目玉、はじめました

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「目玉、はじめました」  そんな恐ろしい看板を見つけたのは、残業を終え、満身創痍で家に帰る途中だった。時間でいうと、大体午後十一時三十分くらい。  ただ、そんな看板を見つけることは、特に大きな事柄ではない。今、私の身体を支配しているのは、圧倒的な疲労と、それを休めるために、早く家に帰りたいという思いだけである…はずだった。  しかし、その看板を見つけた時の私の反応は、無視ではなかった。そんな看板にいちいち反応せず、家に帰ることこそ、今必要なものであると分かっているはずなのに。  その看板に、興味を持ってしまった。それに、私はその看板に見覚えがあるような気さえしていた。  看板が付いているのは、都会的な街並みの中に突然小屋が現れたような、小さくて、綺麗とはいえない、古びた木造の店だった。 「目玉をはじめるって…なんだろう」  私の足は、躊躇うことなく店に向かっていた。頭の中にはもう、家に帰りたいという思いはなかった。 「こんばんは」  こんな時間でも店は開いていたが、それを不思議だとは、全く思わなかった。店の外観に溶け込んだ木製のドアはずっしりと重く、力を込めて押すと、店内の照明の眩しさに出迎えられた。店員の「いらっしゃいませ」の声はなく、後ろでドアの閉まる音が聞こえた。  店内はかなり手狭で、入るとすぐにカウンターがあり、そこに男性が一人立っていた。店員だろう。白いひげを生やした、ダンディなおじ様といった感じの見た目である。後ろにある棚には、ホルマリン漬けにされているのだろうか、瓶に入った目玉が大量に並んでいる。私は、店員に尋ねた。 「すみません、看板を見て店に入ってきたんですが、この店は、どんなお店なんですか?」 「はい、見ての通り、目玉を扱っております。実は、ずいぶん前から店はやっておりますが、看板は変えておりませんね」  低い声で答えると、店員は黙ってしまった。まったく分からないので、私は更に尋ねてみた。 「目玉を扱うというのは、どういうことなんですか?」 「はい、お客様に目玉を渡し、使っていただきます」  やはり分からないので、なんと質問すれば良いかと悩んでいると、店員の方から口を開いた。 「お客様は、心はどこにあるとお考えですか?」  急になんだろう、というのと、お客様ではないよ、という思いはとりあえず抑えて「脳みそですかね」と答えてみた。店員は一度だけ頷き、また口を開いた。 「ええ、みなさんそうお考えです。実際に、そのお考えは正しい。しかし、心というのは一つではありません。心というのはですね、実際は目玉にもあるのです」  店員は、ごく自然に答えた。私は、そんな馬鹿な、と思ったが口には出さなかった。しかし、目玉の無い人だっているのに、あまりにも無根拠でおかしな話だと思ったので、すぐに帰ろうと思った。すると、そんな私の考えを見透かしたのか、店員が言った。 「正確にお話しますと、心は、身体のすべての物にあるのですよ。脳にも、目玉にも、心臓にも、腕にも、足にも、心がそれぞれありますよ」  店員がそんな風に話したところで、店のドアが開き、赤いヒールを履いて、赤いドレスを身にまとった派手な女性が入ってきた。  私がカウンターの前を空けると、女性は歩いてきて、店員に向かって「ありがとうね」と言った。店員は、その言葉を聞くと、カウンターの後ろにある棚から一つ瓶を出した。 「では、こちらへ。そちらのお客様は少々お待ちください」  店員が、カウンターの横にある扉を開くと、女性はカウンターの中に入った。  店員が、瓶の並ぶ棚を横にスライドした。すると、その奥には部屋が現れた。どうやら棚は、隠し部屋の扉の役割もしているらしい。二人が部屋に入っていくと、扉は閉じられ、ただの瓶の並ぶ棚になった。その瓶の中身は目玉ではあるが。  少しして、二人が部屋から出てきた。店員は、部屋に入った時と同じように、目玉の入った瓶を持っている。女性の方も、特に違いは感じられなかった。 「何をしていたんですか」  二人に聞いてみると、女性が答えてくれた。 「目玉を入れてもらってたの」  どうやら、店員が持っている瓶の中の目玉は、さっきまで女性がつけていたもので、今女性がつけているものと入れ替えたらしい。 