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渡並壱哉(となみいちや)は、恋をしている。 相手は、崎谷瑞季(さきやみずき)、小説家だ。三ヶ月前から先輩編集者の佐伯(さえき)の下につき、壱哉は彼の担当をしていた。 瑞季は、その文才だけでなくルックスからも人気を集めており、雑誌等ではいつもキリッとした眼差しで女性のハートを射止めていたが、壱哉が挨拶に家に訪れた時、彼はその印象をあっさりと覆した。整髪料で整えられていない髪はさらりと揺れ、いつもはきっちりとしているスーツも、今は少しよれたシャツ姿、キリッとした眼差しも、眉を下げて力無く笑っている。その無防備な笑顔に、壱哉はあっという間に恋に落ちた。男とか関係ない、完全なる一目惚れだった。 それに加え、瑞季は飾らない性格で、少し抜けた所のある愛すべき人といった印象。ますます壱哉は瑞季に惚れ込んだ。 とにかく瑞季の全てが愛しくて、この思いを止めるのも苦しくなってきたこの頃。瑞季が二泊三日の執筆旅行に行くというので、そのお供として、壱哉に白羽の矢が立った。勿論、壱哉に断る選択肢なんてない、憧れの瑞季と、部屋は違えど二人きりで旅行に行けるのだ。 「先生の事、くれぐれも見ておいてくれよ」 佐伯に念を押されて送り出されたのは、瑞季がここ最近、塞ぎ込んでいるからだ。執筆状況も思わしくなく、今回の旅行も、少し休んではどうかと、佐伯が気分転換も兼ねて提案したものだった。 そうしてやって来た温泉旅館は、佐伯の両親と兄夫婦が営んでいる旅館で、こじんまりとしながらも趣のある宿だった。 季節は夏、旅館は予約客でほぼ埋まっている盛況振りだ。 部屋に入ると、畳のい草の香りが壱哉達を迎えてくれた。窓を開けると、蝉の鳴き声が大きく響いてきたが、通り抜ける風が清々しく、心地よかった。 「先生、明日は夏祭りがあるそうですよ」 「…でも、締め切りがね」 「少しくらい良いじゃないですか!気分転換も兼ねてるんですから!」 壱哉が目を輝かせると、瑞季はふふと笑い、「そうだね」と頷いた。壱哉は分かりやすくガッツポーズをする。勿論、瑞希と夏祭りに行けるからだ。 「壱哉君は、良かったの?俺なんかについてきちゃって」 「良いんです良いんです!俺が先生と居たかったんですから!」 にっこり微笑めば、瑞季はきょとんとして、それからおかしそうに笑った。 「やっぱり変わってるね、俺なんかと居たいなんて」 少しでもこの気持ちが伝わらないかと思ったが、やはりそれは難しいようだ。しかし、壱哉は決めていた、この旅行で彼に告白するんだと。 瑞希は、少し休んでから仕事をするというので、壱哉は瑞季の部屋を出て隣の部屋へ向かった。食事は同じ部屋でとれるようにして貰っている。寝る部屋は別々だが、温泉には一緒に入れるかもしれない。 そう想像すれば、自然と顔がでれてしまう。 「あー、どうしよ…!」 一緒に温泉とか、目のやり場に困る。出来れば人気の無い時間帯を狙いたい、あぁ瑞季さんの入浴姿は色っぽいんだろうな、なんて勝手に想像して、壱哉は旅行鞄を抱きしめながら身悶えていた。 *** 「壱哉君?」 とんとん、と肩を叩かれ、はっと目を開ける。目の前に水を滴らせた瑞季がいて、壱哉はどっと胸を高鳴らせ飛び起きた。 濡れた髪、滴が首筋から鎖骨を辿り、浴衣姿が艶やかで直視出来ない、と思う中、ふと疑問が沸く。 「先生、温泉…」 「あ、うん、一応声掛けたんだけど、壱哉君よく寝てたから。きっと疲れてたんだね」 労うように笑うその顔は可愛いが、その優しさより、何故チャンスを目の前に寝入ってしまったのかと、そんな自分が信じられず、壱哉は後悔にがっくり肩を落とした。 「いいお湯だったよ。あと、ご飯来たんだ、一緒に食べよう?」 「…はい」 いや、一緒に食事が出来る、しかも決まっていた事とはいえ誘いに来てくれた。今だけはこの人を独り占め出来る、それだけで十分幸せだ。 壱哉はそう思い直し、足取り軽く瑞季の後を追いかけるのだった。
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