1人が本棚に入れています
本棚に追加
「もしもしわたしキリコ。今あなたの家の前にいるの」
深夜に電話がかかってきて飛び起きたら、一言目からそれだった。
既に時刻は午前2時。草木も眠る丑三つ時。
いや、この熱帯夜じゃ草木も寝苦しいかもしれない。
なんていったって、8月に入ってからというもの、東京の最高気温は連日四十度以上。夜間も三十度を下回らない。記録的な猛暑……といいたいところだけど、もはやこの暑さも毎年のこと。クーラーを使わないガンコ老人、なんて夏の風物詩も見かけなくなって久しい。
このバカみたいに暑い中、あのバカはいったい何の用があるというのか。
寝起きで不機嫌なので、若干荒い語調で応答する。
「こんな夜更けに家凸とかマジ?」
「マジです。わたしが嘘をついたことがありますか」
「無数にある」
この前も、奢るから喫茶店に来いと呼び出され、着いてみたらマルチ商法の人に人質として引き渡されてセリヌンティウスの気分を味わった。ちなみにメロスは帰ってこなかった。
今回はどっちかな、嘘だといいな、と期待を込めてカーテンを開けてみる。
ベランダごしの道路、薄暗い中に小柄な影がひとつ。こちらに気付くと飛んだり跳ねたりしてアピールする。あんな奇怪な動きをする人物は他にいない。誠に遺憾ながらマジだった。
「というわけで開けてくださいクソ暑いです頭融けそう」
「逆にまだ融けてなかったんだ」
「脳が融けてたら死んでるでしょうが」
キリコなら脳がなくても活動できそうだけど。普段から使ってる気配がない。
「静かにできるって約束できるなら入れてもいい」
「できますできます」
二回言うのは、守る気がないとき。
出張で親がいないからこっそりと上がらせる必要はないのだけど。かたちだけでも制限をかけておかないと、キリコは際限なく騒ぎ立てるから。
よいしょ、と重い腰を上げて階下へ向かう。
Tシャツ一枚にジャージなんて痴態だけれど、キリコが相手なら構うことはない。どうせ十五年来の付き合いだし。
廊下に出た途端に、熱を帯びた空気が体にまとわりつく。出てすぐは体がまだクーラーで冷えているから「暖かいな」なんて呑気な感想も出てきたけれど、玄関までやってきた頃には額にじっとり汗がにじんでいた。
ドアを開けると、嫌になるくらい見飽きた顔。
造形自体は無駄に整っていて、それこそ事務所にスカウトされたこともあるようだけれど。その瞳は「次はなにを玩具にしてやろうか」とばかりに輝いていて、その両足はいつも落ち着きなく動き回っている。
男子小学生の魂を女子高生の器に無理やり押し込んだような生物。
つまりまあ、単なる普通のキリコだった。
「……なんの用?」
「うわっテンション低っ。夜中に同級生女子が訪ねてきたんだからもうちょっと喜んでもいいじゃないですか。平安だったら結婚してますよ」
「千年以上前の一般常識を持ち出すな」
とは言ったものの。
年頃の男女が夜中に自宅で会うというのは、現代でもやんごとなき仲だと想像されるものだろう。でも、ぼくとキリコの間には残念ながら愛だとか恋だとかは存在しない。
「そもそも、小学生の頃から夜中に押しかけてくるじゃん、キリコ」
「そりゃ、お隣ですからね。鼻の先に牛カルビ吊り下げられたら、食べちゃうでしょう。同じです。密着してると衝動が抑えきれない」
「満員電車で痴漢するやつの言い訳じゃないか」
「やだなー、さすがに人は食べないですよー」
だははー、となにかを手で払うような仕草をとるキリコ。
「……もしかしてなんでも食べられるかどうかで判断してない?」
幼馴染。字にするとラブでコメディなオーラを纏うけれど、実物はまあ、こんなものだ。キリコになにかしたいことがあれば、ぼくが必ず連れ回される。ぼくに拒否権はあんまりない。ぼくとキリコの関係は、それ以上でもそれ以下でもなかった。
最初のコメントを投稿しよう!