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……そうだ。明日も明後日もバイトで来週からは短期バイトも始まるから、今までみたいに毎日会えなくなるんだ──と、そう言いたかったのだ。
ずいぶん遅れて、中島は自分の気持ちに気が付いた。
打ち上げの一次会も宴たけなわになっている頃だ。駅前繁華街の片隅にある学生御用達の居酒屋で、二階の座敷に二十数人が集まった飲み会。担任教授がいたのは最初の一時間だけで、そのあとは同級生だけの集まりになったから、みんな気楽に打ち上げを楽しんでいた。
お酒に強くない中島は最初だけビールを少し飲んで、それからはウーロン茶をちびちびと飲んでいた。いまどき一気飲みなどは流行らないし、酒の強要もほどんどない。だが、それは青木が仕切っているからとも言えた。彼は「優等生ぶってる」などと揶揄されないスマートさで、飲みたい学生だけに面白おかしく酒を飲ませ、それ以外の学生には気軽にソフトドリンクを運ぶ。
まだ未成年の学生も多いからか、お酒を飲んでいるのは半々という感じだ。
「中島ぁ、俺の唐揚げ死守しといてー」
少し離れたところから、そんな声が飛んできて中島は顔を上げた。気がつくと青木が最初に座っていた席とは違うところで、周りを取り囲む同級生と笑い合っていて、中島の視線に気づくと軽く片手を上げてウインクをしてみせた。こういう飲み会で普段は一緒にいない同級生とも積極的にコミュニケーションを取りに行く青木は、感心するほどつくづく如才ない。
しかもどこか憎めないのが、青木のすごいところだ。死守するほどのものとも思えないが、大皿で出てきた唐揚げをいくつか避けておこうと箸を伸ばせば、それを横取りする箸があった。
「あ、ちょっと、小林、すかさず食べるなよ」
「ここにいないのが悪い。俺は食べたいだけ食うね!」
「やだ、小林くん、ひどいー」
残り少ない唐揚げを奪っていく小林亮太に、周りの女子たちがけらけらと笑った。残してあげなよ、なんてことを言わない代わりに、中島は唐揚げを皿によそい、それからテーブルの上に残ったサラダをその上から載せてみた。
「死守しろとは言われたけど、アレンジするなとは言われてないからなー」
「ついでにその上に、おぼろ豆腐も載せとけ」
「あ、これソース代わりにどう? ちょっと盛りつけプロっぽいよ、いけてるー」
「なんか意外においしそうじゃない?」
「おいしそうじゃないよ全然!」
一枚の皿を囲んでそんなふうに盛り上がって、中島は周りと一緒になって笑い声をあげた。
こういうノリは嫌いじゃなかった。みんなで笑って楽しんで、気分が明るくなるのは良いことだ。そういう意味で青木や小林とつるんでいるのも、中島は嫌いじゃなかった。
城崎はこうした集団が好きではないみたいだけど──と中島は視線をあげる。
ほとんど対角線上といってもいいくらい遠くに田村と城崎が座っていた。周りにいる他の連中と合わせて四、五人のグループで盛り上がっているようだ。離れた彼らの会話はまったく聞こえなかったが、とりあえず城崎は特に不快そうでもなく、ごく普通に話をしているように見える。
なんだ、普通にしてるんじゃん。でも絶対こっちには来ないよな、と分かりきったことを中島は思う。こんな場で城崎が中島に声をかけるわけがない。もちろんこちらに視線を送ることさえ。
なんとなくそのまま気をとられていれば、ふと視界に青木の姿が入ってきた。
青木がいつものようになんの気なく二人のところに歩み寄り、そばに座るでもなくなにかを話しかけて笑い、それに対して田村が文句を言ったらしい様子が見てとれた。城崎が眉をひそめてなにかと言って、まったく動じた様子なく、はははっと青木が笑い声をあげる。
一見すれば、また青木が余計なちょっかいをかけているふうだが、なんとなく少し空気が違うようだった。すぐに田村が「どっか行け!」と声を抑えながらもそう言ったのが聞こえたが、そこには教室にいるときよりもどこか、親しみめいた柔らかさを感じさせる。
──なんだ、普通なんじゃん。
中島は改めてそう思う。青木にそうなら、自分だってそうしてもいいんじゃないだろうか?
