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それより女と別れたのなら、しばらくは早いうちに家に帰ってくるだろう。どちらかというと自分としては、そこが気になるところだった。
昨日の謙二郎が焼いてくれた魚は冷蔵庫にある。彼の肩を落とした背中が忘れられない。
「暇なんだろ。今日の夕飯は一緒に食えよ」
明日も来る、どうかわからなくても春希の分も作るから、と言って彼は帰った。だからこそ今日くらいは彼を家にとどめておきたい。
「バイト終わったら速攻帰って来いよな」
「ううーん……」
鈍い返事に、苛立ちが込み上げる。また帰ってこない気か。
「謙ちゃんをあまり困らせるなよな」
「そうは言うけど困ってるのは俺の方だと思わないか。毎日毎日おさんどん、母さんでさえしなかったことして、迷惑だって」
「おい、兄貴でもそんな言いかた」
好意でやってくれてるのに。腹が立って低く言うと、春希がぱちりと瞬きをした。
軽い言い方をして本心を煙に巻くような態度をとっていたのに、その瞬間、目の中にどこか刺すような光が入るのが見えて、眞樹は唇を結んだ。
彼はときどき謙二郎の話題が出るとそういう目をする。
「あいつはそんなことする必要ない」
厳しく彼が言った。
「おまえも甘えていないでちゃんとあいつに言ってやるんだ」
来てくれるのは彼の意思だろう。
眞樹はぐっと彼を睨んだ。それを否定なんてできないじゃないか。
やってくれと頼んだこともないのに、来なくていいなんて言えるはずがないし、助かっているのは事実だ。春希も眞樹も料理らしい料理ができないから、彼がいなかったら毎日コンビニ弁当かスーパーの総菜になってしまう。
食費は眞樹が両親から預かっている生活費から出していた。何が問題だというんだ。
それに大学で会えるふたりと違って、眞樹は家に来てもらわない限りは顔も見られない立場だから。
「――っ、せえよ」
だけど普段は甘い春希の目が氷のように鋭いときにそれ以上のことは言えなくて、眞樹はよれた寝間着用のTシャツを乱暴に脱ぎ捨てた。
言えなくなる自分のことも好きではなかった。
クローゼットからシャツを取り出して羽織り、ボタンを留める。早く着替えて行かなくては遅刻してしまいそうだった。
後ろでは春希があくびをしている。うるせえからもう寝てろ。胸の中で悪態をつく。何でも持っていて、大事なものを持っている彼を、妬ましいと思わないこともなかったりもするから。
「あ、眞樹」
間の抜けた声で呼びかけられる。
「んだよ」
「そういえばうなじのとこ、虫に刺されてる」
「え? 別になんともねえけど」
制服移行期間中なので、ベストに袖を通してから、手のひらを首に持っていって触ってみる。
指先でするすると撫でさすってみるけれど刺されて腫れたような感覚もない。いったい何が。
と考えたとき思い出した。昨日は駿介にバックから入れられたとき、うなじを噛まれたような。
「いや、触ったら痒くなってきた」
慌てて言い添える。
「虫刺されの薬はリビングだっけ」
「こんな季節にもう蚊かなあ。悪い虫でなければいいけど」
のんびりと言い、春希は布団にもぐってしまった。
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