、次第にその言葉は質量を持つように変質する。あらぬ噂も立ったし、それがキリコの耳に入らないわけもない。もしかすると、「やめた方がいい」とご親切に友人から忠告されたのかもしれない。
キリコはバカだけど、決して鈍感ではないし周囲の気持ちを考えられないわけでもない。
だから、ぼくと距離をとるようになった。
人目につくところでは話しかけないし、精神的にも距離をとるために敬語を使う。言葉にすると大したことないようだけれど、昔は何をするにもずっと一緒だったのだ。キリコにとってどれだけの決心があったか想像もつかない。
変化を余儀なくしたものは、他にもある。
たとえば――――、そうセミ。
ママチャリの籠に、押し入れから引っ張り出してきたラジカセを放り込む。埃を被っていたけれど、音に問題はないことは確認済み。
自転車のスタンドを蹴り上げながら、傍らのキリコに訊いてみる。
「君ってさ、セミとるのやめたの?」
答えはわかっていた。だからこれは質問ではない。
「あー。やめちゃいましたねー。なんか飽きちゃって」
てへぺろ、だなんて飴菓子のキャラクターみたいな表情をしてみせる。
なにも考えていないふりを、してみせる。
自分の話題となると深刻さを避ける性分なのはよく知っていた。
「へえー。幼稚園も小学校も虫取りに熱中してたくせに」
「ふふふ、昆虫は既にトレンドじゃなくなったんですよ。わたしは常に新しい刺激を求めているのです」
自分の意思でやめたと主張したいようだけど、ぼくはキリコのSNSのいいね欄が昆虫の写真でいっぱいなことを知っている。割と隠し事はきかない。
『健全な女子高校生は虫取りを全力でしたりなんかしない』
周囲に心配をかけないために良識に従い、足を洗ったことは容易に想像できる。虫取りをしなくなった、とキリコの両親も喜んでいた。
これからキリコは歳を重ねる度にそうやって、ひとつずつなにかを諦めていくのだろう。そしてその度に周囲は「落ち着いた」「丸くなった」と安心する。
それはきっと世間的には喜ばしいことなのだと思う。
でも。
ぼくはそんなキリコなんて見たくもないのだった。
「今日は昆虫の供養をするわけだし、一日限定でトレンドでもいいんじゃない?」
首をかしげるキリコ。今回のはとぼけてるんじゃなくて、マジで伝わってないやつ。
「とってきなよ、虫取り網。無礼講でしょ。夏だし、夜だし」
誰も見てないし、と心の中でつけ加える。ぼくたちにとっては最重要事項だ。
「な、ななな、なるほど!? そ、それもいいですね採用してあげましょう」
目を見開いて、びっくりするぐらいの早口で言う。嬉しさが舌を高速回転させたのかな。
「ほら、早く家帰ってとってきな。夜が明けちゃうよ」
「了解! 秒でとってきます! 秒で」
「そう言って本当に秒だったやつ見たことない」
せわしなく飛び出していったキリコを見送りながら、自転車を押してキリコ宅の前まで移動させる。
秒ではなかったけれど、キリコは結構健闘した。たぶん1分ちょっと。
幼稚園の頃から愛用した虫取り網を携えて家から出てくる。
長年の戦友と再会したキリコは当然ご満悦。調子に乗ってなんども素振りする。振りかぶれば網は空気の抵抗でふくらみ、空中に楕円曲線を描く。試し切りの標的となったのは塀ブロックだ。びゅん、ばしん。
見た感じ、全盛期と変わりのないキレだ。流石は童心ガチ勢。
「そろそろ出発するよ」
自転車の荷物置きをぽんぽんと叩く。「乗って」キリコは躊躇なく跨る。
二人乗りだって、昼間は絶対やらないくせに。
キリコが学校では結構優等生であることも、ぼくはよく知っていた。
自転車を漕ぎ出す。
目の前には夏の夜が途方もなく広がっている。
夏の夜は粘性を帯びていて、肌にまとわりつき、浸透して内部を熱していく。
熱は手足におもりのようにのしかかり、ペダルを踏む足から機敏さを奪う。
「重いね、夏」
「ええ、ずっしりです」
外に出てからそれほど経っていないのに、背中が汗で濡れてきているのを感じる。キリコの声のトーンもいつもより低めだ。
涼しくなることを期待して、少し漕ぐスピードをあげてみる。確かに風が当たることには当たるけど、熱風だった。三十五度は伊達じゃない。
「こうやってセミも殺されたのかな」
「犯人は夏、凶器は温度ですねぇ。……じゃあ、動機はなんなんですかね?」
「『特に理由はない。誰でもよかった。反省していない』」
実際、夏に自意識なんてないのだからその凶行にも理由なんてないだろう。ただ暑くなって、結果誰か死んだ。それだけだ。
夏は反省どころか、前方確認だってしない。
「それじゃあ、夏は通り魔ですね」
「テロリストでしょ。種族ごと虐殺なんてさ」
「いえ、テロリストには思想があるので」
テロには一家言あるキリコのようだった。
「じゃあぼくたちがテロリストか。セミの復讐という思想がある」
「そうです! この理不尽な夏に一泡吹かせてやりましょう!」
復讐するのは、夏だったか、人類だったか。
標的の時点であやふやだけど、別にどっちだっていいのかもしれない。
どっちにしろスケールがでかい。それと、個人じゃどうしようもない。
テロなんか起こしたところで、なにか変えられるわけでもない。
魚にできるのは、流れに逆らうことだけ。
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