「あ、中島、俺の唐揚げ死守してくれた?」
青木が戻ってきた。あ、と目を瞬いて、中島は思わず一瞬城崎の方に視線を向けていた。青木の動向をおいかけていたのか、城崎と田村がこちらを見ていることに気が付き──目が合う直前、城崎がふっと視線を逸らす。
「俺の唐揚げ…………もしかしてこれ?」
「あ、うん、そう! チキナン風!」
情けない声が聞こえて、慌てて中島は青木の方を振り返った。
「中島が腕によりをかけてみました!」
「風って、便利な言葉だなー……」
青木のコメントに周りがどっと笑った。合わせて中島も笑い声をあげた──ずきりと痛んだ胸の内を隠して。
おかしなことはなにもない。いつもどおりだ。
城崎は集団が嫌いだし、飲み会も好きじゃないし、そういう集まりの中で目立つことが嫌いだ。だから中島もあまりみんなの前では声をかけない。
だけど胸の中のもやもやが収まらない。
一次会が終わり、出てきた店の前でクラスメートたちが集まっていた。二月の夜は随分と冷え込んでいて、酔っていながらも皆寒そうに肩をすくめてかたまっていたが、まだ全員が出てきていない上に二次会の店が決まっていないから、だらだらとまとまり悪いことになっている。その中でさっさと人ごみを抜けて歩き出した城崎を見つけて、中島はつい追いかけていた。
「城崎、」
隣を歩いていた田村と同時に足をとめた。
田村がいつも通り冷静な目で中島を見やり、あっさりと「俺、先行くわ」と背中を向ける。残された二人は、金曜日の賑わいを見せる繁華街の片隅で向き合った。腕を伸ばせば届くぐらいの距離は、凍るように冷たい夜風にさらされて、どこか遠く感じる。
お互いの白い息ばかりが目についた。
やがて少し困ったように城崎が視線をそらすように顔をうつむけ、華やかなネオンの光を受けて影をつくる。
「……なに」
「え? あ、いや、あの俺──」
行ってしまう、と思ってつい声をかけていたが、なにを話したかったのか中島自身よく分かっていなかった。手持ち無沙汰に、手袋していない手が冷え切った空気を掴む。
「……俺は、二次会行く、から」
「ああ。俺は行かないから、先帰る」
それは分かってるけど、そうじゃなくて。
身体の奥でなにか判然としないものが渦巻いて、中島をひどく落ち着きなくさせていた。焦燥にも似たそれに押されるように、すがるように城崎を見上げた。
「──帰り、部屋、寄っていい?」
「ッ、」
ぐっと城崎が言葉を喉に詰まらせた。反射的になにかを言いかけた口を手の甲で押さえて、中島から視線を逸らす。
間があった。少し離れたところで騒いでいる同級生たちの声が聞こえてくる。その声を気にしたように、城崎が返答しようと口を開く前に、ちらりと彼が周囲を窺ったのが中島にも分かった。
「……夜、遅いだろ」
「遅くならなければいいの? だったら今からとか」
「バカなこと言うなよ。いきなり部屋に来るなんて──……おまえ二次会、行くんだろうが」
ひどく困ったように顔を歪めて城崎が言う。そうやって城崎がつらい顔をするのが嫌で、だけど自分も苦しくて、中島はどうしたらいいか分からなくなっていた。
寒いのに、冷えた外気にさらされて凍えるほどに寒いのに、胸の奥が熱く軋む。
なんで、と思う。
なんでバカなことだって言うの。なんでそんなに困った顔をするの。なんで俺のそばにいてくれないの。なんで俺と一緒にいるときは楽しそうじゃないの。
「──……なんで?」
呟くように声が洩れた次の瞬間、その隙間からたくさんの〝なんで〟が零れ出した。
「なんでいつもそんなつらそうな顔するの? なんでそんな苦しそうな顔するの? 二次会なんてどうでもいいじゃん。なんで部屋に行っちゃダメなの? なんで一緒にいてくれないの? 全然分からない! 俺、城崎のこと全然分からないよ!」
まるで叫ぶように中島は城崎に言葉をぶつける。おい、と慌てて城崎が手を伸ばして、激した中島の腕を取った。
「怒鳴んなよ、こんなとこで──っ」
「こんなとこってなに!? じゃあどこならいいの? 部屋の中? でも城崎は部屋に入れてくれないじゃん! 俺はただ城崎と一緒にいたいだけなのに。バイトするなんて聞いてないし、次きちんと会えるのいつかとか全然分からないし、でもなんにも言ってくれないし」
中島の口から責めるような言葉がとめどなく溢れ出ていく。身体が熱く震えて、喉が痺れるように苦しくて、目の奥が痛くて、今にも泣き出してしまいそうなのに、涙は出なかった。
こんなこと言ってはダメなのに。相手を否定するようなことは言いたくないのに。
けれど、どうしようもなく止められなくて。
「ねえ、好きだったら一緒にいたいって思うの普通じゃないの? そうじゃないなら付き合ってる意味なんてどこにあるの? こんなんだったら友だちのままでも良かったんじゃないの?」
「中島──」
城崎が言葉を飲み込む。
中島の興奮を押しとどめようと掴んでいた城崎の手から力が抜けて、かくんと腕が落ちた。
