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 ──どうしよう、どうしよう、どうしよう。  兄の部屋を飛び出してから約一時間後、中島一臣は頭が真っ白になった状態で、また部屋に駆け戻ってきていた。  夜の十一時少し前、毎朝六時には起きて会社に行く兄はもう寝る時間だ。  小降りになった雨の中を走って、屋根のあるアパートの廊下に飛び込んだとき、そこでようやく中島は我に返った。  中島は一LDKの兄の部屋の居候だった。部屋はひとつしかないからリビングの一番奥の、布団一枚分のスペースを間借りしている。水道代も電気代もガス代も家賃も全部兄持ちで、スペアキーを持ち自由に出入りをして、そうやって兄の生活を浸食している。  玄関のドアの前でいったん立ち止まり、中島はなるべく音をたてないようにドアを開けた。  ──一時間前、ちょっと出てくると言い置いて、このドアを開けて飛び出した。  その直前にはリビングの床に対面で座って、真面目な顔をした兄から、自分の家の〝家庭の事情〟について説明を聞いていた。聞いたのは、なんとなくうすうす気づいていたことと、まったく知らなかったこと。最後に「どうする?」と兄が聞いた。  どうしたらいいんだろう。中島はそれが分からなくて、すぐには返事ができなかった。そして、なぜか不意に近くに住んでいる同級生に会いたくなって、部屋を出たのだ。 「なんだ、帰ってきたのか」  静かにドアを閉めてこっそり部屋に戻れば、キッチン兼ダイニングから一続きのリビングがまだ明るく、兄が起きてテレビを見ていたものだから、中島は驚いた。 「あ、ごめん。起きてたの?」 「いや、もう寝るとこ。おまえ、どうした、それ」 「え? あ、これは──」  顎を上げるようにして兄が指し示したのは、中島の手にした、濡れて色の変わったトレーナーとジーンズ。そして着ている別の服だ。それらの事情をなんとも説明しがたく、中島は言葉に迷った。だがそれを察したのか、すぐ兄は「まあいい」と言って立ち上がっていた。 「俺は寝る。うるさくするなよ」  そうしてあっさりと自分の部屋へ行き、襖を閉める。その姿を見やって、もしかして心配して待っててくれたのかな、と中島は思った。  ……心配をかけすぎだ。分かっている。自分はあまりにも頼りなさすぎる。  ひとつ大きく息を吐いて、中島は手にした服を洗濯機に放りこもうと洗面所に向かった。ほとんど無意識で洗濯機の蓋を開けて濡れた服を放りこんで、そこで我に返った。  今、着ているのは黒いダウンジャケット。それに紺色のトレーナーとスエット。  ──すべて城崎のものだ。 「っ、」  あ、と身体の力が抜けて、中島はその場にへたり込んだ。洗面台と洗濯機に挟まれた狭いスペースで、ひとり戸惑い、自分の肩を抱くようにダウンジャケットを掴む。 「……どうしよう」  そして苦しく呟いた。  城崎圭は、中島と同じ大学に通うクラスメートだった。大学からは少し離れたこの地区の、徒歩十分くらいの近所に住んでいる。  それを中島が知ったのは偶然だった。そのときはまだ兄の部屋に居候はしておらず、ちょうど同居に関して相談に兄宅に来ていて、そこからバイト先に向かう途中で出会ったのだ。  最寄駅のホームへ上るエスカレーター。  ぼんやりと人の顔や格好を見るくせがある中島は、ステップの二段前に立っている男の背中に見覚えを感じたのだ。あれ、と思って、列から飛び出てエスカレーターを歩いて上って近づけば、いつもとは全然違う格好をしていたけれど同級生だとすぐに気付いた。  ……いつもは地味な格好をしている城崎。でも週末に出かけるときは、まるで雑誌のモデルのようなカッコいい格好をしている。  その理由を中島は知らなかったけれど、知らなくてもいい、と思った。  声をかけたとき、ふと困ったような顔をする。嫌なときは嫌だとはっきりと言う。だけどそうじゃないときは、なんだかんだいって優しいのだ。  城崎は優しい。それだけ知っていればいいと中島は思っていた。  なのに。  ──なんだよそれっ、おまえに俺のなにが分かるっていうんだよ! 優しいとか迷惑だとか、俺がなんでこんなふうにっ。  ──分かっただろ、俺はゲイだよ。男が好きな薄汚いホモだよ。それを、俺がどんだけ気を張って隠してきたと思ってんだよ! なにが優しいだよ、なにが好きだよ。簡単に言ってんじゃねえよ! 俺のことなんにも知らないくせに、そんな簡単に……っ!!  血を吐くようなその叫びに。  