「じゃあ、また」  そう言うと、女性はカウンターから出てきて、なぜか私にウインクしたあと、店から出ていった。 「お金はいらないんですか?」 「ええ、お金は頂いておりません。それより、先程の話の続きをしましょう。心というのは、身体のどんな部分にもあるとはお話しましたね。この店はそれを利用して商売をしているわけです。今出ていかれたお客様は、つい先程目玉を入れ替えるまでは、他の男性の目玉を付けておりました」  私は、黙って店員の話を聞く。 「逆に、あのお客様の目玉も、今日の夕方頃までは、他の女性の目玉となっていました」  店に目玉を預けて、自分の目玉を他の人に使わせる代わりに、他人の目玉を自分の目玉として使えるというわけらしい。しかし、そんなことを誰が必要とするのだろうか。店員が言葉を続けた。 「目玉には心があります。誰かの目玉として働いていた目玉が自分に帰ってきたとき、どうなると思いますか?」  少し考えて、私は答える。 「誰かの見た景色が、自分のものになる。とかですか?」 「その通りです。あなたの目玉があなたに返ってきた時、あなたは他人が見ていた景色を見ることが出来る。もちろん、その景色のすべてを覚えているわけではありませんが、文字通り『目に焼き付けられた』景色というのは、しっかりと自分の見たものとして得ることができます。他人の見た景色を自分のものとして得られるというのは、非常に大きなことです」  一息置いて、店員が続ける。 「つまりですね、目玉の入れ替えは、色々な人の生活、その視界を、疑似体験する為のものなのです。人は、自分以外の人に世界がどう見えているか、非常に興味を持っていますから、利用者は非常に多くなっています」  …なるほど、とても興味深いな、と私は思った。そして、店員に尋ねた。 「私の目玉も、他の方に使ってもらえますか?私も、他の方の目玉をつけますから」 「もちろんです。見たところ、仕事が大変なようですね。激務のOL、というのも、面白い体験でしょう。それでは、視力だけ、確認させていただきます。」  良かった。こんなに面白そうなこと、やらないと損だ。幸い、視力は1.0はあるから、まず問題ないだろう。  ふと、店員が私の目を、いや、目玉を見て言った。 「申し訳ありません、お客様、視力の確認は必要ありません。目玉ばかり気を取られていたもので、お顔まで覚えておりませんでした」  どういうことだろう。店員が続ける。 「お客様は、すでにこの店を利用されていますよ」  店員の言葉に、私はぼんやりと思い出してきた。 「たまにいらっしゃいます。大抵の方は、店に入った時点で、この店に関することをすべて思い出すのですが」  だんだん、だんだんと思い出してきた。そういえば、私はこの店を知っている。 「他の人の目玉をつけて店を出ると、この店の記憶が消えてしまいますからね。それが、他の人の生活を楽しむうえで大切な要素ですから。目玉を返す時が来れば、店はひとりでに現れ、利用者の皆様は誘われ、店に入るとすべてを思い出すのです。この説明を聞くのも、初めてではないでしょう?」  店員のセリフが終わるまでには、私はすべてを思い出していた。今日と同じように、仕事に疲れて帰る途中、この店を見つけて入ったことがきっかけで、私はすでに三回、他の人の目玉をつけて生活したことがある。 「…思い出しました。すみません」  店員は優しく微笑んだ。 「構いませんよ。それでは手早く済ませましょう」  店員はすでに、私の目玉の入った瓶を持っていた。  奥の部屋に入る。作業はすぐに終わった。部屋を出て、カウンターを出た私に、店員が言った。 「またいつか、突然にこの店が、あなたの帰り道に現れます。見逃さず、そして、この店のことをお忘れなきように」 「もう、忘れませんよ。また、よろしくお願いします」  少し笑って、私も答えた。私の身体は本当に疲れていて、まっすぐ家に帰ると、そのままベッドに寝転んでしまった。そしてすぐに、眠りについた。  その晩、私は夢を見た。夢の中で私は、なにも変わったところのない、男子大学生になっていた。授業を受けて、友達と笑って、一日を終える夢だった。とても、とても楽しい夢だった。次にあの店に行ったあとは、どんな夢が見られるのだろう。
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