その瞬間に中島は我に返って、ハッと目の前の恋人を見返していた。ぞっとするほど白い顔をして、城崎が呆然と中島を見つめている。
「っ、」
言ってはいけないことを言った。
今、自分は言ってはいけないことを──彼を傷つけるようなことを、また。
「き、城崎──ちがう、俺は……」
なにかを言わなければ、と口を開いた途端、「中島ぁ、行くぞー」と遠くから呼ぶ青木の声が二人の間に飛び込んできて、二人ともそれ以上の言葉を押しとどめた。
繁華街のざわめきが耳に入ってくる。先ほどまでクラスメートたちがたもろっていた店の方をちらりと見やれば、ぞろぞろと彼らが歩き出す姿が見てとれた。二次会に移動するのだろう。行き先がカラオケ屋なのか飲み屋なのかは分からなかった。分かっているのは、二次会に城崎が参加をしないということで。
先に城崎の方がうつむくように視線を逸らした。
「…………行けよ。俺は帰るから」
「城崎、俺は、」
「分かってるから、早く行けって。……今日は、もういいから」
「────」
じゃあ、と小さな声で告げると、城崎は中島に背中を向けた。繁華街の人通りの中を縫うように歩き去っていく背中を呆然と見送って、中島はなにも言葉をかけることができなかった。
……どうしてうまくいかないんだろう。
好きだから会いたい。そばにいたい。ふれたい。たったそれだけなのに。こんなふうに相手を苦しめることになるなら、なんのために付き合っているんだろう。
分からない。理解できない。
だからと言って自分に合わせてほしいわけじゃないのだ。城崎を変えたいわけでも、困らせたいわけでもない。なのに〝なんで〟と思ってしまう自分が嫌だ。相手を責めるように思うのが嫌だ。そういう気持ちが溜まって溜まって、ただひたすら哀しくなる──。
「おい中島、どうした。行くぞ?」
ほんの近くからそう呼びかけられたけれど、中島はすぐには反応できなかった。どうした、と繰り返して、呆然と立ち尽くす中島の顔を覗くようにして、青木が隣に並んでくる。
「中島?」
「……俺、バカだ」
振り返りもせずにぽつりともらした中島の言葉に、え? と青木が問い返した。
──別々の人間なんだ、違うのは当たり前だろ? 他人なんて絶対理解できないよ。
そんなふうに言ったのは青木だった。
別に悩み相談をしたかったわけではなかったが、二次会のカラオケ屋の一室で、誰かが歌う大音量の中、青木にさりげなくどうかしたのかと問われれば、中島はつい素直に「全然相手のことを分からなくて困っている」と答えていていた。
その〝相手〟が城崎のことだと気づいているかもしれなかったが、青木はなにも言わなかった。
誰かが歌う曲にときどき合いの手を入れたり、囃したてたりしてきちんと場に盛り上げながら、隣に座った中島に対して言葉を返す。それはいい加減に対応しているようにも見えたが、青木はなにげない風を装いながらしごく真面目だった。
──俺も他人のことマジで全然分かんねーって思うこといっぱいあるよ。なんでそんなことで怒るのかな、とか、なにがそんなに嫌なのかな、とか。全然分からないから、こっちも予防できないし対応できないし、それでまた怒らせたりするし。
──でも、だからさ、全然理解できない別々の人間同士なのに、気持ちが交差したとき、すごいなって思えるんじゃないの。
そういうものなのかな、と中島は訝しく思う。でも、もし気持ちが交差しなかったら? そうしたら、理解できないままで終わってしまわないだろうか。
……結局、二時間が三時間に延長されたカラオケの二次会が終わって、中島は寒い二月の遠い道のりをとぼとぼとひとりで帰り、兄に迷惑にならないようこっそりと部屋に戻ってふとんをかぶって寝たけれど、昼過ぎに起きても携帯にはなんのメールも着信も入っていなかった。
土曜出勤で出かけた兄の言い付けに従って、洗濯と掃除をして、ぼうっとしていればすぐにバイトに行く時間になっていて、中島は重い身体を引きずって部屋を出た。
今ごろ、城崎はなにをしているだろうか。
そんなことを思う。
いつもだったらバイトに行く電車の中でメールをするところだった。行ってきます行ってらっしゃいの短いやりとりでも、それだけで心が躍るような気持ちがした。……けれど今はそれができない。城崎がどうこうというよりも、自分の気持ちに整理がつかなくて、なんてメールをすればいいか分からない。
バイト先へ向かう上り電車の中で、手の中に携帯を握りしめながら、中島は途方に暮れた。
考えなしに連絡をして、また傷つけたりするのは怖い。けれど、このまま〝理解できない〟で終わるのは嫌だ。
流されるように、諦めたくないのだ。
きちんと理解したい。相手のことを知りたい。なにを考えているのか、どう感じているのか。全部は無理でも、せめてその一部だけでもきちんと知って理解したい。
無神経に相手を傷つけてしまわないように。
そう思ったとき、ふと中島はひとつのことを思いついていた。
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