全身で訴える彼の絶望に、どうしようもなく中島まで泣きたくなっていた。  兄から〝家庭の事情〟を聞いたあと、なんだかひどく気持ちが落ち着かなくなり、急に城崎に会いたくなって、強引に会いに行った。電話では戸惑いがちだった城崎は、傘も持って出るのを忘れてびしょ濡れになった中島を見て、すぐに部屋へ連れて行ってくれた。シャワーを勧めて、乾いた服を貸してくれて、温かいコーヒーまで淹れてくれて。  その優しさに、一方的に甘えすぎたのだ。  城崎のことをなにも知らずに、なにも考えずに、無神経にプライベートを暴くような真似をして、彼を傷つけた。……そう、自分はきっと、ずっと傷つけてきたのだ、彼のことを。  彼だっていろんなこと悩んで傷ついて必死なのに、彼の気持ちも考えずに、ただ自分の感情ばかりを押し付けた。彼は周りに流されず、ひとりでいても平気だと自分勝手に思い込んで。  ……あんなふうに、城崎が自分のこと貶める必要なんてなかったのに。  城崎は優しいんだ、本当に。  あんなふうに城崎は自分を卑下したけど、中島は知っている。  彼の優しさはただあからさまじゃないだけだ。ぶっきらぼうで言葉も乱暴で、だけど奥の奥でごく自然に優しくする。あの日だってそうだ。自分勝手に気持ちを押し売りした中島のことを、声を荒げて罵倒したくせに、わざわざ部屋に戻ってジャケットを出して渡してくれたのだ。中島のコートは濡れていたから。 「あ、」  ハッと気づいて中島は慌ててジャケットを脱いだ。近くにあった洗いたてのタオルを掴んで、ジャケットの表面についた水滴を丹念に拭う。  ――戻ってきてまだいたら、なにするか分からないからな。  念押しの警告。  でもあれは嘘だ。中島はそう思う。自分を遠ざけるために吐いた言葉だ。もし本当に彼が乱暴するつもりだったなら、あのまま止めずにいたはずだ。暴力的な力で強引に壁に押し付けて、貪るようなキスをして、あのまま――。 「っ」  そのときのことを思い出した途端、かあっと全身が熱くなって、中島は身体を縮めた。  突然、腕を掴まれた。それから狭いキッチンの壁に押しつけられて、キスをされた。無理矢理唇を重ね合わされ、舌を奪われ、貪られた。どうしていいか分からなくて、反射的に逃げようとしたけれど、身体を押さえつけられた。強引に膝を割られて押し当てられた彼の熱は、僅かに兆していて──。  ……あのまま、彼がやめなかったら、どうなっていたのだろう。考えただけで身体がぞくぞくしてきて、中島はうろたえた。  彼の欲望、彼の熱。  借りっぱなしのトレーナーとジャケットからほのかに城崎の匂いがする気がして、早く脱がなければと思ったけれど、それを手放したくないような気もしてきて。  どうしよう。俺、興奮してる――。  思いがけずじわじわと身体の奥から湧き上がってくる熱を持て余し、途方に暮れたそのとき。 「……何やってんだ、おまえ」 「っ!!」  なんの前触れもなく、突然洗面所の引き戸をがらりと開けて顔を出したのは兄だ。ジャケットを抱えたまま床にうずくまっていた中島は飛び上がるほど驚いて、後ろにひっくり返りそうになり、慌てて床に手をついて身体を支える。 「と、つぜん、開けるなよ!」 「ああっ? ここは俺の部屋だぞ。文句言ってんじゃねえ」  どんな主張をしたところで兄にかなうわけもなく、ううう、と中島は言葉を飲み込んだ。そんな弟を見下ろして、兄は僅かに顔を歪める。──そして一言。 「マスかくなら、便所か風呂でやれ」 「ッ、兄ちゃんっ! デリカシーってものを知らないの!?」 「はあ? おまえにデリカシーなんてもの存在するのか。デリカシー主張するならむしろ俺の部屋でするな。外行ってやれ」 「それじゃあ犯罪だよ……」  非道な兄の発言にげんなりと中島は肩を落とした。  けれど確かにここは兄の部屋で、自分は一時的な居候でしかない。兄弟とはいえ、彼のプライバシーを侵食しているのは自分の方だ。……いつまでもこんな生活を続けていけるわけもなく。  ──選択をしなければならない。  自分できちんと決めなくてはいけないのだ。 「兄ちゃん、」 「なんだ」  呟くように呼べば、予想外にまだ近くに兄がいて答えて、中島は顔を上げた。  兄は面倒くさそうにへたり込んだ弟を見下ろしている。だけどその目は、きちんと先を促して。  どうしようもなくその言葉は溢れ出すように口をついて出た。 「──兄ちゃん。俺、やっぱり、大学辞めたくないよ」
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